楊貴妃の腹掛け

百舌すえひろ

「おっぱいソムリエになりたいです」


生まれて初めて本気の夢を語った。

子供のころから漠然と思っていたが、世間が許さないと感じて言えなかった本心。

目の前のおじさんは真面目な顔で「ウンウン」と頷き、レジの裏から紅くてサラサラした布地を出すと「今日からこれ着て生活しなさい」と言って女モノの下着を出した。


*


二時間前の俺はガード下の立ち飲み屋で同僚と三人で飲んでいた。

ひとりは会社から遠く、終バスに間に合わなくなるからと帰り、ひとりは同棲してる彼女からの電話で抜ける。

俺は彼女無し。

実家は会社に近いし、金も貯まるから一人暮らしなんぞしない。

帰っても玄関で出迎えてくれるのは犬のパン(食パンのような色だったから)だけで、家族とは口を利かない。すぐに風呂に入って寝る。だからなんとなく先延ばしにして、遅く帰る癖がついてしまった。

終電一本前の時間に合わせ、立ち飲み屋を出る。

八月の夜風が生温かく俺を包む。

運ばれる湿気が、俺の鼻や口に付きまとい、息苦しさを感じさせた。閉塞感。

『俺って、こんな人生歩みたかったのかなぁ……』

虚しい独り言が頭の中に浮かぶ。


「おい、そこのにいちゃん。百円持ってないか?」

明かりの消えた自販機の前でボロボロの服を纏った大柄な爺さんが話しかけてきた。

「ん、電車賃か?」

俺は酔った頭をフラフラさせながら自分の財布を開くが、ジャリ銭がない。

「ごめん、ないや」

「にいちゃんそれ、貸してもらえんか」

爺さんはいつのまにかにじり寄ってきて、札を見ている。

「あー……崩すのは……」近くにコンビニが見当たらない。


突然、財布が宙を舞う。

爺さんは老人とは思えない機敏さで、空中に投げ出された財布をつかみ取ると、駅と反対方向の商店街に向かって走って行った。

「あぁああぁああえぇえええ~……!?」

言葉にならない嘆声たんせいが口を突き、無心で爺さんを追いかける。

酔ってるせいで視界がぐにゃりと歪み、本気で走っても追いつけない。足がもつれ、商店街の端に止めてある自転車の列に突っ込んだ。


ショックのあまり起き上がれず、仰向けになるとアーケードを見た。

できた当初は教会のステンドグラスのような色彩だったのだろうが、長年の雨風に晒されカビやゴミが溜まったおんぼろの色天井。

安っぽい。俺の人生みたいに。


スマホで時間を確認すると終電の時間が差し迫っている。

でも金がない。財布の中には定期も入れていた。


「兄さん、大丈夫か」男の声がした。

さっきのひったくり爺じゃないだろうなと身構えたが、知らない男だった。

夏なのに目深に被ったフィッシャーマンハットが暑苦しい、青地のTシャツに黒いオーバーオールを着たおじさん。

喋るたびに白髪の混じった長めの口髭がもぞもぞと動く。

「ひでぇな。ちょっとこっち来い」

おじさんは俺の身体を起こすと、自転車の列で入口が塞がれシャッターの閉まった店に俺を引っ張り込んだ。

不安でキョロキョロする俺に「心配すんな、傷の手当しちゃる」と言い、レジの奥からパイプ椅子を出した。


古びた蛍光灯の明かりで見える店内は、埃の被った箱で埋め尽くされていた。レジの奥にある棚には百科事典のような大きな本がぎっしり入ってる。とにかく埃っぽい。


店のおじさんが簡単に傷薬とカットバンで見えるところの傷の手当てする。

「おれなにやってんだろ」

酔いと衝撃でまともに考えられなくなってる俺。

ちょんちょんと薬を塗るおじさんが、片眉を上げて髭を動かした。

「兄さん、辛そうだな」

その言葉を聞いた瞬間、俺の瞼は決壊したダムのように水を滴らせた。

知らないおっさんの前で声を上げずに泣く。

普段だったら絶対考えられん、想像したくもない惨めで情けない姿。

おじさんは黙って手当を続け、終わると店の奥から大きいマグカップとコーヒーサーバを持ってくる。

眼の前で注ぐと「飲み」と差し出した。


暗褐色というよりどす黒い熱い液体。

夏の夜、空調の効いていない締め切った埃っぽい店の中で飲む。

普段だったら遠慮したいロケーションだが、なんかもうどうでもいいやって気分になっていた。


「兄さんには夢があるか?」

突然おじさんが聞いてきた。

「いや、別に……」夢なんて小学生の作文課題ぐらいでしか語ったことない。

「勤め人なんだろ。今の仕事好きか?」おじさんは俺のよれたワイシャツとスラックスに目をやる。

「会社員やってるよ。好きとか嫌いで選んでないさ」就職活動の時にとにかく受かればいいと思って、名前の知れてる会社を手当たり次第に受けた。思い入れはない。

「好きなことないのか。兄さんが生きがいに感じること、一つでもあれば俺が叶えてやれるんだがなぁ」

おじさんは残念そうに眼を伏せ、スティックシュガーの封を切った。

願いを叶えるって? なに言ってんだこの人。

俺は場違いな慰めにイラっとした。

安っぽい。なにもかも安っぽい。

自分の店が繁盛してなさそうなのに、他人の、行きずりの人間の願いを叶えてやるとか、安易にモノを言い過ぎる。

傷の手当やコーヒーをご馳走になっておいてなんだが、そのおじさんの物言いに無性に苛々した。

「夢……、無くはないですけど」遠い記憶を遡り、かすかに残る断片と羞恥心をかき集め、俺は吐き出した。


「おっぱいソムリエになりたいです」


*


口にした時の気分は『言ってやったぜ、参ったか』だ。

こんな夢、叶えられるわけがない。

このおっさんは自分が口にした気軽な慰めを後悔しただろう。

そう思った。

そしてこの後は『ちょっと器の大きい自分』を演じるために笑うのだ、きっと。

これは『男同士のちょっと下品なジョーク』くらいな雰囲気に持ち込んで、和やかに濁すだろう。ひくならひけ。


しかし、おじさんは吹き出しも引きもせず、真面目に俺を見ると、レジの裏に向かった。

埃の被った箱の一つから紅いキャミソールを取り出して「今日からこれ着て生活しなさい」と言った。

捨て鉢な気持ちだった俺は、おじさんの反応に戸惑った。


「おじさん。俺、女装癖とかないし、女になりたいわけじゃないんだけど……」困惑して下着を突き返す俺に、おじさんは静かに語る。


「それは『楊貴妃の肚兜どぅどう』と言ってな……要は昔の人のブラジャーじゃ」

「女物の下着を集めたいんじゃないんだって」

「それを着ると、お前に近しい女たちが、こぞって乳を差し出してくるぞ」


な ん だ と

俺は頭が真っ白になった。


「常時身に付けていなさい。お前の生活圏内に出会うすべての女が対象だが、お前に好感を抱いてる女ほど効果が早い」

「つまり、ある程度好かれてなきゃ難しいってこと?」

「好きとか嫌いとか強い感情が既に芽生えている女にはそこそこ早く効果が出るが、無関心な人間の心変わりを期待するのは時間がかかる」


そうか。

まず、好感度を稼がないといけないわけですね、師匠。


俺は心の中でおじさんを師匠認定した。

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