二章 同級生を操るぜぇ!

「……ふへっ」


 おっと、マズイマズイ。

 俺は今の気持ち悪い笑みが人に見られていないかを確認し、こちらを見ている人が誰も居ないことに安心する。

 高揚する気持ちを抑えるように深呼吸した後、俺は街へ繰り出した。


(催眠アプリ……本物だ)


 ここ数日……そこまで多い頻度ではないが、俺のスマホに突如宿った催眠アプリについての検証を行っていた。

 そのおかげで分かったこと……至極明快な答えの一つだけど、この催眠アプリは間違いなく本物だということだ。

 姉ちゃんに試したように手を上げてもらったり、俺が指示した言葉を口にしてもらったり、或いは軽く歩いてもらったり……そんなことまでこの催眠アプリは可能だった。


(……これ、やれるんじゃないか……っ⁉)


 俺、めっちゃ鼻息荒くなってる気がする。

 まだまだこの催眠アプリについて知りたいこと、試したいことは沢山あるけれど、やはりこれほどの力を手に入れたとなれば俺は……俺は心から望むことを好き勝手したい!

 あんなことやこんなことをしたいんだよ俺は

 とはいえ、こんな風に落ち着きがないというか調子に乗っていたから俺はやってしまった。


「おっとそこのお爺ちゃん」


 更なる検証というよりは改めてこの力を使いたかったせいもあり、杖を突いて散歩をしていたお爺ちゃんに対し……ちょっと走ってみてほしいと俺は命令をした。

 お爺ちゃんは杖を投げ捨てるが如く走り出そうとしたので、俺は慌ててそんなことはしなくて良いと止めに入る。


「や、やっぱり良いから! お爺ちゃん、体は大事にしようぜ」


 どの口が言ってんだって話だが、虚ろな目をしたお爺ちゃんは一つ頷いて走り出そうとしたのを止めた……ふぅ、おっかねえ力だぜこいつは。


「わ、儂は一体……むっ? 杖なしで歩け……いたたっ!」

「大丈夫かお爺ちゃん!」


 結局、お爺ちゃんの腰が良くなるまでずっと擦っていた。

 俺が試したいからという理由で催眠を使ったというのに、お爺ちゃんは俺に大変感謝をした様子で……う~ん、あんなに感謝されると逆に良心の呵責に苛まれる……ええい! 俺はこの力を手に入れた時点で好き勝手すると! 外道になると決めたじゃないか……そうだろう甲斐⁉


「……ふぅ、落ち着いたぜ」


 小さくそう呟き、俺はようやく歩き出した。

 俺が向かった先は人通りの多い駅前ということで、休日なのもあってか獲物が無防備に歩いている。


「……獲物て」


 まあ、今の俺からすれば俺以外の全ての人間が獲物みたいなもんだ。

 とはいえスマホを見ながら辺りをウロウロしてたら怪しまれる可能性もあるので、俺は出来るだけ平静を装うように視線を巡らせていく。

 先程お爺ちゃんに対してアプリを使ったが、今度こそ再び検証のために使おうとしたその時だった。


「甲斐、何をしてるの?」

「っ⁉」


 突如、背後から聞こえた声に俺は思いっきり肩を揺らした。

 咄嗟に振り向いた先に居たのは姉ちゃんで、一緒の大学に通う友人の女性たちと一緒だ。


「ね、姉ちゃん……」

「……どうしたの? 随分と驚いてるみたいだけど」

「い、いやぁ何でもないよ! うん! マジで何でもないから!」


 バレないと分かってるのについスマホを隠してしまい、姉ちゃんはニヤリと笑った。


「アンタもしかしてスマホでエッチな画像でも見てたの?」

「何言ってんだよ姉ちゃん!」


 いきなり何言ってんだこの姉は!


 姉ちゃんの言葉にお友達のお姉さま方がクスクスと笑い、俺は居た堪れなくなって下を向く。


「あ~ごめんごめん。ちょっと悪い方向で揶揄いすぎたね」

「……ほんとだよ」


 必死に背伸びをして頭を撫でてこようとする姉ちゃん。

 俺はそんな姉ちゃんを気遣うように少しばかり屈んで撫でやすい体勢を取ってあげると、姉ちゃんは嬉しそうに笑った。


「いやぁ我が弟は良い子だねぇ」

「しなかったらしなかったで家で怖いし」

「あ?」

「何でもないっす」


 見てくれお姉さま方、これがうちの姉ちゃんの素顔だ。


「これが都の弟君かぁ」

「いつも楽しそうに話してるもんねぇ」

「溺愛したくなる気持ちも少し分かるかも?」


 お、意外と俺のことも好感触だぞ?

 全てにおいて小さい姉ちゃんと違って、このお姉さま方はみんなスタイルが良い……俺は一瞬、やっぱり催眠を掛けるならこういう人たちだよなって思ったけど、姉ちゃんの友人だしナシだな!


「つうか姉ちゃん朝早くに出たけど遊んでたんだ?」

「買い物が主だけどね。朝っぱらこいつらの着せ替え人形にされて疲れたわ~」

「あ~……」


 姉ちゃんが着せ替え人形にされている状況が容易に想像出来てしまい、ちょっと笑ってしまったのだが軽く脛を蹴られてしまった。

 別に痛くはなかったがここは痛がるフリをしておこう。


「痛がるフリしても分かるからね?」

「流石姉ちゃん手強いな」


 伊達に十何年も一緒に生活してはいないということか。

 姉ちゃんの方もまだまだ買い物の途中らしく、友人を連れて歩いて行ったのだが……俺はそんな姉ちゃんたちを見て一言。


「……まるで大勢の保護者が居るみたいだ」


 こんなこと本人の前で言ったら殺されるし、いざ勇気を出して口にしようものなら……考えるだけで怖いや。


「っと、俺は俺の使命を果たさなければ!」


 ふんすと気合を入れ、俺は自らの使命である検証を開始した。

 先程姉ちゃんに会ったように、誰か俺を知る人に会うこともなく検証はスムーズに進んでいき、この催眠アプリに対する理解がどんどんと深まっていった。


(気を付けるべきはアプリ起動中における充電の減りと、三人までしか同時に催眠を

掛けられない。そして誰かに掛けている間に別の誰かに掛ける時は一度解除する必要がある……なるほどなるほど)


 しっかし……こうして考えている時もそうだけど、実際にこのアプリを使っている今もまだ信じられない――本当にこの世にこんな力が存在しているんだなって。


「……お?」


 そんな風に考え事をしていた時だ。

 俺の目の前を物凄く色っぽい大人の女性が歩いており、少しばかりとはいえ胸元を見せる服装のせいか、一瞬その豊満な胸の谷間が盛大にこんにちはをかましてきやがった。

 俺はそんな女性に視線を向けたまま、気付けば催眠アプリの力を行使していた。


「こっちに……来てください」

「分かったわ」


 催眠状態の女性は俺に言われるがまま付いてくる。

 こういう時に敬語なんて要らないだろって思うけれど、やはりこれだけドキドキさせてくる女性が相手だと緊張してしまうのだ。

 派手な女性と子供の俺……おそらく周りからすれば不思議な組み合わせに見えるだろうが、俺は出来るだけ気にすることなく女性を連れて路地裏へと入り込んだ。


「っ……やっべえ凄い緊張する」


 ドクンドクンと心臓の音がうるさい……俺は女性の視線を気にするように目を向けるが、やはりそこにはボーッとした様子の女性しか居ない。


「……………」


 落ち着けよ甲斐、欲望に忠実になれ。

 そう俺は自分自身を励まし鼓舞する――目の前の女性は何も抵抗せず、俺の意のままなのだから。

 俺は女性が持つたっぷりと夢の詰まったその果実に手を伸ばし……スッと引っ込めた。


「……お姉さん。これからどこかに行くんですか?」


 俺はつい、心の中で自分に馬鹿野郎と罵倒した。

 だって……だって目の前にこんなお姉さまが無防備に立ってるんだぞ⁉ それなのに俺は好き勝手することなく、日和ってこんなあまりにも普通な問いかけをしてしまった……ちくしょうなんで俺ってこんなにビビリなんだ……っ。


「妹がピアノの大会に出るのよ。そこに向かう途中なの……沢山練習していたから絶対に応援に行きたくてね」

「それは是非とも行ってもろて。お姉さん、失礼しやした」


 俺は即座にその場から離れ、催眠を解いた。

 女性はキョトンとした様子で周りを見渡した後、腕時計を見てハッとしたように駆け出すのだった。


「悪いことしちゃったな……」


 妹さんのピアノ大会……遅れないと良いんだが。

 決して見られることもないし声が届くこともないけれど、俺はもう一度ごめんなさいと頭を下げて路地裏から退散し……しばらく歩いたところでさっきの女性のようにハッとする。


(だ、だからなんで俺はこうなんだ……)


 俺は外道になると、好き勝手すると決めたはずなのに……ふむ。

 どうやら俺はまだまだ最高の悪になる心構えというか、この催眠アプリを使う意気込みが足りないらしい。


「……なんだよ意気込みって」


 俺はそう言って苦笑し、アプリの使い過ぎで少なくなった充電に注意しつつ続けて検証を行うのだった。

 そうして今日もある程度知識を身に付けた段階で、休憩がてらアイスを買いベンチで食べていた。


「……うめぇ。頑張った後の甘い物って最高だわ」


 チョコアイスに舌鼓を打っていた俺だが、そこで見覚えのある顔を見つけた。


「あれは……」


 俺の視線の先に居たのは相坂だ。

 普段の制服姿と違う私服姿だが……まあこうして遠目に彼女を見かけることも珍しくはなく、その度に俺と違ってファッションセンスの高さを思い知らされる――つまりリア充度の違いってやつだな!


「それはそれとして何してんだろ」


 基本的に相坂は友人と一緒に居るのをよく見かけるけど、今の彼女は一人だ。

 周りを見る限り友人の姿もない……正真正銘彼女は一人。


「……?」


 思春期を謳歌する今だからこそ、相坂に催眠を掛けたい気持ちはある。

 お触りくらい好き勝手してやりたいしそれ以上のことだってもちろんやりたい……けど、俺はどうも今はその気が起きなかった。

 何故なら相坂はずっと下を向いていたから……何かあったのかな?

 結局、俺が相坂に声を掛けることもなかったし気付かれるようなこともなかったので、その表情の真意は分からなかった。


「ま、どうでも良いか……くくっ」


 そう、俺にとっては相坂がどんな悩みを抱えていようがどうでも良いんだよ……俺はただ、ああいった女の子で楽しめればそれでなぁ!


「ふぃ~……随分と思考が悪になってきやがったぜ」


 くくくっともう一度あくどい笑みを浮かべ、その日の検証を俺は終えるのだった。

 そしてその日の夜、この素晴らしき催眠アプリに出会わせてくれた運命に感謝するかのように正座をしていると、姉ちゃんが部屋にやってきた。


「甲斐~、ちょっとマッサージしてくんない?」


 ポキポキと指を鳴らしながらのその様子……八割くらい脅しでは?

 我が物顔で入ってきた姉ちゃんにため息を吐きながらも、俺は座布団を丸めて枕代わりに出来るよう用意した。


「気が利くねぇ♪」

「我が物顔で入ってきた奴の言うことじゃねえな」

「あ?」

「ごめんなさい姉ちゃん」

「許すわ。ささっ、軽くで良いからマッサージお願い」

「うっす」


 まあこんなやり取りをしてるけど決して俺たちの仲は険悪じゃない。

 俺にとって姉ちゃんはこんなに小さい人だけど、凄く頼りになる人で昔から良く守られてたもんな。


「甲斐」

「うん?」

「今日一人で居たのは何か悩みがあったとか?」

「そういうんじゃないよ」

「そう。何かあったらお姉ちゃんに相談しなさい」

 ほら、こんな風にこの人は凄く優しい人だ……ちっちゃいけど。

「何か失礼なこと考えてない?」

「何のことですかね」


 やっぱり姉ちゃんに対して小さいとか、そういう類の言葉は禁句だ。

 決して口にしてないのに考えただけでも感じ取る勘の鋭さ……弟は姉に勝てないし弱いとも言うけれど、俺と姉ちゃんの間には明確にそれがあるように思える。


「姉ちゃんって……強いよな」

「当たり前でしょう。こんな見た目だからおちょくってきたりする奴も居るけど、そんな時はぶっ飛ばしてるからね」

「……そう」


 暴力を振るったとかは聞かないので真相は定かではないが、姉ちゃんのことだし普通にやってそうなのが変に信頼あるよマジで。


「甲斐も何かあったら私を頼りなさい」

「おう」


 姉ちゃん……ほんまにええ姉ちゃんやで!

 でもごめん姉ちゃん……俺、やべえ力を手に入れてしまってこのまま外道の道を歩むからよ……俺はもう止まらねえんだ。


「甲斐はもう高校三年生だし、いい加減そろそろ彼女をねぇ」

「ずっと一人の姉ちゃんに言われたかねえよ」

「あ?」


 マジでごめんもう何も言わないんで……なんて、姉ちゃんにビビり散らしながらもマッサージを終えると、姉ちゃんは満足したようでお礼を言ってくれた。


「いやぁ気持ち良かったわ。アンタって揉み方とか触り方が優しいから本当に気持ち良いのよ」

「そうかよ。なら良かった」

「またお願いするわ~じゃあね」


 姉ちゃんが部屋から出て行き、まるで嵐が過ぎ去ったかのような静けさに包まれた。

 少しばかり指の疲れを感じつつ、ベッドに寝転がった。

 何かするつもりだったっけ……そう思ったのも束の間、当たり前のように手がスマホに伸びた。


「……………」


 画面をタップして起動するのはもちろん催眠アプリ。

 今日の検証や今までのことも含め……そして俺はついに決心を固めるに至ったんだ――俺はいよいよ来週、この催眠アプリの力を使ってエッチなことをするってな。


「……今からドキドキするぜ」


 早くその時が来てほしいと期待半分、今日みたいに直前で怖くなって止めてしまうか不安半分だけれど……ここで前に一歩を踏み出せるかどうかが俺の運命を決める!


「明日の日曜日は……そうだなぁ。どんな風にアプリを使うか、そのシミュレーションをするとしようか――待ってろ桃色パラダイス、待ってろ夢のような酒池肉林計画!」


 そんなことをバンバンと口に出した俺だが、すぐに恥ずかしくなって黙り込んだ。

 とはいえ俺の計画はもはや止まることはない。

 必ずやこの力を使い、俺は好き勝手してやる……っ!

 最初にターゲットにするのは……学校でも人気のギャル、相坂茉莉だ。


「相坂茉莉……くぅ、待ち遠しいぜ」


 たぶん今の俺、凄まじく気持ち悪い顔をしているに違いない。

 いつもならもう少し遅くまで起きているところだが、朝から歩き回っていたせいか土曜日だというのに妙に疲れが蓄積している。

 これを感じた時はすぐ寝るに限る。

 ということで、俺はその後すぐに眠りに就くのだった。


▼▽


 週が明けて月曜日、俺は自分の席に座って集中していた。

 まあまだ目的遂行の放課後には程遠いけれど、やはり大きな目的を掲げるには瞑想もとい集中というのは重要なのである。


「……すぅ……はぁ」


 心を落ち着かせるように息を吐く俺……いつもと違う俺の様子に晃と省吾がどうしたのかと聞いてきたが、俺からすれば馬鹿正直に話すことも出来ないので今日は重大な任務があって集中しているとだけ伝えた。

 流石にこんな言い方をしたら逆にもっと気にさせてしまうかと思いはしたものの、高校生活を共に過ごしたからこそ分かったと頷きそれだけだったのは嬉しかった……でもごめん二人とも、俺ってば煩悩に塗れてるだけだからマジで心配しないでくれ。


「おはようみんな」

「あ、おはよう茉莉!」

「相坂おはよう!」

「今日も可愛いぜ相坂」


 さて、そんなこんなでターゲットの登校だ。

 いつもの友人を含め派手な男連中に囲まれている相坂……やはり素晴らしいほどに綺麗な笑顔でずっと見ていられる。


(くくっ……俺はもう止まることはねえ。今日こそ俺は、この催眠アプリの力で大人になるんだ……やってやるぜ好き勝手によぉ!)


 今の俺は正に無敵だ。

 色々と葛藤はあったが結局はこの超常的な力を頼りにすることで、小さなことはあまり気にしないようにした……というか、これだけの力を前に俺が持つ葛藤なんて大した物ではないと思い込むことにした。


「……………」


 周りに囲まれ楽しそうにしている彼女を見ていると、下を向き一人で街を歩く彼女の姿は幻だったんじゃないかとすら思えてくる……やっぱり何かあったのかなあの日。


「まあ良い……俺は今日、やりたいことをやるだけだ」


 街中で女性にアプリを使った際、あの時はモジモジして何も出来なかったけど、おそらく一度やってしまえば慣れるはず……俺なら大丈夫だ……絶対に大丈夫!

 パシッと、気合を入れるように両頬を叩く……いてぇ。

 ヒリヒリと痛みが少し続くのは誤算だったが、今の一発で大分体に気合が入ったようにも思える。


 そして――待ち望んだ放課後がやってきた。

 一緒に帰るかと聞いてきた省吾に用事があるからと伝え、俺は教室に残り相坂が一瞬でも一人になるその瞬間を待ち……そしてそれが訪れた。


「あれ? 茉莉、今日は一緒に過ごさないの?」

「あ~……うん。今日はちょっと用事があってね」

「そっか。じゃあまた今度だね」

「うん、ごめんね。それじゃあまた明日」


 相坂は友人たちの輪から外れ、一人で教室を出た。

 俺はすぐさま彼女を追いかけるため立ち上がり、その後ろ姿に向かって近付いていく。


(……用事があるなら今日は無理か?)


 なんて、悪党にあるまじき気遣いをしそうになる自分を戒めながらここだと思った瞬間に声を掛ける。


「あ、相坂!」

「え……あれ、真崎君?」


 突然呼び止められたにもかかわらず、振り向いた相坂は嫌な顔をせず律儀に体を全てこちらに向けた。


「どうしたの?」


 コテンと首を傾げるその仕草に可愛いなと思いながら、俺は即座にアプリを起動し相坂を催眠状態にした。

 姉ちゃんや他に試した人と同じように、ボーッとした様子になった相坂の状態は間違いなく催眠に掛かっている……まずは第一段階が成功したことに喜びながらも、すぐに俺はこんな提案を口にする。


「な、なあ相坂……これから君の家に行っても良いか?」

「良いよ、おいで」


 おいでと、そう言われて心臓が跳ねた。

 相坂の抑揚のない声はさっきも言ったが間違いなく催眠状態……今の相坂は俺が何をしても拒否をせず、何をしても文句は言わない。

 そのことに興奮するのはもちろんのこと、後はもう退くことなく前に進むだけという事実が更に俺を高揚させる。


「よし……よしっ!」


 小さくガッツポーズをする俺を置いていくように、相坂は歩き出した。

 そうして少しばかり距離が離れると彼女はこちらを振り向き、俺を見つめながら動かなくなる。


「? あ、もしかして待ってるのか?」


 催眠を掛けたのは俺だし……そりゃそうだよな。

 ここはまだ学校で人の目は多く、相坂の隣に並ぶのは少々目立ってしまう可能性があり不安だったが、やはり俺と相坂ではそんな風に見られることもなく声を掛けられ

ることもない。


「……………」

「……………」


 学校を出てずっと、俺は相坂に案内してもらう形で歩いている。

 緊張してばかりで忘れていたが、確か相坂は用事があると言っていたっけか。


「相坂……用事あるってさっき言ってたよな?」

「……ないよ何も。あれは嘘だったの」

「へ、へぇ? どうして?」

「一人で過ごしたい時……あるから」

「そりゃ確かに」


 なるほど……当たり前だが相坂にもそういう時があるんだな。

 ということはそんな時に俺が傍に居るわけだけどまあ、そこは運命の悪戯ってことで諦めてもらおう。


「催眠状態の相手の記憶は残らない……それに催眠状態の時間の空白に困惑はすれど、そこまで影響がないことも把握済みだ」


 ちなみに今の相坂に自我がないからこそ、こうして催眠について喋っても相坂は何も分からないんだ。


「そう考えるとやっぱ罪深いっていうか、いけないことをしようとしてる感じがするよな」


 いけないことをしようとしてるんですけどね~。

 そんなこんなで会話少なめに相坂の家に着き、自然な動作で家の中まで入れてもらった。

 うちと同じく二階建てで相坂の部屋も二階にあるようだ。

 軽く話を聞いたけど相坂は一人っ子できょうだいは居らず、ご両親は毎日夕方遅めに仕事から帰るようで今は居ない……おあつらえ向きに相坂に好き勝手する場面が整っている。


「どうした?」

「……何でもない」


 一瞬、本当に一瞬……両親の話をする時に言葉が詰まっていたような気もしたが……まあ良い、あまり深いことは考えずに華麗にエッチなことをするとしよう。


「ここが私の部屋」

「おぉ……」


 通された部屋に俺は半ば感動する。


「ここが女の子の部屋かぁ……良いね!」


 姉は女の子じゃないのかって? 誰もそんなことは言ってません。

 心の中でそんなノリツッコミをしつつ、俺は改めて相坂の部屋を眺めてみる……う~ん、俺にとって今の感覚は未知だな本当に。


「めっちゃ良い匂いするし何より……へへっ、流石に変態すぎるか」


 俺の興奮を他所に相坂は相変わらずボーッとしているが、流石にスマホの充電を考えるとゆっくりもしていられない。

 とはいえそうは考えても目を引かれるものは多かった。

 姉ちゃんと同じように多くのぬいぐるみがベッドに置かれているのは可愛いし、意外だったのはアニメの男キャラが描かれたカレンダーが置かれていることだ。

 これだとアニメ好きなのかは分からないが、相坂だからこそ意外だ。


「……よしっ」


 さて、見学はこの辺りで良いだろう。

 俺はいよいよその時が来たということで、最後の防波堤として存在していた良心の呵責を完全に捨て去る……うおらああああっ!

 これで俺はもう無敵……さあやるぞ。


「相坂」

「うん」

「服を……脱いでくれないか?」


 言っちゃった……言ってしまった……っ。

 もう後戻りは出来ない……いや、ここでやっぱり止めてくれと言ったら彼女は脱ぐのを止めるだろう。

 しかし、徐々に露になっていく彼女の肌に視線が釘付けになり、俺は何も言えなかった。


「……すっげ」


 制服のボタンが外れ、胸元が露になった段階で俺はもうダメだった。

 年頃なのもあってか胸の谷間が見えただけで興奮は最高潮となり、この時点では完全に自分が最低なことをしているという認識すらも彼方へと跳んでいた。

 けれどそんな彼女に抱く欲情もまた……とあるモノを見てしまったことで彼方へと消え去ったのだ。


「な……なんだよそれ……」


 綺麗な肌? 豊満な胸元? 見た目通りの派手な下着?

 そんなものがどうでもよくなってしまうほどに、彼女の腕に付けられた生々しい傷痕が目に入る。

 俺は今までこんなものは漫画とかドラマでしか見たことはない。

 少なくとも自分の知り合い……いや、少しでも関わりのある人でこういうことをしている人が居るなんて想像したことがなかった。


「……………」


 正直、言葉が出なかった。

 目の前の彼女の裸体……まあ下着はまだ着けているとはいえ、こんな傷を見せられたら興奮も収まり逆に萎えてしまう。


「なんでそんなもんが……」


 そこまで言ったところで相坂は最後の防波堤である下着に手を掛け、俺はそこで彼女の腕を掴んだ。


「……待て……待て!」


 待て、その命令に相坂は忠実に従い手を止める。

 手を止めた相坂は相変わらずボーッとした様子で俺のことを見つめ続けたままだ。


「……何迷ってんだよ。目の前に抵抗しない女が居るってのに」


 あの街中の女性と違い、もう相坂は俺に肌を晒している。

 ここで俺が彼女に何をしたとしても記憶に残らないし、色々と後処理はあるだろうけどそれも気を付ければ彼女は何もなかったと思い込む。

 そうして何でもない普通の日常を相坂は歩むはず……ふぅ。


「どうして……」


 まあでも、何をしても良いということは何を聞いても良いということ。

 この状態の相坂は俺の操り人形なのだし、気になったのなら話を聞いてみるのも良さそうだ。


「その腕の傷……どうしたんだ?」


 俺の問いかけに相坂はビクッと肩を震わせる。

 彼女に自我はないはずだが、自傷行為をするほどなのだから無意識にでも何か感じるものがあったのかもしれない。


「私……」


 少しばかりの沈黙を経て、相坂は口を開いた。


「彼氏が居たの」

「……………」


 彼氏が居た……その言葉は俺が予め知っていたことの裏付けだった。

 同じ学校ではないどこか他所の学校という話だが……というか俺、彼氏が居る女に手を出そうとしたんだよな……いや待てよ? 居たのって言い方は過去形か?


「私の幼馴染なんだけど、ずっと一緒に居た男の子だった。高校は分かれちゃったけ

れど、中学の頃から付き合ってたんだ。何もなければそのまま続いてたと思う」

「うん……それで?」

「それで……っ」

「あ……」


 その時、相坂の瞳から涙が零れた。

 それでも表情の変化がなく涙を流しているため少々不気味な絵面だが、相坂は話を続けてくれた。


「でもそれはただただ私の一方的な気持ちだった。彼はもう私のことなんてどうとも思ってなくて、同じ学校の人と付き合ってた」

「……それで?」

「これって浮気だよねって問い詰めた。でもあいつはだからどうしたって開き直って……私のことがどうでも良くなったのは、私のせいだって浮気相手とキスをしながら言われた」

「うわぁ……」


 なんだそれ……聞けば聞くほど、こんなのも身近にあったのかと驚くと共に相手の男がとんだゲス野郎だとも思った。

 まあ俺も相坂を好き勝手しようとしたゲス野郎に変わりはないんだが、まさかそんな漫画でしかあり得ないような浮気が自分のクラスメイトに行われていたとは……。


「それだけじゃ……なさそうだな?」


 俺は彼女が居たことないので浮気をされる辛さは分からないけれど、相坂にはまだ何かある気がしたので聞いてみた。

 俺の感覚は当たっていたようで、相坂は頷き更に続けた。


「浮気……それはそれでもちろん傷付いたよ。でも、あいつはあることないこと私の両親に吹き込んでさ。それをパパとママは信じちゃって私だけが悪者になっちゃった」

「なんでそうなるんだよ……」


 そこは自分の娘を信じてやるのが普通じゃないのか?

 何をしてくれてるんだって相手の方を問い詰めるのが親としての責任じゃないのかよ……。


「あいつはパパとママにとても好かれてたから。だからあいつが被害者面するだけでパパとママはそれを信じて……あいつの気持ちを汲み取ってあげられなかった私がいけなかったんだってしつこくグチグチと言ってくるんだよ!」


 言葉遣いが激しくなるに連れ、涙の量も増えてしまった。

 俺はたまらずポケットに入れていたハンカチを取り出して彼女の涙を拭うのだが、それでも胸に秘められていた彼女の言葉は止まらない。


「彼は好きだった……パパとママも好きだった。でもいきなり世界が全部反転したようにみんな私を敵視するようになって……私はもう、どうすれば良いのか分からないよ」

「……………」


 今まで信じていたモノが全て敵へと変わった……なるほど、俺にはやはりそんな経験はないけれどこんな様子を見せられて、察することが出来ないほど鈍感なつもりはない。


「それで……それを?」

「うん……死にたいって思ったわけじゃないけど、心が苦しい時に痛みを感じると逆に安心出来るから」

「……そうか」


 それがその自傷行為の原因……か。

 それ以降の言葉は出なくなったため、相坂は胸に秘めていた言葉を全て吐露したんだろう。

 催眠に掛けられた相手は決して嘘を吐けない……これは全て、相坂に隠されていた事実ということだ。


「相坂……君、ずっと教室では元気にしてるよな。友達と楽しそうに話してるし……誰にも話してないんだな?」

「うん……話してどうなるものでもないしね」

「……女友達に関しては手を差し伸べてくれるとは思うけどなぁ」


 それでも心配はさせたくなかったのかな……相坂って優しいし。

 でも……そうかぁ……そんなことがあったのか。

 いつもいつも楽しそうにしてて騒がしいから、相坂たちの喋り声ってこっちまで聞こえてくるんだ。

 本当にうるさいんだよ……本当にうるさくて、本当に元気で可愛い笑顔ばっかだった。


「そんな闇を抱えていたんだな……」


 彼女が出来ねえとか、催眠アプリがやべえとか……そんなことを考えている中、相坂はずっと闇の中を歩いていたわけだ。

 腕に傷を作るほどの闇……ようやく、あの街中で見た彼女の曇り顔が偽物ではないことにも俺は気付けた。


「服を着てくれ」


 流石にもう相坂に何かしようとは思えなかった。

 彼女の知らぬ間にその素肌を見た事実は無くならないけれど、バレなければ良いんだよこういうのは。


「あ~あ、目が真っ赤だし化粧も崩れちまったな」


 これ……流石に俺は治せないぞ。

 俺がこの化粧の崩れた跡をどうにかしようとしたら壮絶ヤマンバが爆誕しちまうぜ。


「彼氏はともかくとして、両親からそんな風に思われるのは辛いわな。俺が憐れむなって話だが」


 彼女の抱える悩みに関して俺は何かを言える立場にない。

 何の関係もないしましてや俺は赤の他人だ……相坂とはただのクラスメイトで視線が合えば会話をちょこっとする程度でしかないから。


「取り敢えずハンカチを……おい」

「……………」


 涙を拭き取ったハンカチを離そうとしたが、ガッシリと相坂が握りしめてしまったせいで離れない。

 まさか催眠が? そう思ったけどまだ催眠状態は続いている。


「離してくれないか?」

「……………」


 そう言ったがやっぱり手は離れない。

 しばらく握らせておいて後で回収するか……別にハンカチの一枚や二枚なくなったところで困ることはないけど、安いとはいえ母さんが買ってくれたものだし……何より持ち主特定されたらマズいし。


「しっかし……このアプリ、改めて強力だと分かったな」


 服を脱げという命令に躊躇なく従うし、相坂が隠していた事実を話してしまうくらいには……本当に凄い力だ。


「……………」


 スマホの充電が半分を切ったか……それを確かめた後、俺はこちらを見つめ続ける相坂に視線を向ける。


「死のうとは思ってない……でも、もしもこれ以上自分を追い込んでしまったら相坂は……」


 それ以上のことは考えたくなかった。

 俺と相坂は友人と呼べるほど仲良くはないとしても、顔を知った相手がそんな理由で居なくなるのは気分の良いものじゃない。

「相坂……なんつうか悪かったな。ま、今の君に何を言ったところで届きはしないしそもそも俺はクソ野郎だ」

 けど……こんな風に相坂の事情を聞かなかったらもしかしたら、俺は欲望のままに相坂に好き勝手していた世界線もあったわけで……俺もまだまだゲス野郎にはなり切れねえみたいだ。


「人生ってのは男だけじゃねえよ。相坂はいつもクラスで楽しそうに過ごしてるし、大事にしてる友達だって多いだろ? 俺とは違って多くの人たちに好かれてるじゃねえか」


 ……なんだか言ってて悲しくなってきたわ。


「とにかく! 家族のことに関しては難しい問題だけど、まずは君を裏切った男のことなんて忘れちまえ。相坂くらいの美人ならもっと良い奴が引く手数多だろうよ」


 そこまで言って俺は体を解すように伸びをした。

 コキコキと首や肩の骨を鳴らし、俺は大きく息を吸い……そして吐いて心の丈をぶつけるように一気に言葉が漏れ出た。


「本当なら思う存分桃色パラダイスを満喫してたんだろうなぁ。マジで勿体ねえって……相坂のでっかい胸とか揉みたかったなぁ」


 最低なことばかり言ってるわ俺。

 相坂だけでなく異性……いや、それこそ同性に聞かれてもドン引きされるようなことを口にした俺ではあるが、やっぱり相坂はただただ光の失われた瞳で見つめ続けてくるだけで表情を変えない。


「……………」

「……人生色々あるっての。もしかしたら今はそんな風に悲しんでても、少ししたら腹から笑えるくらい面白いことに出会えるって」


 ほんと、どんな立場で俺はこんなことを言ってんだろうか。

 ポンポンと相坂の肩を叩きながら俺は立ち上がり、彼女が握ったままのハンカチを何とか回収することに成功した。


「相坂はダメだな! よし、次の女の子を探すぞ~!」


 つうか、もう少しゲスにならないとダメだなこりゃ。

 俺はもう決心したはずなんだ……外道になるって、最悪のクソ野郎になるってなぁ!

 俺がこうして獲物を逃すのはこれが最後……くくっ、待ってろよ次なる女の子! 今度こそ、必ずやってやるからよ!


「お邪魔しました~」


 相坂の家を出てすぐ、催眠アプリを解除した。

 きっといきなり学校から家に居たことで困惑はするだろうけど、それもすぐに収まっていつも通りに戻るはずだ。


「……………」


 ある程度離れた後、カーテンを閉め切った相坂の部屋に視線を向ける。

 相坂の奴……あんな風になるまで一人で我慢して、体に傷を付けるような女の子とは思わなかった。


「……なるほどねぇ」


 手にしたままのスマホを操作し、とある画像を引っ張り出す。

 それは催眠を掛けた相坂に命令して送ってもらった写真で、そこには相坂の元カレと浮気相手の今カノが写っている。

 俺はそれをしばらくジッと見た後――家に帰る道とは別の方向へ歩き出すのだった。


▼▽


 たぶんさ……俺ってただ馬鹿なだけなんだわ。

 相坂にやったことは間違いなく最低なことだけれど、この超常的な力である催眠アプリのおかげで何でも出来る気になってる。

 そもそも相坂から話を聞いて気の毒には思ったのはもちろんだが、それ以上にやっぱり好き勝手やりたかったなって……スケベなことしたかったなって後悔の方が大きいし。


「気ぃデカくなってる証だなぁ……気を付けないと誰かに足を掬われそうだ」


 まあでも、こう思えるくらいなら安心しても良いだろう。

 少しばかり暗くなってきたけどちゃんと家には連絡をいれているので、もう少し遅くなっても大丈夫だ。


「さ~て、あいつらか」


 俺の視線の先、そこには二人の男女が歩いている。

 遠目から見てもさっきスマホで確認した顔と一致する……つまり、あれが相坂の元カレとその女だ。

 段々と二人が近付いてくると当然喋り声も聞こえてくる。


「ねえねえ。あの子はあれからどうしてるの? まだ泣いてるのかな?」

「さあな。でも家族にまで見捨てられたなんざ傑作だわ」

「ひっど~い♪」

「面白いから良いだろ?」


 ……やれやれ、随分と分かりやすい話をしてるもんだ。

 二人とも俺と違ってイケイケのヤンキーファッション……う~ん、俺が言うのもなんだけど相坂って趣味が……いやいや、幼馴染補正もあっただろうしそれを言っちゃお終いか。


「あん?」

「誰こいつ」


 そんな二人の前に俺は立ち、こう言った。


「おい、ツラ貸せよ」


 ま~じで気がデカくなってるよ俺。

 それもこれも全部、この催眠アプリのおかげなわけだがな。


(相坂、君の裸見ちまったからお詫びとしてちょっとやれることやってみるわ。催眠

アプリは相手の心の壁を剥がす……だからこそ、相坂が本気でこの幼馴染のことをもう何とも思っておらず嫌ってることも分かってる。だから何かスッキリするような罰を与えてやるさ)


 そう、これは相坂の裸を見せてもらったお礼みたいなもんだけど……俺って何やってんだろうな。

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