第324話 白い獣人
アルモレッサ。
聖国ジャーダルク北西部に位置する都市の一つ、人口は約四万人の小都市である。城壁の高さは十二メートルほどで、これは雪原地帯を徘徊するスノーウルフの跳躍力を計算して十分な余裕を持たせて造られている。十や二十程度の群れならば、城壁に配置されている兵だけで追い返すことができるくらいだ。
身体の芯から凍えるような寒気のなか――実際に大地は凍土となり、その上には雪が降り積もっている。そんな状況でもアルモレッサの通りは喧騒で賑やかである。それはどれほど厳しい寒さでも、町の中にいれば凶暴な魔物や野盗に命を脅かされることはないからであった。
「あちらに見える建物が教会になります」
何枚もボロ布を重ね着し、その上から使い込まれたローブを羽織った中年の男が、自分より二回りは年が離れている少女に
「ありがとうございます。あなたに光の女神イリガミットの祝福がありますように」
聖国ジャーダルクの聖女候補が一人――エヴァリーナ・フォッドはそう言うと、男に向かって祈りの仕草をするのだが。
「と、とんでもねえっ! イリガミット教の信徒として、当然のことをしたまでなんで!!」
男は慌ててエヴァリーナに頭を下げる。聖国ジャーダルクは宗教国家であり、その頂である教王は代々女性が就いている。つまり必然的にイリガミット教の各役職におけるパワーバランスも、男性より女性のほうが上なのだ。しかもエヴァリーナは聖女候補である。男が必要以上に謙るのも仕方がないと言えるだろう。
「お待ちしておりました」
「お世話になります」
エヴァリーナが教会を訪ねると、事前に連絡していたからだろう。すぐに見習いの少年が姿を見せ対応する。そのまま少年の案内でエヴァリーナは教会の一室へ向かう。そこで待っていたのは頬を上気させた男であった。
「エヴァリーナ様、あ、あなたにっ、お会いできるのを楽しみにしておりました!」
興奮した様子で手を握ろうとする男の手を、エヴァリーナはスルリと躱す。大袈裟に反応しなかったのは、この程度の相手など簡単に力でねじ伏せることができる自信と、相手に不快感を与えない配慮であった。
「失礼。この身は女神イリガミットへ捧げているので」
――異性が軽々しく触れないよう、とまでは言い切らなかった。下手に怒りを買って、このあとの聴取に影響があってはエヴァリーナが困るからである。自分の信念に従っての行動とはいえ、聖女派であるエヴァリーナが他部署の管轄であるヒルフェ収容所のことを調べているのは、越権行為に他ならないからだ。
「そっ……そうでした。私としたことが失念していました」
残念そうに自分の手を撫でるこの男、イリガミット教の助司祭である。助司祭――イリガミット教の役職でいうと、見習いを除けば一番下に位置する役職である。大きな都市の教会であれば、トップは大司教が務める。アルモレッサくらいの小都市でも司教が担当する。なのに、エヴァリーナが教会へ訪れた目的は司教ではなく、助司祭のこの男に会うためであった。
「なんでもヒルフェ収容所について知りたいとか」
男が鬱陶しそうに見習いの少年を睨みながら、手で追い払う仕草をする。少年はさり気なく横目でエヴァリーナの顔色を窺うのだが「大丈夫ですよ」と微笑まれると、一礼して退出する。それを見届けると、男はエヴァリーナに席へ着くよう促す。
「ええ。あなたが数年前までヒルフェ収容所に勤務していたと、お聞きしましたので、是非ともお話を伺いたいと思いまして」
「勤務ではなく聖務です。そこをお間違えないよう」
エヴァリーナは頷くでもなく、肯定するわけでもなく。ただ、わずかに微笑む。それだけで男は気を良くする。
「しかしヒルフェ収容所のことをお知りになりたいですか。確かに聖女派のあなたでは、あの収容所のことを知ることは難しいでしょうね」
「仰るとおりです。ですから最高責任者であるバタイユ枢機卿に、お話を伺おうと思ったのですが、面会すら叶いませんでした」
「バ、バタイユ枢機卿に……会おうとしたの……ですかっ?」
男の顔から汗がどっと溢れ出す。バタイユは教王を除けば、文字どおり聖国ジャーダルクでもっとも権威を有する人物である。『三聖女』ですら容易に面会することは難しく。そのためにはいくつもの手続きや根回しが必要である。それを聖女候補とはいえ――しかも話の脈絡から察するに、根回しなどせず直接、訪問したと思われた。これだから物を知らない子供――否。エヴァリーナは成人していないとはいえ、聖女候補として様々な聖務や厳しい修練で鍛え上げられている。俗世から隔離されて育てられてきたとはいえ、イリガミット教団内の権力構造や慣習、規則、法については精通しているはず。つまり――
「ええ。なにかおかしなことでも?」
「い、いえ。それで……ヒルフェ収容所について……ですが」
「是非とも無知な私に教えてください」
遥か格上の――本来であれば口を利くことすらできぬ美少女が、自分に向かって微笑んで頼み込む姿に、男は先ほどまでエヴァリーナに感じていた恐怖など忘れ、自尊心が満たされていく。
「お任せください! ヒルフェ収容所は約二十六のブロックに分かれています。ここで約と言ったのは、私のような下の者ではすべてのブロックを管轄、知る権限がないためです。
送られてくる者たちは日によってまちまちですが、月に二千から三千と言ったところでしょう。これは一時期、私が門衛をしていたので、かなり具体的な数字と思っていただいて構いません。
第一から第二ブロックには凶悪な犯罪者や政治犯、それに異端者などが
「――自分で言うのもなんですが、私はそれはそれは熱心に女神イリガミットの名のもとに聖務を――」
「――いません」
「忠実に……は?」
「亜人などという種族はいません、と言ったのです。聖書にもこう記されています。“種族に貴賤なし”あなたもイリガミット教徒なら、この意味がわかりますね」
「も……申し訳ございません」
「わかっていただけたのならいいのです。あなたの話の中で気になる点が一つあります」
「なんでしょうか」
「先ほどヒルフェ収容所へは、月に二千から三千もの人々が
「はい。それはまず間違いないかと」
「ヒルフェ収容所の許容人数は――」
「十万です!」
エヴァリーナの言葉に、男は被せて答える。なにが原因かはわからないが、エヴァリーナが機嫌を損ねていると感じ取ったからだ。
「十万人……。少なく見積もっても年に二万四千人が収容される。これでは五年もしないうちに、許容人数を超えることになります。それとも収容された方々は、四年以内にヒルフェ収容所から
知らず識らずの内にエヴァリーナは、解放という言葉を使っていた。以前、エヴァリーナがユウに言ってのけたように、ヒルフェ収容所が思想教育の施設であるならば、そのような言葉が出るはずもないのに。
「ヒルフェ収容所が許容人数を超えることはありません。いえ、あり得ません」
男は自信満々に答える。その表情は誇らしげですらあった。
「それはなぜでしょうか?」
頭のどこかで警鐘が鳴る。
それでもエヴァリーナは自らの正義のため、イリガミット教の教義の正しさを、聖国ジャーダルクが非道な行いなどしていないと信じて、問わずにはいられなかった。
「簡単なことです。
ああ。それと、収監された者たちは五年も――いいえ、三年も生きればいいほうですね。私はそこで――他にも――このようにして――」
恍惚とした表情を浮かべながら熱弁する男と反比例するように、エヴァリーナの心は逆に冷えていく。それはエヴァリーナがもっとも大切にしてきた心の芯が、まるで凍りついたかのようであった。
「ハッハッハッ。そこで私は言ってやったのです。亜人が気安く神の名を――」
「浄化の内容について説明していただけますか?」
「――語るなと……浄化ですか?」
「詳細を話しなさい」
もはやエヴァリーナの顔からは笑みが、一切の感情が消え去っていた。
「じょ、浄化については、わ、わた、私のような下の者では」
態度が豹変したエヴァリーナの様子に、男は言葉が
「では
「そ、それは……」
「言いなさい」
「ひっ……。チ、チェーザ・タムハ・ボルジムア様なら詳しく説明できるかとっ」
「その名前から察するに貴族ですね」
聖国ジャーダルクが宗教国家であることは誰もが知るところである。
だが、今より約千三百年も前は王侯貴族が政を取り仕切る王政であった。その残滓とでもいうべき者たちが、子孫たちがいるのだ。尊き血筋を継承する者たちは、政治の中枢に関わることは禁止されてはいるものの、領主や各施設で一定の役職を与えられていた。
「故ネブカド伯の弟君です」
「ネブカド……ステラ大司教に粛清された?」
「なっ!? お言葉には気をつけてください! 畏れ多くもネブカド伯は名誉の戦死をされた御方です。イリガミット教の殉死者名簿にもその名を連ねられる御方ですよ!」
「白々しい嘘を」
「う、嘘ではございません」
「イリガミットの名に誓って、言えますか?」
男は自分を見つめるエヴァリーナの眼から逃げるように目をそらす。
「民草は知らなくとも、あなたや私のような教団内部の者は知っているはずです。ネブカド伯が己が欲を満たすために『ラインハルトの森』へ兵を差し向けた結果どうなりました。知らないとは言わせませんよ。ラインハルトの森に生息する魔物が氾濫し、近隣の村や町にどれだけ多くの被害が、無辜の民が犠牲になったか。しかも率先して民を護るべきネブカド伯は、あろうことか自分と家族、それに一部の配下だけを連れて真っ先に逃げ出す始末。魔物の対処と民を護るために派遣されたステラ大司教が、ネブカド伯を粛清するのも無理はありません。
まあ、いいでしょう。ここであなたを説法したところで、失われた命が戻るわけではないのですから。そのネブカド伯の弟――チェーザという者がヒルフェ収容所について仔細を話せるのですね」
「は、はいっ。チェーザ・タムハ・ボルジムア様はヒルフェ収容所の
チェーザ・タムハ・ボルジムアの所在地やヒルフェ収容所について、あらかた聴取を終えたエヴァリーナはもう用は済んだと席を立つ。
「お、お待ちください。もう少し、その、私と話をっ」
これほどまでにエヴァリーナの神経を逆なでするような真似をしておいて、男はまだ執着を捨てられなかった。聖国ジャーダルクの教王は強く、美しく、またその若さを維持できる年月も常人の比ではない。それは『三聖女』も同様である。多くのイリガミット教徒は純粋に敬愛し、崇めているのだが、一部の者たちはそこに不純な感情を持ち合わせていた。つまりこの男は、教王の面影があるエヴァリーナへ欲情しているのだ。
「私の用件は済みました。あなたのご協力に感謝します」
エヴァリーナの冷淡な対応ですら、男にとっては至福のひと時であった。
「失礼――」
「お待ちくださいっ! ヒルフェ収容所で起きた脱獄事件について知りたくはないですか?」
「――ヒルフェ収容所で脱獄? そんな話は聞いたことはありません」
「は、ははっ。そうでしょう? そうでしょう! 長い歴史を誇るヒルフェ収容所で脱獄など、過去に一度たりともなかったのですからね。ですが、あったんですよ! 一度だけ、それも大量脱獄がっ! その責任を取らされてチェーザ様は、所長を解任となったのですから」
「話を伺いましょう」
再度、エヴァリーナが席につくと、男は満足そうに頷く。自分は席に座らず、部屋を歩き回りながら話し始めた。
「忘れもしません。あれは私が担当していた第十三ブロックで、いつものように罪深い者たちへ聖務に励んでいたときのことです。突然、空から風が吹いてきたのです。ヒルフェ収容所は周囲を強固な防壁で囲まれた施設ですよ? 私もどうして風がと思いました、それも上空から。他の看守たちも不思議に思ったんでしょうね。皆で空を見上げたんですよ。すると空から人が降ってきたんです。それはもう凄まじい轟音でしたよ。爆風で周囲にいた看守たちが、吹き飛ばされるほどでしたからね」
恐怖からか。そのときのことを思い出して、男は自分の身体を抱き締める仕草をする。
「人が降ってきたのですか?」
「それが人ではなかったんです。驚かないでくださいよ? なんと降ってきたのは天人の男――それもただの天人ではありません! あの第十二死徒『
「死徒がヒルフェ収容所を襲撃したのですかっ!?」
そんな大事件が隠蔽されていたことに、エヴァリーナは驚きを隠せなかった。
「ふっ、ふはっ。驚きますよね?」
エヴァリーナの反応は期待どおりだったのか。男はニヤリと笑みを浮かべる。
「すぐに看守が取り押さえようとしましたが、まったく歯が立ちませんでした。なにしろ相手は死徒、それもあの『不撓不屈』なんですからね。我々では為す術もなく、好きなだけ暴れられましたよ。その際に防壁に大穴を開けられ、そこから大量の脱獄を許してしまいました。結局は『双聖の聖者』ギリヴァム・フォッド様がどこからともなく現れ、そのまま戦闘を繰り広げながら去っていきましたよ。ギリヴァム様が現れなければ、今頃どうなっていたことか。想像するだけでゾッとしますよ」
「死徒はなにが目的だったのでしょうか……」
「お知りになりたいですか?」
背後よりエヴァリーナの肩に手を置きながら、男が耳元で囁く。エヴァリーナは男の手を払い除けたい衝動に駆られるが、我慢して話の続きを促すことにする。
(ああ~。なんて良い匂いなんだ……)
「あなたには心当たりが?」
「はあぁぁ……。あっ。し、失礼しました」
「続きを」
「『不撓不屈』が降り立った際に私は見たんです。獣人と話しているのを!」
「獣人?」
「ええ、ええっ! 白い獣人――犬系の獣人でしたね。ひと目でわかりましたよ。第十三ブロックでは有名な獣人の幼女でしたからね」
「死徒は獣人の幼女と話すことが目的だったと? にわかには信じがたい話ですね」
「それがただの獣人じゃないんですよ! いわくつきの獣人なんです! なにしろ母親は獣人ですが、父親が――ほら、あの都市司教まで務められた――ですから――これは赦されざる禁忌ですよ! よりにもよってイリガミット教の都市司教が、不浄な亜人との間に――ねえ? だから私もすぐに気づきましたよ。獣人がもっとも多い第十三ブロックに収監したのは上層部が――ひひっ――――悲惨の一言でしたね。見ている私ですら――ああ。誤解してほしくないのですが、上からなにもするなと命じられていまして――――それで――――惨めなものですよ。都市司教といえど、ああなってしまえば、それにしても獣人も酷いものですね。自分たちを裏切ったとはいえ、同族の獣人に対して――まだ幼い子供だったのに――次々と――――母親は泣き叫んで――――ともかく『不撓不屈』がわざわざ危険を冒してまでヒルフェ収容所に姿を現し、あの獣人の幼女と話していたんですから、なにかしらの理由があったのは間違いないかと」
耳を覆いたくなる内容であった。あまりの悍ましさにエヴァリーナは、怒りから拳を強く握り締めていた。
「どうです。私の話はお役に立ちましたでしょうか? よろしければこのあと、お食事にでも――」
男がエヴァリーナの肩に置いた手を、胸元へ滑らそうとしたそのとき――
「ご、ごいつ、ぐっていい?」
明らかにエヴァリーナの声ではない。大型の獣が発したかのような声は、エヴァリーナの頭まで覆われたフードの奥から聞こえた。
「ダメよ。
「エ、エヴァリーナ様……今のはいったい?」
「貴重なお話をありがとうございました。せっかくのお誘いですが、これでも多忙な身なので、ご遠慮させていただきます」
一礼して去っていくエヴァリーナを、男は追いかけることができなかった。ただ、自分の命が失われていたかもしれなかったことに、全身から床に染み渡らせるほど、冷や汗をかくのであった。
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