蜘蛛の糸
長串望
第1話
子供の
いつも爪を噛んでいたから、特に親指や人差し指の爪はガタガタで、まるでのこぎりか何かのようだった。それは時々において服の布地だとか、雑巾の裂け目だとか、あるいはタオルのパイル地だとかに引っかかってはめりめりと引き裂かれて、しばしば少なくない出血をしてあたりを汚していた。
そんな爪でことあるごとにがりがりと指をかくものだから、私の指の皮は何度も血が出るまで剥けては治りを繰り返し、いまではがさついた角質と化して、頻繁にべりべりと剥かれては血をにじませていた。
大した意味などはなかったけれど、私は気が付けばそうして無意識に、特に親指の、がさついて硬くなった皮を引きはがしていた。
ささくれのない指など探す方が大変だった。
冬でもないのにいつも乾燥してがさついており、あばら家の壁の木目のごとくに、いつもささくれていた。
そしてそれを治そうとするでもなく、丁寧に爪切りできるなどでもなく、私はいつもそっとつまんでは、どこまで剥けるかか試すようにゆっくりと引っ張っていた。
ように、というよりは。
実際それは試しだった。
ぴりぴり、ぴりぴりと、ささくれを引っ張って皮がむけていくのが面白かった。
すう、と一すじの糸を抜き取るように、細く皮がむけていくのは心地よかった。
やがて血がにじむようになり、ついにぶっつりとちぎれてしまうと寂しかった。
心躍るとか、胸が弾むとか、そういう面白みではない。
ただそうやって自分の指先を痛めつけているときは、なんだかひどく落ち着いた。
落ち着いたというよりは、そうしていないときはいつだって落ち着きがなかった。
ささくれているのは、指先よりも私の心の方だったのかもしれない。
私の心のささくれがむけられるのはいつだって私の指先だった。
顔に出すまでもないような、口に出すほどでもないような、けれど無視もできないもやもやが、私に私の指の皮をむかせた。
血が出るまでむいて、それでようやくいけないいけないと手を止めるけれど、気づけば何度でも繰り返していた。
だから私の指先はいつも血の匂いがしていたような気がする。
じんわりにじんだ血をなめていたから、いつも血の味がしていたような気がする。
そうして無駄に舐めていたから、ますます乾燥が進んで私の指先は荒れていったような気がする。
子供の時分にはそんな指先を気味悪がられて、私には友達と呼べるようなものはいなかった。
ノートにはしばしば血の跡がつき、体操服にだって赤茶けたシミがこびりついて落ちないのだ。
遠巻きにされ、陰口をたたかれ、露骨に汚らしいものという扱いを受けても、私は別段それをいじめとも思わなかった。
持ち物を隠されたり汚されたり、また殴られたり蹴られたりといった直接の被害がなかったのが理由かもしれない。
誰に言っても多分眉を顰められるし、それは私の精神が追い詰められていたのだと解釈するかもしれないが、私にとってはそれはお互いにとってちょうどよい距離感だったのだ。
いくらか年を重ねて、制服など着る年頃には、私も少し分別というものがついてきた。
いくらかの人付き合いもするようになり、それなりに人と会話もするようになった。
露悪的な言い方をするならば、私は人間のふりをするのが随分うまくなったようだと自賛していた。
自分の指先が人に与える印象というものをよくよくわかっていたから、いつも色の濃い薄手の手袋を履いていた。
手を洗う時だとか、汗をかいて交換するときだとか、また理科の実験で危ないから外さねばならないときだとか、そういうときにはひどく驚かれもしたし、心配されたりもしたが、笑顔でやり過ごすすべも覚えた。
別に何でもないの、大丈夫そういう体質なの、いじめとかストレスとか、そういうのじゃ全然ないの、でもみんな気にするといけないと思って手袋してるだけだから、みんなには内緒にしてね、困ってしまうから。
母親譲りの顔の良さと、父親譲りのよく回る口が、軽やかな愛嬌と若干の神秘性という上っ面となって、私は中学、高校、そして大学までをもやはり程よい距離感でやり過ごした。
いまや疎遠となったどころか顔も覚えていない同級生諸君には、私がいたいけな衝動をこらえぬいたことによくよく感謝してほしい。
社会人となって一人暮らしするようになっても、私の悪癖は変わらなかった。
顔へのスキンケアはまるで惜しみもしないのに、私の指先は何かしら重篤な病の末期患者か何かのように荒れ果てていた。
何双かの手袋が、常に替えとして部屋にも、鞄にも、職場にも常備されていた。
それでも、私の指のことや、私の悪癖を知ったうえで、私と一緒にいたいといってくれる人にも出会えた。
私も指、よくささくれちゃうんだよねって、はにかむように指を見せてくれた日に、私は恋というものを知った。
書類には名前を並べられないし、法律が私たちを守ってくれることもないけれど、それでも私たちは同じ屋根の下で、同じ日々を過ごすことができた。
ただ、やはり、どうしても、同じものを見ることはできなかった。
私の心は、ささくれていたから。
ところで、ささくれは親不孝者にできる、などという迷信があるらしい。
最近知った。
なにしろ今時分は毒親だの親ガチャなどというワードが市民権を得る時代だ。親不孝なんて言う言葉自体が、この令和には大分廃れてきているからだろうか、この迷信はトンと聞いたことがなかった。
私の親は、何しろこんな私を一応は人間らしいそぶりができる人間に育て上げてくれたし、そのうえで私の悪癖を過剰に心配することも気味悪がることもなく、ちょうどよい距離感をもっていてくれるから、私は二人に感謝こそすれ反抗する気などないし、健康に気を遣っているので二人より早死にする気もない。
お母さんとお父さんと、まあどちらが先に死ぬかはわからないけど、ふたりの墓の面倒も見る気でいる。
ただまあ、親不孝といえば、親不孝なのだろうなあとは思う。
「娘が犯罪者になったらさすがに親不孝だよね……ばれないようにしないと。だからしぃちゃんもみんなには内緒だよ?」
私は椅子に縛り付けた彼女に笑いかける。
彼女の指に笑いかける。適度なストレスと乾燥で、ほどよくささくれだった彼女の指に。
そしてそのささくれの一本を、指でつまんですうっと引く。
ぴりぴり、ぴりぴりと、ささくれを引っ張って皮がむけていくのが面白かった。
すう、と一すじの糸を抜き取るように、細く皮がむけていくのは心地よかった。
やがて血がにじむようになり、ついにぶっつりとちぎれてしまうと寂しかった。
心躍るとか、胸が弾むとか、そういう面白みではない。
ただ、どこまでも清々しく、満ち足りたような気持ちがした。
一すじの糸のようなささくれに、どうしようもなく私は救われていた。
蜘蛛の糸 長串望 @nagakushinozomi
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