本編 ⑫
朝は来なかったが、俺を叱り飛ばした後に抱擁する母ならば存在した。
いつ眠りに落ちたか覚えていないが、カオサンの喧騒がだんだん遠くになっていくに従い、体が十センチほど宙に浮かぶような感覚があり、そこから急なスピードで恐らく時間であろう螺旋に巻き込まれて、気がついて目覚めれば、タヒチかフィジーあたりの澄んだ青い波打ち際に流れ着いていた。立ち上がり、衣服に絡んだ砂を払い、白い砂を踏みしめると「きゅ」と可愛げのある音が鳴る。こんなにも美しい鳴き砂のビーチになどもう一生、来れないと思っていただけに、ここがどこで、なぜ俺がここにいるかなんて細かいことは気にならない。
陸地のほうを見ると、ハワイにおけるピンクパレスのマイタイバーのような一軒だけオンザビーチの居心地のよさそうな吹き抜けの食堂のようなところがある。ここがどこの国かわからないけど、一曲歌えば何か飲ませてくれるだろうと高を括って、恐る恐る近づいて行くと、籐の客席には向日葵柄のムームーを着た俺の命の恩人であるユキエさんが座っていて、まるでスクンビットのフジスーパーでばったり会ったみたいに「あら。リュウちゃん。随分経つけど、やっと会いに来てくれたのね」と手を振り、にっこりと笑った。
そんな笑顔は久しく見たことがないというくらい、好意と母性と懐かしさで溢れていて、俺をただの無防備で無遠慮な子供にさせる。六本木の連中や俺の運命を狂わせたあのパワハラ上司に抱いたどす黒い悪感情ですらまっさらになってしまいそうだ。
俺は、ユキエさんの向かいの席に座って、忘れかけていた、あの頃はあって当たり前だった安らぎを感じ、自然と笑顔になってゆく。
「少し痩せた?ストレスと忙しさにかまけてちゃんと食べてないんでしょ?」
「はは。そう言うユキエさんは変わらないなぁ」
「相変わらず、口は達者ね。こんなおばあちゃんをからかうなんて」
「そんな!俺が嘘ついたことあります?」
「あなたがうそをつかなかったことがある?」
そんな言葉遊びよりも話したいことは尽きることなく、山河の如くあるが、先ずはあの時の御礼だろう。そうでなければ、今日までどんな目に遭わされても、図々しくもしぶとく生きてきた綱渡りの日々の意味がなくなる。
「そうだ。俺は、ユキエさんに御礼しなきゃいけないいけないと思って、ずっと生きてきました」
「うん」
「あの時は本当にありがとうございました」
「いいえ。あたしはただおしゃべりをしただけ。命の恩人だなんてこそばゆいからやめて頂戴。それよりも生きててくれてありがとうね」
「そんな、俺は全然、お礼言われるようなことは何もしてませんし、ユキエさんには見せられないようなくだらない人生を生きてます」
「くだらなくはないわ。あなたがいつも神仏を敬い、年長者を敬い、友達を大切にし、女の子や子供に優しくし、自分の幸せよりも身内や他人の幸せを優先して心から願い、広く日本や世界のことを憂い、考え、弱い人を人の見てないところで助けてること、あたしはみんな知ってるわ」
「でも、現実は……」
俺は、六本木でのツラく、屈辱的な日々の一切を思い出し、コップから水が溢れだすように泣き崩れてしまった。この世界に理解者など誰もいないと思っていた。最後の日まで荒天の荒れ地を力尽きるまで一人ぼっちで歩かなければいけない運命だと思っていた。後者は多分、そうなんだろうけど、ユキエさんは、ユキエさんだけは理解者でいてくれているみたいだ。
「あなたは強いの」
「俺なんてダメですよ」
「考えてもみなさい。あんなに酷いこと言われて、見下されても、嘲笑われても、怒鳴り散らされても、威張り散らされても、嫌がらせされてもあなたはどこ吹く風で表ではニコニコしているじゃない。普通の子だったらとっくにメンタル病んでるか、自殺してるかだわよ」
「だって、俺、今まで普通の神経じゃ生きてこれなかったし、生きてユキエさんに会って御礼が言いたかったから、死にたくても生きるしかなかったんです」
「それは嘘ね。あなたは元々強いの」
「嘘じゃありません!」
「嘘じゃないんだったら涙を拭きなさい。男の子がいつまでもみっともないわよ」
普段、Lなんちゃらを嵩にかけて、間違った男女平等を説く、精神的にも肉体的にも気持ちの悪い連中を心底、軽蔑している俺だが、いざ「男らしくない」と言われると、やはり厭で、溢れる涙を腕で拭い、いつものように奥歯を噛みしめて痩せ我慢をした。それでも、無理に笑うところまでは至らず、いつまでも涙声だ。
「それと、余計なことだけど、あんまり自分を責めて、鞭を打って自分をダメな奴だって思い込むのもやめなさい。あたしのこと大事に想ってくれたように、もう少し自分のことも大事に労わってあげなさい。いい?わかった?」
「はい」
「それと、生きてあたしに会って御礼言ったからって死んだりしちゃだめよ。あなたには苦しみながらも天寿を全うしなければいけない使命があるの」
「はい」
「わかってくれてよかった。それじゃ、あたしのお役目もここまでね」
「え?どういうことですか?」
「リュウちゃんが毎日、ツラそうだったし、あたしに会いたがってたから、三十分だけ許可を貰ったの」
「え?許可って何のことですか?厭だ!ユキエさん、行かないで!」
「そんな可笑しなことよ。リュウちゃん。笑って別れようよ」
「厭だ!厭だ!ユキエさん、行かないで!」
「リュウちゃん。いつかまたどこかで会えるからね」
「行かないで!一生のお願いだから!」
「いい?今度は自分の為に生きなさい」
「何でもするから、行かないで!」
陽が落ちはじめ、射してゆく翳にゆっくりと塗りつぶされてゆくようにユキエさんとユキエさんの微笑みは消え、俺はいつまでも夜勤に行く母を引き留める子供のように「行かないで!」と何度も叫び、泣き続けた。それは悲しさでも淋しさでもない。何か上手いこと説明できない類の感情が俺をそうさせ続けた。
聖母の消えた世界。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます