解散前夜

押田桧凪

第1話

「じゃあ俺、ルービックキューブぐちゃぐちゃにする係やるから、お前元に戻してみて」と相方が言った。台本にないセリフだったから、俺はつい、殴った。その一瞬は空気がいちばん透き通っていて、観客の笑いが止んだ。自己紹介直後、導入を始めてすぐの出来事だった。


 それが、たぶん明日には解散することになる俺たちの最後だ。ルービックキューブはもう元に戻りそうにない。


 なんでやねん! その一言が言えなかった俺は、芸人失格なんだと思う。いや、咄嗟に言える速さも土壇場で機転を利かせることも、大喜利にも定評があったから掴み取った舞台だったはずで、それを一夜でふいにした俺がいちばん馬鹿だった。なんでやねん、なんで俺はそないなことできへんかったんやろうって。


 カチャカチャ動かすのが好きだった。楽屋の休憩で手軽に持ち運びができて遊べるゲームが俺にとってルービックキューブだったのに加えて、ネタ合わせ以外の時間であいつと喋る「暇」を削りたかったからだ。方向性の違いなんかじゃなくて、それ以前の問題だった。コンビ仲が悪かった。


 口をひらけば文句しか出ない、すぐに手が出る。なら喋らん方がええな。艱難辛苦を乗り越えてきた人生の先輩面する俺のじいちゃんがもしここに居たら、「そんなもんや」って言うんやろうけど、あいにく俺は心広ないから。無理や。


「コンビ解散の危機」の字面が滑稽なほどに似合いすぎてる俺たちが、今更誰かから止められるとは思わなかった。『今までよーさん殴れて、良かったわ。』連絡用でしか使ってこなかったメッセージアプリにそう打ち込んで、やっぱり消した。


 だけど本当に殴りたくて殴ったのは、今日が初めてだった。ノリ、じゃなかった。裏で、あいつら仲悪いけどおもろいよな、ぶっ飛んでてそれが逆に良い、規制されてない方がおかしい、最高、最低……さんざん言われて、でも諦めがつかなくて。スタンドマイクを前にしている時だけ俺たちは平等に照らされる人生だったから、芸人を辞めるに辞めれない生活してたよ、じいちゃん。


 それが、どっかでほつれた。本当にやりたかったことって何なんやろ? 思い返せば俺たちは、ずっとモブだった。小中高でできた友人は「芸人をやってる」と言えば敵味方関係なしに離れていった。「一発ギャグやりまーすっ!」で向けられた冷めた視線も「おい無視すんなや!」って俺の代わりに怒声を上げた当時から隣にいたあいつも、ステージに立った時だけぜんぶ忘れられる。いわゆる「地下」にいた俺たちだから、地上波では流せないようなシーンも、コンプラにひっかかることなく画になる痛快なコメディをやれてた。


 笑いのギブアンドテイク。そこらに溢れる成り上がり系や報復系なんかとは違う、みんなが見たがっている痛がり方を、過剰な期待を一身に背負って芸人やってるから、「もっとやれよ!」って繰り出される罵声も煽りも劇場ハコの熱に変えて、俺たちだけの空気にする。


「俺のじいちゃんがさー、『そんなもんや』が口癖でさー」


「大体のじいちゃんは、そんなもんや」


「そ、その声はもしかして……じいちゃん!?」


「そうじゃよ」


「あ絶対ちゃうわ、そんなもんやしかじいちゃん言わへんから」


「そんなもんや」


「いや、遅い遅い。もう遅いわ!」


「じゃあ俺、ルービックキューブぐちゃぐちゃにする係やるから、お前元に戻してみて」


 ウケた。思いのほかそのセリフはウケてた、と思う。なんでやねんの瞬発力より先に到達してしまった沸点に俺自身がコントロールできなかったことが、悔しい。「え?」とか「は?」とかじゃなくて、ああぜんぶ棒に振ったな、と自分でも一瞬で分かって、照明さんの計らいで暗転したのが救いだった、と思う。直後に何してん、と殴られた。今度は俺が殴った。拳が重かった。暗闇の中で乾いた音が響く。生まれて初めて使った笑いのためじゃない、正しくない拳が痛くて、手のひらで受け止めきれなかった、生み出せたはずの笑いの熱量のぶんまで痛んだ。でも、笑かすのはお互い好きやった。


「照明さん、消さんといてください! 今なら俺たちの喧嘩が見れますから! ほんでそれ見てみんな笑うとおも、……」


 口を塞がれる。言うべきことはそれやないやろ、とでも言いたげな虚ろな目で相方に平手打ちされた。人を楽しませることってムズいな。目の前にいる人間でさえ、こんなにかなしげな顔をしている。そう思った。


 ──はい! UNOって言ってないー!


 記憶の中の嫌いなやつの顔を思い浮かべて、見てるやつ全員が引くほどに相方を殴りつける。何度も、何度も。この快感を、スポットライトは照らしてくれない。



 ネジの外し方を理解してくれるやつが欲しかったから、お笑いに誘っただけだった。適性とかじゃなかった。放課後に、教室の机と椅子で倒壊するかどうかギリギリのラインで積み上げたタワーを俺が作っていたのが十四の時。傾いた椅子がまっさかさま、下敷きになったあいつは全治二週間のけがをして、俺は停学になった。ちなみに、けがが治った後にほぼ傍観者やったあいつも一緒に停学になった。正直、最高におもろかった。「何針縫ったと思う?」という意味のない問答だけがステータスだった中学生の俺たちが、帰り道に傘で、バットで、棒切れで、黒板消しでふざけ合ったのもつかの間、オーバーヒートすれば俺たちはいつも喧嘩になった。


 どこまでが「笑い」に映るかっていうのを考えるようになったのもそこからで、「血って冷めんねん。見たら引くやろ? 普通。やから、内出血が一番効率ええな」とあいつが言った時、思わず俺は笑った。もし、ほんまにおもろかったら暴力も正当化されるんちゃうか? そんな逃げ道を探してきたつまらんお笑い人生だったように思えて、一色も揃えられないあのバカに、ルービックキューブを投げつけてやりたい気持ちだった。


「じゃあ俺、ルービックキューブぐちゃぐちゃにする係やるから、お前元に戻してみて」


「明らかにかかる労力違くない? 作業でできることと脳使ってやることやん」


「人間にできることとAIにできることは分業せなあかんやろ?」


「あれっ俺、いつの間にかAIと思われてたの?」


「そんなもんや」


「エッじいちゃんっ……!? 会いたかったよ!!」


「そうじゃよ」


「あ絶対ちゃうわ、そんなもんやしかじいちゃん言わへんから」


 台本にないそのセリフの後に、なんて続ければ良かったのか。ありえたかもしれない掛け合いを頭の中で続ける時だけ俺は許される気がした。誰に? 相方に? 


 解散の二文字が頭を駆け巡ってから、皮肉にもあいつと一緒にいるかのように体感する時間が増えたような気がした。ボケの不在を今まで実感したことが無かったから誰のために殴っていたのか、誰を笑わせたかったのかも、もう俺には何も分からなかった。だけどもし俺が相方だったら「解散したい」と思うはずだから、俺は解散したくないと思ってないんだろう、と逆説的に脳が結論に至る。


「バカまじめに俺だけカチャカチャしてんとちゃうぞ。ぐちゃぐちゃにしたお前もカチャカチャの罪で同罪や!」


 劇場から夜風に当たりながらひとり歩いて帰宅すると、不意にいちばん言いたかったはずのセリフが降りてきた。言いたくても言わないことが正解になる関係だったから、言わなくて良かったと俺は思った。今日のことがぜんぶ嘘になる気がして、でもそれだけは嫌だったから、「もうええわ」という言葉をぐっと飲み込んだ。

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