第5話 ウェンベルンの生き残り

 その夜、夕食を終えてリビングで就寝までの時間を過ごしている時だ。

 ソファに腰かけた先生が膝の上に乗ったリーゼルをブラッシングしながら、ふと話し始めた。

「ハインツ、君は魔法を学んだ方がいいかもしれない」

「え?」

 リクライニングチェアに座って読書をしていたオレは、顔を上げてそちらを見た。

「どういうことですか?」

 先生は手を止めることなく言う。

「君にどうしてあんな魔法が使えたのか、僕には分からない。でも、正しく使いこなせるようにした方がいいと思うんだ」

「正しく……?」

 オレはふと眉を寄せる。

「じゃあ、先生が教えてくださいよ」

 彼がちらりとこちらを見て首を振る。

「それはしたくない」

「何で? ずっとそうじゃないですか、どうして魔法を教えてくれないんですか?」

 本にしおりを挟むのも忘れて立ち上がった。

「先生は世界一強い魔法使いなんでしょう? それなのに、どうして教えてくれないんですか?」

「……君が大人になるまで話せない」

「大人って……!」

 感情のままに返そうとして先日のことが思い出される。オレはもう十六歳だけど、まだ十六歳だ。先生からしたらまだまだ子どもで、目を離せない存在。

 悔しくて拳をぎゅっと握る。唇を引き結んで、足元に落ちた本をそっと拾い上げた。

「だったら、どうして大人になるまで話せないのか、その理由だけでも聞かせてください」

 と、二階へ続く階段へ体を向けた。

 先生は少しの間を置いてから、どこか弱々しい口調で答えた。

「ハインツを傷つけてしまうから」

 何だよ、それ。どうしてオレが傷つく? いったいどんな事情がそこにはあるんだ?

「……分かりました」

 胸のもやもやは増すばかりだが、オレは静かに返して階段を上り始めた。先に背を向けたのはオレだったが、先生が今夜も一緒に眠ろうと言ってこないことが寂しかった。

 矛盾した自分に嫌気が差して、オレは手にした本を胸の前で強く抱きしめる。


 いつもより早い時間にベッドへ潜り込んだ。胸には薄汚れたテディベア。

 先生と暮らすようになって七年、はっきり言うとオレたちの間には距離がある。壁と言ってもいいかもしれない。

 それはオレが彼を「父さん」と呼べずにいるからであり、彼がオレに何かしらの隠し事をしているからでもある。特に過去のことはほとんど話してくれず、さっきみたいにまだ話せないと言うばかりだ。

 オレがどんなに聞いてもダメなのは経験上知っていた。彼が話す気になるまで待つしかない。

「……何で」

 ヘルマンさんやアロイスさんも先生の過去についてはあまり教えてくれない。世界で唯一混成魔法を使える最強の魔法使いで、先の戦争で活躍したらしいとしか。

「何でオレなんかを引き取ったんだろう?」

 疑問はずっとあった。

 幼い頃、オレはウェンベルンという国境近くの街に住んでいた。優しい母と頼もしい父がいて、近所には友達もたくさんいた。オレはあの街が好きだったが、ある時そこは戦場になった。

 恐ろしい音が街中に響いていた。母さんはとっさにオレを地下倉庫に隠し、静かになるまで出てきてはいけないと強く言いつけた。

 母さんが扉を閉めた後、何もかもを吹き飛ばすような、すべてのものを焼きつくすような轟音ごうおんがして、オレはそれがおさまるまで待った。耳をふさいで、ぎゅっと身体を丸めて、壁際に座りこんで……母さんが迎えに来てくれることを、最後まで期待して。

 気づくと見知らぬ大人がオレを見つけて保護してくれた。すぐに施設へ送られたが、そこでオレは自分の街が戦場になったこと、魔法使いによって破壊されたことを知った。

 もう帰ることはできず、両親も友達も、みんなもういないことを日に日に理解し、実感して、オレはいつしか大人たちから「ウェンベルンの生き残り」と呼ばれるようになっていた。

 施設での暮らしにはあまり馴染めなかった。楽しかった記憶もあまりない。覚えていることと言えば、彼との出逢いだけだ。

 最初に会った時、彼はしゃがみこんで目線の高さを合わせてくれていた。

「初めまして、ハインツ。僕はフロレンツ・ノルデン。君と仲良くなりたいんだけど、どうかな?」

 と、どこか緊張気味に言って手を出した。

 上等な服を着ているわけではなく、髪の毛は中途半端な長さでボサボサだった。背は高くて痩せており、とうてい子どもを引き取りたいようには見えなかった。

 オレが戸惑って何も言えずにいると、彼は出した手を引っ込めて困ったように言った。

「僕はイシュドルフでお店をやっているんだ。魔法雑貨屋なんだけど、分かるかな」

「……まほう? まほうつかい、なの?」

 その頃はまだ街の悲劇を引きずっていたから、魔法使いというものが怖かった。

 彼は「うん、元魔法使いだよ」と、優しい声で答えた。けれど幼いオレは思ったのだ。

「ぼくのまちをこわしたひとだ」

 悲しい顔をして彼は笑い「うん、そうだね」と、うなずいた。

「また会いに来るよ」

 立ち上がってその日はすぐに帰っていった。オレは自分が悪いことをしたようだと気づいたが、どう言葉にしたらいいか分からず、何も出来ないまま彼の背中を見送った。

 それから何度か彼が会いに来た。施設の大人と話をしていることもあった。

 そして最終的に養子縁組をしたわけだが、どうしてオレを引き取ってくれたのか、今でも分からないままだ。強いて言うならオレが「ウェンベルンの生き残り」だからかもしれない、とは思う。

 失われた街の唯一の生き残りだから、きっと元魔法使いは哀れに思って引き取ってくれたのだ。――たぶん、そうだといい。ただそれだけの単純シンプルな理由なら、いい。

 まぶたが重くなってきて、オレは考えるのをやめると目を閉じた。

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