本編 ⑦


「癒された」というよりも「幸福の在処」に坐したまま、ウトウトしながら詩的な言葉を紡いでいると、酔いは気持ちよく訪れ、心に掛かっていた暗雲と執着とそれによっていつも世界を暗くつまらないものにしていた背中に重くのし掛かった鉄板の如き重量が何者かに許されたように外れ、身も心も軽くなると、今度は女の白く豊満な、いや、別に白く豊満でなくてもいいのだけど柔肌が恋しくなる。

 もう十年近く女は抱いていないし、同じ期間、特定の人に恋心を抱いたこともないというのに、全く因果なものだ。

 バンコクと言う自由の地の空気に潜む粒子が助平の虫を叩き起こして煽動させるのか。俺は困って苦笑したが、脱獄の解放感は真面目腐ったモラルのことなんか存在していないもののように捉え、俺を直情的にさせる。

 川に酔う感傷的な詩人は一瞬にして俗世間に堕ち、気付いたらラチャダムヌーン通りのピンカオ橋手前の広いバス停でタイ人の群衆に混じってペップリータットマイに向かう512番のエアコンバスを待っていた。時間の惜しい三泊四日のツーリストならば、流しのタクシーを捕まえるのだろうけど、あの頃の俺は風俗通いもバスでやったものだ。BTS(南朝鮮の糞グループではない)の開通はこの翌年だし、ヤワラーの冷気茶室ならば歩いて行った。

 定刻が存在しないタイのバスは来ない時は一時間以上来ないし、来る時は続けて三台団子になって来るなんてまるでこの国の人の気性のような気まぐれぶりを発揮するのが常だが、目当てのバスは珍しく十分もしないうちにやってきた。あの頃と違ってタイ文字で行く先が読めるので、同じ番号でも路線が違うバスに乗る心配もない。

 昼下がりの中途半端な時間なので、余裕で座れ、お釣りやチケットの入った細長い銀色の円筒型の入れ物をカシャカシャ言わせながら俺の席にやって来た薄いブルーの制服を着た落合信子夫人に似た車窓さんに「パイペッブリータットマイエカマイ」と告げ、二十バーツ紙幣を渡すと、エアコンの冷気が火照った肌に気持ちよく、俺はお釣りを受け取るのもそこそこに船を漕ぎ始めた。タイで午睡などもう一生できないと思っていただけに、眠るのが珍しく怖いと感じなかった。

 夢を見ずに目覚めると、エカマイのチャーンイサラタワーが見えたので、もう下車しないといけない。あれから小一時間も経っていない。渋滞がなければ、バンコクは意外と狭い街だと言うことがわかる。

 スンウィンチャイのバス停で降り、パクソイのセブンイレブンで瓶のレッドプルを購入し、店の前で腰に手を当てて飲み干すという買淫前の儀式(ルーティーン)。日本では現在、缶入りの奴が二百十四円だが、こっちではリポビタンDサイズの瓶が十二バーツ(当時のレートで三十円)だ。空瓶を壊れた電話ボックスに放置し、先ずは目と鼻の先の「リビエラ」を目指す。

 この風俗店は入口に英語とタイ語で「白人お断り」という看板を掲げている。ケチなくせに要求が面倒くさいのと、九十年代初頭のエイズ騒動の名残だろう。それに、パタヤあたりにいがちな白人にぶら下がるタイの女を見るのは個人的にあまり好きじゃないので、俺は贔屓にしていた。尤も、コロナ騒動でその歴史に幕を下ろしてしまったのが残念でならないが…

 七メートルほどの脇がレストランの客席である長い廊下を抜け、泡姫が集まった金魚鉢の前に着くと、長身イケメンのコンチアノップさんが目ざとく俺を見つけ、笑顔で近づいてくる。俺は懐かしさで涙ぐんでしまった。

「ピーノップ、ワディガップ(ノップさん、こんちわ)」と両手を合わせる。サーヴィスされる側とは言え、年上は敬うのがアジアの常識だ。俺にワイ(拝み、日本のお辞儀に相応)を返したノップさんは自ら試したのかどうか知らないが、半笑いで「あの子いいよ」と言いたげに顎をしゃくった。その先にいる嬢はタイ人にしては色が白く、紫のドレスが目を引く、ギルガメッシュナイトに出ていた水谷ケイをふくよかにしたような典型的な中年女と言っただらしない体躯で、あまりタイプではないが、サーヴィスや居心地の良さで選ぶならこういうタイプだというのはこの年齢になればわかるし、毎回、チップをあげているノップさんが俺を騙すとも思えない。タイ人はこういうところ意外と義理堅いのだ。仮にここがイマイチでも「バンコクコージー」、「メリー」、「エビータ」、「ビワ」と河岸を換えていくうちにそれとなく理想とするものに辿り着けるものだ。最悪、「ビワ」でカオパ(チャーハン)とコームーヤーン(豚の喉肉焼き)で一杯やって帰るか、ナナのゴーゴーに行くかすればいい。実に暢気なものだ。

 結局、俺は欲情に勝てず、ノップさんの提案に従い、その女を抱いた。

 直感の通り、技者で、個室に入るなり、言葉を交わす前に即尺でいかされ、お風呂とベッドで一度ずつ甘く激しく情を交わしたあと、汗ばんだベッドでお互いの体を何かを惜しむように愛撫しながら、独り言に反応した俺がタイ語が分かると知ると、心を開き、イサーンの田舎に残してきた可愛い盛りの子供のことや別れた旦那のひどい浮気癖と逆上して包丁まで持ち出すようなひどい酒癖なんかを赤裸々に話すビーちゃんは二十二歳と言っていたが、怪しいものだし、女のこういう嘘には騙されてあげるのが礼儀だ。

 かと言って、その身もふたもない嘘を信じ、同情から身も心も捧げる覚悟をし、大金貢ぐような男は下の下の下だ。そういう男の風上にも置けない五流どころは消費者金融で飽き足らず、賞与や退職金までバンスし、家や車を売り払い、子供の学資保険にまで手を付け、骨の髄までしゃぶられ、穴の毛まで毟られればいい。

 俺の「騙される」というのは、あくまで精神的な話をしているし、それを否定せずに聴くというのが重要なことなのだ。

「ごめん。こういう話、退屈だったでしょ?」

 自分でも喋りが過ぎたことはわかっていたのだろう。ビーは少し慌てて、つまらない駄洒落か冗談を取り消すような気まずさで俺を直視した。

 俺は優しく首を横に振り、濃い白粉の匂いのする頬に口づけた。

「ビー、ポムラッククン(ビー、愛してるよ)」

 売女に真実なんてどこにもないし、俺が誠実になる必要もない。

 だけど、彼女たちは嘘でもいいから優しい言葉を欲しているのだ。半年間の六本木での苦行で俺も嘘でもいいから誰かに優しくされたいと思ったものだ。売っているものが違うというだけで。

 俺は彼女が田舎に置き去りにしてきたまだ恋も女の生態や神秘も知らない子供になったつもりで、「メ―(ママ)」と甘え、俺の体液で溢れた彼女の使い古されたオマンコに口づけた。あそこは五月の若葉の青々しさと熟しすぎて悪臭を放ちかけているチーズが合わさったような決して食欲をそそらない匂いだった。

 それによって醒めてゆく俺は非礼にも「カオサンに帰んなきゃ」と思った。


 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る