あの頃
野田詠月
序章 ①
六本木なんて大嫌いな街だ。
日本文化に敬意を払わず、日本語も碌に覚えようとしない尊大で傲慢な外人(「毛唐」や「土人」と呼びたいが、差別と言われるのは面倒くさいので「外人」。これすら快く思わない人がいる。本当に面倒くさい世の中だ)と死んだ魚の目のヒルズ族と言う名の人外(あの茶色コート、辞める時にぶっ殺す)と反グレと整形女と「港区女子」と言う名のカッペしかいない腐れ外道な街だからだ。それらのいずれにも属さない残りの着飾った気取った馬鹿どもを好きになれというのは理不尽もいいところだし、俺自身、そんな愛に溢れた善人ではない。
近隣の乃木坂や麻布十番にはまったく負の感情はないのだが、この街で働けば働くほど、そういう者たちに対して憎しみが募り、またそいつらを何の疑問もなく優遇し、おもてなしをする奴らにも「終わりのないなぜ?」を喧嘩腰で問い詰めたくなる。結果、街そのものが憎むべき対象になる。
芝浦での平和な日常を支店を乗っ取る気満々で赴任してきた不平不満と厳しさしか持ち合わせていない顔も性格も河野太郎に似たパワハラ上司に追われ、納得もできず、生きていくために仕方
のないことと諦めた六本木への異動から半年が経った或る日、ふとした気づきがあった。
「あの頃、あの場所で俺や蝟集する外国人に笑顔で携わっていたタイ人たちも今の俺と同じ気持ちだったのだろうか?」と。
あの頃と言うのは、二十世紀の終わり頃のことで、あの場所と言うのは、嘗ては「バックパッカーの聖地」と呼ばれていたタイバンコクのカオサン通りのことだ。
意外な方角からこの不運のデパートのような男にも一応、存在した青春が矢のように飛んできてクロスした。
あの街独特の排気ガス臭いねっとりした熱風が一瞬、吹き抜けたような気がした。
長らく忘れていた怠惰と惰眠と自由の浮遊感が一瞬、頬を撫でたような気がした。
永遠を感じ、心がほぐれ、優しく響くタイ語が一瞬、耳に息を吹きかけたような気がした。
それで感情が激しく揺さぶられ、戸惑うようなことは一切なかったし、況してや、望んでいたことでもなかったが、それなりの懐かしさはあった。
もう二十年も前にさよならを告げたはずのあの街とあの季節を思い出すことがあるなんて……
多くの人はあの街を去り、亦、多くの人はこの世からも去ってしまった。
それなのに、思い出してしまうなんて……
どうかしている。
忘れよう。
今の俺には関係のないことだから。
その時は何もなかったかのように仕事に戻った。
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