猫と牛と肉と宝石

与野高校文芸部

猫と牛と肉と宝石 前編

――――犠牲者は叫び声やうなり声を上げるが、彼の声は笛によって柔らかいメロデイのような唸り声になるので、人びとは美しい葬送曲と思うでしょう          

                           (ルキアノス記)

                                          


 シュレディンガーの猫、という量子力学の言葉がある。「箱を開けるまで猫は生きているか死んでいるかわからない」というフレーズで世に蔓延ってしまった言葉だが、本来の意味合いはそれとは少し異なる。元々は「箱の中に猫が入っている。生きているか死んでいるかはわからないが、そこにいることだけはわかっている。今から箱を開けて確かめたいが、もしかしたら箱を開けるという行為が猫を殺してしまうかもしれない。箱の中の猫が今生きているか死んでいるかは開けてみないとわからないが、今どうなのかを知る術はなく、箱を開けるという行為が猫に影響を及ぼした後の状態しか知り得ない」というかなり哲学的かつ複雑な思考実験で、「観測という行為を行うことにより物体の状態が決定されているとしたら、観測したものは果たして本当に事実として認識して良いのだろうか」といったような意味をもつ。

「……ちょっと、急に脳内通信でごちゃごちゃと長文送ってこないでよ。あたしはまだなんだから、って、ねえ、聞いてるの」

  ノア。そう名前を呼ばれて、初めて自身が通信電波を飛ばしていたことに気付いた。資料から目を離す。

「ごめんなさいパローマ。無意識に考えていることを送ってしまったみたい。」

脳のメモリ化および身体の無機物化を完了していない人間、俗にいう肉のままな人間は、メモリ化が完了している人間よりも情報の処理に時間を要する。眉を少し下げて、声は少し高く。所謂をすると、パローマはこれ以上責めるのは気が引けるといった様子で外方を向いてしまった。

この国――イーデンでは、ここ半世紀で目まぐるしい程に科学技術の進歩を遂げた。出生数が極限まで減り先細りしていた国家を立てなおすため、政府は国民へ脳のメモリ化と身体の無機物化を努力義務化し、今では全人口の八割を超えている。他にも、社会的利用価値のある優秀な故人のクローン製造やHNI(Homo Novum Inorganicum―新無機物体人類)の開発など、とにかく為にありとあらゆる政策が執り行われた。現に、私もそれらの政策の中で創られた生命のうちの一つだ。

「それで、さっきのシュレンガの猫?とかなんとかって一体何の話なのよ。あたしたちが受け持つ事件と何か関係するの?」

パチッと音がして、パローマと目が合う。わざわざ相手の目を見て話すところや自分が遮った話も結局きちんと訊き返すところは、普段無鉄砲な彼女の持つ根の優しさが表れていると思う。

「いえ、ただ……最近、あちこちで行方不明者が相次いでいるでしょう?それが少し、シュレーディンガーこれの猫と似ているなと思って。」

つい先ほどまで目を通していた資料のファイルをパローナの端末に送信する。過去半年の蒸発・失踪者の詳細が記載されているそれを彼女はたっぷり三十秒眺めたあと、期待外れといった表情でこちらに目線を上げた。

「あたしにはどこにもなんて見当たらないけど。」

行方不明になったペットのリストではないのだから猫が見当たらないのは当たり前、と口を開こうとしたところで、彼女の言う「猫」とは「シュレーディンガーの猫と通ずるような情報」のことを指しているのだと気付いた。

「一月七日、一月二十九日、二月十八日……この三日、一日あたりの行方不明者が他の日よりも多いことに加えてそのほとんどが肉のままの人間なの。」

肉だから消えたのか。消えたから肉なのか。

「うーん。確かにその三日の行方不明者数が他と比べて多いのは気にならなくもないけど……そもそも、蒸発とか失踪って生活安全課の管轄よ。刑事課が勝手に仕事奪うなって文句言われるから、その辺でやめときな。」

「で、でも、イーデンにいるまだ肉の人間の割合からしても、」

「八割が無機物化を済ませたって言ったって、案外残りの二割って多いものよ。実際、あたしがそうでしょ?」

だから心配なんだとは口に出せなかった。




「はあ、こんな寂れた商店街で何調べろって言うのよ。人っ子一人居ないじゃない。」

 今日はとある事件の捜査として私とパローナで市民への聞き込みを行うことになった。しかし、上から指示された場所へ行くとそこはシャッターの閉められた店が立ち並ぶ所謂シャッター街。パローマは此処に着いてから延々と係長への愚痴をこぼしている。

「ひとまず開いているお店を探しましょう。これだけのお店の数があるんだし、一つくらい営業しているはずよ。」

「……ノアは偉いね。文句のひとつも言わないでさ。」

先程までカッカッと鋭く響いていたパローマのパンプスの音がコツンコツンとやわらかい響きに変わった。彼女の琥珀色の瞳がきらきらと眩しい。今日はこんなに日差しが強い予報だっただろうか。

「言えないのよ。……役目のために造られたクローンだもの。」

「それって、」

ガラガラと微かに音がして、百メートルほど先の店のシャッターが上がるのが見えた。

「あそこ、いまシャッターが上がったわ。行きましょう!」

彼女の腕をつかんで小走りで向かう。言いかけていた言葉は彼女のパンプスの音で聞こえないふりをした。






「なによあの理不尽上司。あんな辺鄙な場所に聴き込み行けって言ったのは自分なくせに、あまり情報得られなかったって報告したらあたし達の所為にしちゃってさあ!」

「いけないわ、パローマ。そんなに一気にお酒飲んだら身体に障ってしまうわよ。」

 グラスを取り上げることは出来ない為肩をさすって止めさせる。あれから調査を進めるために一日中歩き回ったものの、結局、最初に見つけた偶然開店に居合わせたお店――シャムロック宝石堂以外に開いている店は見つからず、唯一話を聴くことができたその店でも有益と言えるような情報は得られなかった。

「今日は飲む! 飲まないとやってらんない!」

配給のロボットが追い付かないほどのスピードで飲み進めるパローマを宥めつつ、聴き込み調査後の世間話の流れで宝石堂の店主に渡された商品の入荷リストを眺める。

 ふと、とある宝石の名前が目に留まった。ブレイゼン・ブル――真鍮の牛。店の中で目を奪われたあの宝石がそうだったか。宝石にしては珍しい模様をしていた。極東の遠い小さな島国に伝わる七宝焼に似た、緑や青がまだらに広がる美しい石だった……

「ねぇ、パローマ……私の考えすぎだと思うなら笑い飛ばして頂戴ね。」

「この宝石、入荷日がすべてあの三日と同じなの。」

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猫と牛と肉と宝石 与野高校文芸部 @yonokoubungeibu

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