ほろ苦い接吻

月神 奏空

第1話

──それは誓いのキス? タバコの匂い


 歳のせいか疲労の溜まりやすくなった身体をソファーに預けて微睡む姿を見ていると、そんな歌が聴こえてきた。かつて彼と寝食を共にしていた彼女とよく似た声に胸の奥が締め付けられるような気分だった。

「……本当に……オレでいいのか……?」

 問いかけに答える声は無い。冷房の効きすぎなのか、背筋が凍るほど寒いような気がする。毛布をかけてやってから床に座り込んだ。


 彼はオレが生まれた時からずっと我が家にいた。住み込みで使用人として働いていたのだ。27歳も離れているから、お兄さんというよりはおじさんと言うべきか、とにかく、憧憬の念は父よりも彼の方に強く抱いていた。

 彼の30歳の誕生日、欲しいものはないかと尋ねたら、まっすぐオレを見つめて『きみが欲しい』と言った。こちとらまだ言葉もはっきり言えないような幼児。よくわからなかったが、殻を剥き終えたゆで卵の白身だけを食べて残りをやった。少し困ったような顔をして笑っていた彼だったが、どこか満足そうだった。

 今思えば、彼──神野じんの貴哉たかやはその頃からオレのことを意識していてくれたのかもしれない。3歳児にそんな感情は持たないだろうと思われるかもしれないが、意識されていたと考えた方がオレの心が落ち着く。

 周りが好きな人がどうのこうのと騒ぐようになると、その頃にはオレは女子から距離を置かれるようになった。女の嫉妬は怖いから、と側に寄ってこなくなった幼馴染の少女はボサボサ頭と分厚いメガネが特徴的な少年とばかり一緒にいるようになっていた。何かおかしい、と思ったのは、家の用事で話しかけようとした時、少女と少年の影がぴったり重なっているのを目撃したのがきっかけだった。

「口付けをなさっていたのでしょうね」

 家に帰って貴哉に相談すると、それ以外に何かあるかと言わんばかりに首を傾げられた。首を傾げたいのはこっちだ、と文句をたらたら零したのは今でもはっきり覚えている。

「なんでキスするのにくすぐる必要があるんだよ」

 少年の手が少女の腰に回っていたこと、そろそろと動く指はくすくっているようにしか見えなかったこと、少女が少し切なそうに息を吐いていたこと。よく両親にキスをされるオレにもよくわからなかった。

「それはですね……」

 薄く色の入ったガラスがなくなると、貴哉の瞳は左右で若干色が異なっているのがわかる。右目は少し淡く、左目は暗く深い。青を基調としている瞳は、昼の空と夜の空の色がどちらもあるようでお得な感じがした。

「目を、閉じてくださいますか」

 まるで魔法をかけられたかのように自然と瞼を閉じる。オレの両手首はまとめて頭上で縫いとめられた。太腿の辺りに膝を当てられて少し足を開くとそのまま壁に押し付けられた。彼の空いている手に顎を掬いあげられても尚、目を開けることはできない。貴哉のことは信用しているが、何度か死の恐怖を味わった身体の震えはそう簡単に止められない。

「……痛く、しないで」

 ようやく絞り出した声はちゃんと届いていたようで、オレの手首を掴んでいた貴哉の手から少し力が抜けた。

「……好きだ」

 思わず聞き返そうとしたが、それは叶わなかった。吐息ごと奪っていく強引なキス。空気を求めて口を開けばぬるりとした何かが潜り込んでくる。軽くパニックになっていると腰の辺りからビリビリと電気のようなものが走る感覚。苦しくて涙を浮かべるが、行為は止まらない。痛くしないで、とは言ったが、苦しくしないで、とは言っていなかった。ぼんやりとそんなことを考えていたが、次第に頭が働くようになってくる。

(タバコの匂い、か? 甘いのに、苦くて……クセがある……)

 貴哉はオレの前でタバコを吸わないようにしているらしい。だから、結構な頻度で一人になろうとする。あまりにも回数が多くなるとオレが我慢出来なくなってここで吸えと灰皿を出してやるのだが、彼は絶対に吸わない。砂糖菓子で誤魔化すようになったのは最近の話だ。

(それに、この味……こいつ、酒飲んでやがる……)

 仕事中だろうがと言いたくもなるが、今日は酒豪の父が休みで家にいたというので、付き合わされたのだろう。仕事中に酒を飲むなんていけないことだが、主人の命令に逆らうのはもっといけないことなのかもしれない。というか、なんなら無理矢理口移ししてでも飲ませそうだし、あのバカ親父なら。

 そういう人なんだ、あの人も、こいつも。

「ぅ、ん……た、かや……」

 いい加減にしてくれ、と抗議するための声は自分のものとは思えなかった。甘ったるくて、媚びるような、気持ち悪い声。思いっきり体重をかければ簡単に手首は放された。口元を抑えてそのまましゃがみこむ。跪いて見上げてくる貴哉は、どこか不安そうだ。

「は、きそ……」

「坊ちゃん、これを」

 差し出されたのは貴哉の上着だった。胃が捻れるような感覚がして、そのまま戻してしまう。それなりにいい物だと思うが、これはもう着られないだろう。今度新しい服を買ってやろうか。

「……申し訳ございませんでした」

 不覚にも笑い出しそうになったのは、貴哉が刑を待つ罪人のような顔をしていたからだ。

「たかがキスくらいで親父に言いつけたりしねえよ。心配すんなって」

 たかがキス、なんて。

「……坊ちゃんの温情に、感謝申し上げます」

 ファーストキスは、ひどく切ない大人の味だった。


 過去に思いを馳せていたら、いつの間にか貴哉がコーヒーを手に至近距離で見つめてきていた。

「……疲れてねえのか?」

「ゆっくり休ませてもらいましたから」

 わざわざ世話を焼く必要なんて、もうないのに。貴哉は相変わらずオレを甘やかしてくる。未だに彼がタバコを吹かす姿を間近に見ることは無いが、独特の甘い香りが漂ってくるからすぐにわかる。金もかかるし体に悪いタバコを吸う理由を聞いた時、彼は言っていた。

 寂しいんですよ、と。

「なぁ、貴哉」

「はい?」

 オレといても、寂しいのか、と。そう問いかけたかった。色々あった人生の中で、最も長く傍にいた信頼出来る男。だからこそ、こいつが正直に言わないこともわかってる。信頼出来る人間だが、嘘つきなんだ。

「……皺、増えたな」

「君もすぐにこうなりますよ」

 敢えて笑顔でそう言って、オレに本音を隠すのだから、本当に。

「悪い男だな、お前は」

「そうさせたのは、君です」

「オレは何も……」

「私にはもう、君しか愛せない」

 甘さよりも切なさの勝つ言葉。ああ、また胸が苦しい。

 生まれた時、オレは死にかけたらしい。心臓に病を患っていたのだそうだ。手術をして今ではすっかり健康体。わかっているはずなのに、壊れ物に触れるかのような彼は。

「お前が愛してんのは、オレじゃねえよ」

 真っ直ぐに見つめられているのに、どこか遠く感じるその瞳。この歳になってようやく理解したんだ。

 貴哉には、忘れられない相手がいる。

 それはもちろんオレじゃないし、前妻でもない。もっとずっと遠く。非現実的だが、所謂前世とかそういうものと言うのが正しそうだ。

「けど、まぁ……責任くらいは、取ってやる」

 左手の薬指、安っぽいビーズの指輪に潜ませた稀少なピンクダイヤモンド。貴哉の視線がそちらに向いて、一筋の涙が頬を伝っていった。


──お前は、誰だった?

 マフィアとして生きていたあの頃、右腕となってくれたのは33歳も歳上の澄ました顔をしたいけ好かないナンパ野郎だった。実力は十分、ただし女癖が悪くトラブルばかり。

 だというのに、今際の際に"オレ"を愛していると宣った馬鹿な男。

 今でも覚えている。

 昼と夜の、空の色。


「……愛してるぜ、貴哉」

「おや、積極的ですね」

「オレはいつだってこうだろ」

 低く笑えば、微笑んでくれる。オレはお前を手放せそうにない。


 例えお前が、"オレ"と気付かなくても。

 "オレ"のことを忘れていても。


──愛は形じゃない 言い聞かせてる



END

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