第239話 小さな変化

「やっぱりダメかな?」


 個目のアイテムポーチへ遺体を回収しているヌングの背に向かって、子が親に聞くようにムッスが呟く。

 護衛の遺体に尾行の虫や魔法などが仕掛けられていないかを調べながら回収していたヌングが、作業の手を止めムッスと向き合う。


「ムッス様のお気持ちはわかりますが、ポーリーヌ様のご遺体をパパル家にお返しするわけにいきません。

 ポーリーヌ様がカマーに着き、ムッス様とお会いしたことはすでにバリュー財務大臣へ伝わっているでしょう。変死したポーリーヌ様のご遺体をパパル家に渡せば、どうなるかはムッス様もおわかりのはずです」

 ヌングの言うとおり。ポーリーヌたちが都市カマーに到着し、ムッスと会談したことは通信の魔導具によって、すでにバリュー財務大臣に伝わっていた。

 この状況で、ジュウシカエルの毒によって全身が青色に変色したポーリーヌの遺体をパパル家に引き渡せば、真っ先に疑われるのはムッスである。

 数十人の護衛を引き連れた貴族の令嬢を町中で襲う者など、まずいない。仮にいたとしても殺害ではなく金銭を目的とした誘拐か、パパル家の敵対派閥によるものくらいである。

 しかしウードン王国の王侯貴族たちは知っている。バリュー財務大臣がムッスを自分の派閥へ引き込もうと、ありとあらゆる手を使っていることを。

 まず十中八九、ムッスがバリュー財務大臣の使者であるポーリーヌを毒殺したと容易に想像するだろう。たとえ実際にはそうでなくとも、バリュー財務大臣が配下を使って王宮や貴族たちに、そのような噂を拡める。


「どのみち王都に出向いて、ポーリーヌ殿のことを説明する必要があるんだ。今さらどんな汚名を受けてもいいじゃないか」

「それでもです」


 ムッスが大仰に身振り手振りで話すも、ヌングの考えが変わることはなかった。


「ヌングは昔から頑固な――おや? 覗き見なんて君らしくもない」


 遺体の傍にいたヌングが一足飛びでムッスの前に移動する。

 ムッスの言葉を聞くまで、何者かの接近をヌングですら気づけなかったのだ。


「大丈夫だよ。ユウだ」


 ムッスがそう言っても、ヌングは警戒を緩めない。


「いつまでも隠れていないで、姿を現したらどうだい」


 すると、林の木の陰からユウが姿を現す。そこで、ようやくヌングは警戒を解いた。

 そして、なぜ自分が気づけなかったユウの存在にムッスが気づけたのかもわかった。

 ムッスの青い瞳が淡く光っていた。ムッスの持つ固有スキル『天眼』が発動したのである。自らの意思で発動させることはできないのだが、未来を見通すことができる。

 この『天眼』が発動したことで、自分たちが去ったあとにユウが姿を現す未来を見たからこそ、ムッスは気づくことができたのだ。


「鬱陶しい目だな」

「酷い言いようだな。僕が言わなければ姿を見せる気はなかったんじゃないのかな?」

「女が死んだくらいでウジウジしやがって、それでも伯爵の爵位を持つ貴族かよ」


 事実、ムッスはポーリーヌの自害を止められなかったことを悔やんでいた。


「紳士である僕が、淑女の自害を止めることができなかったんだ。少しくらい落ち込むのも仕方がないだろう」

「どっちにしてもあの女は死んでたぞ。

 お前が見逃すようなら、俺が殺すつもりだったからな」


 ムッスとヌングが互いに顔を見合わせる。


「もしかして、君なりに慰めているつもりなのかい?」


 思わずヌングの口角が上がっていく。しかし、ユウに見られていることに気づくと慌てて手で口元を隠した。


「誰がお前みたいな弱虫を慰めるかよ。話が終わったんなら俺は帰るぞ」

「慰めついでに、王都へ一緒に行かないかい?」


 この場から去ろうとするユウの背に、ムッスが声をかける。動きを止めたユウが振り返ると、その表情は険しいものであった。


「それがどういう意味かわかってて、言ってるんだろうな?」

「これは……またなんとも凄まじい殺気だね」


 ユウの放つ殺気に、周辺の木々から鳥が一斉に飛び立ち、小動物は逃げるように四方へ散っていく。


「いいじゃないか。もともと王都のオークションに行く予定だったはずだよ。

 実は前々からユウを王都に連れてこいって言われててね。のらりくらりと返答を濁していたんだけど、さすがに今回は躱しきれないようだ。

 驚くことに王城で陛下からユウに――」

「勲章だろ」

「知っていたか」

「なんの役にも立たないクソみたいな勲章をもらいに、わざわざ罠があるとわかっている王都に来いってか?」

「まあ……そういうことになるかな」


 バツが悪そうにムッスは頬をかく。


「ヌングさんも俺に王都へ行ってほしいんですか?」


 ユウの問いかけにヌングは当然のように頷く――ことができなかった。ムッスのためならポーリーヌの護衛を何十人と殺し、場合によってはポーリーヌ自身を殺すことすらいとわない。

 そのヌングが苦悩していた。


 ムッスと敵対するバリュー財務大臣は、間違いなくウードン王国でもっとも強大な権力を誇る人物である。今までムッスがどれだけ餌をバラ撒こうが、都市カマーに近づくどころか王都圏から出る素振りすら見せることがなかった。


 常に自身の身の安全を最優先し、少しでも危険がある場所には近づかない。

 そんなバリュー財務大臣を護衛するのも『ウードン五騎士』の一人『首切り』ガレスを筆頭に、一流の者たちばかりである。


 罠を張り巡らせても危険を察知する感覚が人並み外れており、引っかかることがない。逆に敵対する者には露骨な嫌がらせから狡猾な罠を仕掛ける。人を陥れる才覚が並外れているのだ。

 ユウを王都へ連れていけば、間違いなく罠が張り巡らされている。

 単純な罠であればまだいい。ユウの力を以てすれば、その程度は難なく退けられることはヌングもわかっている。

 怖いのはバリュー財務大臣である。今や個人で国すら動かせると噂されるほどの権力を持つ相手にすれば――


 ヌングは心配であった。ムッスを実の息子のように、ユウを孫のように溺愛しているのだ。

 たとえムッスの命令であったとしても、即答できるわけがなかった。その苦悩がヌングの顔を曇らせていた。

 ヌングほどの男であっても、肉体の痛みには耐えられても、心の痛みには耐えられなかったのだ。


「行くよ」

「ユウ様、いま……なんとっ」

「王都に行くって言ったんですよ」

「し、しかし王都には……」

「だってヌングさん、凄く困った顔してんだもんな」


 ユウは小さなため息をつくと、少し困った顔をしながらヌングを見つめた。


「いや~よかったよ。

 実は心苦しかったんだよね。

 ほら? 僕の食客が暴走してユウたちに手を出しただろ。

 その食客も殺されると思っていたけど見逃してくれたし、持つべきものは友だね!」

「誰が友だ」

「友である僕のためじゃないとすると……。

 残るは……ああ! もしかしてジョゼフに母性ならぬ父性・・でも感じ――ユウ、君はなんて顔をするんだ」


 ユウは、ムッスとヌングが驚いた顔で自分を見つめているのを不思議そうに見返した。

 そして、いま自分がどのような顔をしているのか、確認するように手で顔に触れる。


「なにをわけのわからないことを言ってんだ。

 それより覚悟しとくんだな」

「なにをかな?」

「場合によっちゃ。俺とウードン王国は戦争・・だ。

 言っとくが、そうなればお前も敵だ」

「お~怖い」


 ムッスが大仰に手を掲げる。


「明日の朝に馬車で迎えにいくよ」

「いや。先に行ってやることがある。

 どうせオークションで合流するんだ」


 ユウとムッスは王都に着いてからのことをしばし話し合う。話が終わると、ユウはその場をあとにしてスラム街へと向かうのであった。




「今日はいったいなにがあんだよ?」


 部屋の扉の前で、門番をしている警備会社アルコム所属の男が反対側にいる男へ話しかける。


「俺だって知らねえよ」

「だってよ。スラム街の顔役が一人残らず集まってんだぞ」

「だから知らねえって言ってんだろうが、どうしても知りたきゃボスに聞けよ」

「ば、ばかっ! そんな恐ろしい真似できるかよ!」

「じゃあ、聞くなよ。ばーか!」


 都市カマーのスラム街に巣食うマフィアの顔役たちが、本部である三階建ての建物の一室に集められていた。


「ボス、話ってのは――いでっ」


 警備会社アルコムを任されているエイナルの鼻に、ユウの放った魔力弾が命中する。


「なにひゅするんっすか。痛いじゃないっひゅか」


 真っ赤になった鼻を擦りながら抗議するエイナルを、ユウは睨みつける。


「ボスって呼ぶなって言ってるだろうが」

「けひひっ。エイナルのバカがボスに怒られてやんの! いだだっ」


 二人目の犠牲者が鼻を押さえる。


「バカはお前もだ。いまボスって呼ぶなって言われてただろうが」

「ほんっとスラム街の男どもは、どいつもこいつもバカばかりだね。サトウさん、話を進めてくださいな」


 スラム街の顔役の一人である女性が、話を進めるよう促す。その存在感は強面の男たちの中でも、いささかも埋もれていなかった。


「まずは最近の調子はどうだ? 警備会社の方じゃないぞ」

「どうもこうも、ローレンスの連中が鬱陶しいったらありゃしねえ」

「あいつら自分のとこの手下を使わずに、よその町の組織やゴロツキどもに金を渡して送り込んでやがるんっすよ! そのせいで俺のとこは今月だけで、もう三人も殺られちまった」

「こっちは五人だぞ!!」


 次々に被害状況が報告される。

 財務大臣の息子がボスである犯罪組織ローレンスは、当初は舐めてかかっており、自分たちの手下を送り込めば簡単にカマーの裏社会を支配できると思っていたのだが、予想を大きく裏切る形で手痛いしっぺ返しを喰らうこととなる。

 手下を送れど送れど連絡が途絶えるのだ。

 その理由は当然であるが、カマーのマフィアたちが暗躍していた。すると、ローレンスは持久戦へと戦略を変更する。自分たちの手下を使わず、カマー周辺の町や村にいるマフィアやゴロツキどもに金を握らせ送り込んできたのだ。

 その辺の弱小組織やゴロツキどもなど、カマーのマフィアたちからすれば敵ではないのだが、あまりにも数が多すぎた。徐々にカマーのマフィアたちにも犠牲者が出始めたのだ。


「わかったから大きな声を出すなっての。

 ここだけの話になるけど、ムッスが財務大臣から呼び出しがかかった。

 明日には王都へ向かうことになってる」

「あらま。そりゃご愁傷様ですね」


 女性の顔役が心にもない言葉を述べる。周りの男たちも、笑いながら「ツイてねえな」「こりゃムッス伯爵も終わりか?」「貴族同士の潰し合いなんざ興味ねえよ」と口々に軽口を叩く。

 しかし、次のユウの言葉で一斉に口を噤む。


「俺も財務大臣からの直々の指名で呼び出されている」


 最初に言葉を発したのはエイナルであった。


「ま、まさか行くつもりじゃないですよね?」

「明日の朝にはカマーを出る」

「いやいやっ! 罠に決まってんじゃないっすか!!」

「そうだ! なに考えてんだ!! あっ、考えてんですか」


 先ほどとは打って変わって、怒号のような大きな声が部屋中に響き渡る。


「静かにおし!

 サトウさん、続きをどうぞ」

「そうだぞ。お前ら、うるせえっての」

「くそ! エイナル、お前が一番にでけえ声を出したくせによ」


 静まり返ったのを確認すると、ユウが口を開く。


「お前らとおんなじで俺も鬱陶しくなってきたからな。そろそろ財務大臣を消そうと思うんだ」

「消すって……あのバリューをですか?」

「いくらなんでもそりゃ無理だ。ボ――サトウさんが強いってのは、ここにいる誰もが知ってるけどよ。相手があのバリューじゃ」

「そうだ。それにバリューと本格的に敵対すりゃ、ローレンスも本気になってカマーに襲いかかってくる。あっちは高ランクの冒険者を何人も抱えてるって話だ」

「王都の冒険者たちだって、黙っちゃいねえぞ。いくつものクランがバリューの配下なのは有名な話だ」


 不安そうな顔を浮かべる顔役たちとは逆に、ユウはアイテムポーチから紙の束を取り出す。


「こちらは?」

「お前らが送り込んだ連中に調べてもらったローレンスのアジトに、俺のほうで調べさせた分を書き記した紙だ。

 俺が王都から帰ってくる前に、取り分を決めておけよ」

「取り分? そりゃなんのですか?」


 エイナルがユウの言っていることを理解できずに聞き返す。


「決まってるだろ。

 あいつらの溜め込んでいるお宝と縄張りを奪うから、そのあとはお前らの縄張りになるんだ。今から決めとかないと面倒だろうが」

「へえ……そうっすか。……って、ええーっ!? ま、待ってくださいよ。王都に送り込んでる連中は、情報収集に長けた奴らを厳選して送り込んでるんですよ」

「知ってるよ。俺がそうしろって言ったんだからな」

「顔だって俺らと違って、その辺にいそうな平凡な顔でケンカだってちょっと強いくらいで、ローレンスの連中と殺り合うには力不足もいいところですよ!」

「別にお前らにローレンスと殺り合えなんて言ってねえだろ。

 俺が全部やるから、向こうの連中には案内とお宝の回収だけするよう伝えてくれればいいよ」

「か、回収って……」

「マゴの使いが、アイテムポーチを王都に送っただろうが。なんのために大量のアイテムポーチを送ったと思ってんだよ。

 ああ、あとベルーン商会なんかの商店関係はマゴとビクトルたちの取り分だからダメだぞ?」


 当たり前のように、財務大臣とその配下であるローレンスなどの組織を自分一人で潰すと言ってのけるユウに、エイナルたちは驚くよりも恐怖で顔が青ざめていく。


「お、おほほっ! さすがはサトウさんですわっ」


 さすがの顔役の一人である女性も、引きつった笑みを無理やり浮かべるのがやっとであった。


「心配すんな。

 お前らにつけてる護衛のアンデッドも倍の数に増やすし、なにか困ったことがあれば屋敷にいるラスに伝えろ」


 動揺を隠せないエイナルたちをよそに、ユウは立ち上がり部屋を出ていこうとする。


「ちょ、ちょっと待ってください! ボスは、本当に……あのバリューに勝てると思ってるんですか?」


 扉の前で立ち止まったユウは振り返ると。


「当たり前だろ。なんで俺が負けるんだよ。あとボスって呼ぶなっての」

「あいでっ」


 魔力弾を喰らったエイナルが、鼻を押さえながらユウを見送った。




「王と!? 俺もいくぞー!」


 屋敷の居間で、ユウが王都へ行くことを聞いたナマリが元気よく飛び跳ねるのだが。


「お前はダメだぞ」

「な、なんでー!?」


 信じられないとばかりに、ナマリがユウの膝上に飛び乗って抱きついた。ユウの後ろに控えるマリファが、やめなさいとナマリを叱る。


「ギルドで暴れただろ」

「ふぇっ!? ど……どうして……しってるの?」


 テーブルの上で寝そべっているモモへナマリは視線を向けると、モモは言ってないよと顔を横に振った。


「お前と俺は繋がってるんだぞ。黙っててもわかるに決まってんだろうが」

「でも、でもっ! あいつがイジワルしたんだぞ!」

「ギルドをめちゃくちゃにしたんだろ?」

「…………モモだっていたのになぁ」

「じゃあ、モモも連れてかない」

「っ!?」


 他人事のように眺めていたモモが飛び跳ねて、ユウの肩に乗ると頬をスリスリしてゴマをするのだが、ユウの考えが変わることはなかった。

 見る間に涙を溢れさせたモモが、大泣きしながらナマリの頭の上に飛び乗って頭を叩き始める。


「モモ、やめろよ~。俺だって、俺だって……う、うわ~んっ!!」

「あらあら。ナマリ、誇り高き魔人族の子が泣いてはいけませんよ」


 奴隷メイド見習いの一人、魔人族のネポラが慰めるのだが、ナマリもモモも一向に泣きやまない。狸人のポコリと狐人のアリアネも一緒になって、慰めながらナマリたちを二階の部屋へと連れていく。


「お前らも来なくていいんだぞ? オークションに参加したいなら、その日だけ呼びに戻ってくるから」

「王都か~。オークションもあるし、普通の服も用意しないといけないよね。あっ、普通の服でいいのかな? やっぱりドレスとかかな?」

「……ナマリとモモのおみやげも買う」

「そうだね~」


 ニーナとレナはユウの声など聞こえていないとばかりに、王都の話で盛り上がっていた。


「では、私の不在の間は屋敷のことを頼みましたよ」

「お姉さま、任してよ! 私がちゃ~んと管理するんだから」

「それを心配してるんだと思うぞ」

「メラニーが失礼なこと言うから、やんなっちゃう!」


 虎人のメラニーの茶々に魔落族のティンが不満そうに頬を膨らませる。


「お姉さま、このヴァナモにすべてお任せください」

「私とエカチェリーナの鼻をもってすれば、屋敷の敷地内に賊を一歩も踏み入れさせません」

「ワンッ!」


 堕苦族のヴァナモが静かに、だが強い意志を感じさせる目でマリファを見つめ。狼人のグラフィーラとその従魔であるシャドーウルフのエカチェリーナが自信を漲らせた宣言と返事をする。


「こいつら……。どいつもこいつも人の話を聞かないんだよな」


 精神的に疲れたユウが部屋に戻ると、そこにはラスが控えていた。


「わかってると思うけど、お前も連れていかないぞ」

「それは重々承知しております。

 マスターがナマリを連れていかない本当の理由も……」

「『妖樹園の迷宮』に潜ってるアガフォンたちが戻ってきたら、おっちゃんの護衛を任せてたアンデッドをつけておけ」

「かしこまりました」


 椅子に座って読書を始めるユウであったが。


「なんだよ?」

「一つだけ、お願いがあるのですが」

「珍しいな。いいよ」

「ありがとうございます」


 ラスの少々変わった願いを聞いたユウは。


「それだけでいいのか?」

「十分です」

「なんだったら一緒に殺すの手伝ってやるぞ?」

「滅相もございません。

 ただ……そう。ただ、久しぶりに会って話をしてみたいのです」


 なにを思うのか。

 虚空を見つめラスは一言だけ呟いた。


「大賢者と」




 王都テンカッシ。

 その王都の富裕層エリアにクラン『龍の牙』が所有するアジトがあるのだが。


「おい、なんだあの爺は」

「さあな。身なりから冒険者っぽいな。

 それにしても、えらくボロボロじゃねえか」


 富裕層エリアを歩くには、似つかわしくないボロボロの姿の男が、おぼつかない足取りで歩いていた。

 目を凝らせば、ボロボロの男は股間が湿っており、血と汚物でズボンを汚し、足跡のように不快な臭いを放つ液体が地面に点々と男の歩いた痕跡を残していた。


「ちっ。こっちに向かってきやがる」


 『龍の牙』所属の男が面倒臭そうに舌打ちをする。


「おいおいっ! 爺さん、ここがどこかわからず迷い込んだんだろうが、痛い目に遭わないうちに消えな」

「そうだぞ。ここは、お前みたいな汚らしい爺さんが――」

「ぉ……俺だっ」

「あん?」

「ド……ド、ミ……はぁはぁ……ニク……だっ……」

「うっそだろ……っ」

「お前っ。ドミニクか!?」


 長年の仲間ですら見分けがつかぬほど、ドミニクは変貌していた。

 黒妖犬とも呼ばれるヘルハウンドから寝食も取らずに自分の限界を超えて逃げ続けた結果、ドミニクの髪からは色が抜け落ち、頬は痩け、ユウに潰された睾丸の激痛と精神的な疲労によって、三十代のドミニクの容姿は老人と見間違うほど憔悴しきっていた。


「こ……ぐあっ。これ……を……っ!!」


 鍛え抜かれ鋼のような筋肉を誇っていたドミニクの腕は、今では骨と皮で見る影もない。その手にはフラビアのアイテムポーチが握られていた。


「これはっ!? まさかっ」

「おいっ! しっかりしろ!! 他の奴らはどこにいるんだ? いや、それより治療が先だ! おい、白魔法を使える奴をすぐ呼んでこい!!」

「わ、わかった!」


 男の一人が慌てて白魔法の使い手を呼びにアジトの中へ入っていく。

 残る男が懸命に声をかけるが、ドミニクの心はアイテムポーチを無事にアジトへ届けられた満足感で満たされていた。


「へ……へっへ…………ざまぁ……み……ろっ」


 今にして思えば、ヘルハウンドはドミニクが常に限界で逃げ続けるように、調整しながら追いかけていた。

 そしてヘルハウンドは王都が見えてくると、いつの間にかその姿が消えていた。息も絶え絶えに王都に着いたドミニクは、バリュー財務大臣の配下や関係者だけが所有することのできる通行書で、王都の門を待たされることなく通り抜ける。

 ドミニクは最期の力を振り絞って『龍の牙』のアジトまでたどり着いたのである。


「来たかっ!」

「待たせたな! 急いでくれ!!」


 白魔法の使い手を連れてきた男が、治療を頼むのだが。


「どうした?」

「死んでる……」


 数日に渡ってヘルハウンドに追い回され、容姿が変貌するほどの恐怖と苦痛を味わったはずのドミニクの死に顔は、どこか満足げであった。

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