伝説の夫婦

如月姫蝶

伝説の夫婦

「あら、社長、指先にささくれができておいでですわ」

 秘書のカササギさんが、驚いたように言った。

「そのようね。私はやっぱり、爪のお洒落は苦手だわ」

 アパレルメーカーの社長たるもの、それ相応の身なりを期待される。しかし私は、爪を飾るとすぐに指先が荒れてしまうのが、細やかな悩み事なのだ。

「あの、社長……このこと、ご主人はご存知でいらっしゃいますか?」

 カササギさんは、眉を顰め、声を低めた。

「このこと……とは?」

「社長が、指にささくれをこさえながら、毎日頑張っておられることに決まってますわ!」

 私は、瞬時に膝を持ち去られたごとくに脱力したが、なんとか踏み止まった。

 カササギさん……その言い方だと、私が、まるで家事やら水仕事やらに疲れ果ててるように聞こえるよ? 私は、確かに家事は苦手だけど、家政婦さんを雇っているし、好きで社長業に邁進してるだけだからね!

「この程度のこと、別居中の夫に、わざわざ伝えるまでもないでしょう?」

「いえいえ、ご夫婦の間で、隠し事は良くありませんわ!」

 カササギさんは、真剣そのものの表情で、両の拳をぐっと握り締めたのだった。


 カササギさんは、秘書としての業務はテキパキとこなしてくれるのだけど、どうにも発想が浮世離れした一面を持つ。地に足がついていないというか、空飛ぶ鳥のようだというか……

 指先のささくれのことなんて、黙っていたところで、隠し事のうちには入らないでしょうに!

 けれど、私には、カササギさんがこれから取る行動を、ありありと思い浮かべることができた。

 彼女は、夫に連絡を入れて、私と会うよう進言するに違いない。

 カササギさんは、昔から私たち夫婦の橋渡し役なのだが、近頃はお目付け役までも気取っているようだから。


「本当は……こだわりの牛車に乗ってほしかったんだけどな」

 久しぶりに顔を合わせた夫は、少しばかりむくれていた。

「あら、あなたらしいわね。でも、今は2024年よ。それを弁えてくれると嬉しいな」

 私は、笑顔で釘を刺した。

 

 おそらくはカササギさんが、勝手に連絡して入れ知恵したのだろう。別居中の夫から、休日にデートしたいという申し出があった。彼がサプライズ云々と言い出したため、私は、はっと察して、デートの行き先は彼に任せるけれど、移動手段はこちらで確保すると譲らなかったのだ。

 正解だった。

 私たち夫婦は、リムジンのゆったりとした後部座席に並んでいる。

「ねえ、あなた……どこへ連れて行ってくれるの?」

 夫に触れるには、少しばかり手を伸ばさなければならない。私は、何気なく伸ばしかけた手を、結局引っ込めた。指先のささくれが、まだ治っていないのだ。

「デートの行き先は、まだ秘密。着いてからのお楽しみだよ」

 夫は、白い歯を見せて笑った。けれどその後、車内には沈黙が流れた。


 私たち夫婦は、どちらも仕事人間だ。

 私は、都心に、アパレルメーカーの本社を構えている。彼は彼で、片田舎で農場を営んでおり、畜産に打ち込んでいるのだ。

 おのずと別居に至ったが、お互いを憎んでいるというわけでは決してなく、それぞれに仕事を愛しているだけ……のはずだ。

 けれど、久しぶりに対面したというのに、特に会話が弾むこともない。

 私たちが結婚したのは、もう随分と昔の話だ。さすがに結婚生活が長引きすぎたかな?

 ふと、「卒婚」なんて言葉が、私の脳裏をよぎった。

 それと同時に、様々な思い出も蘇った。


 私は、物心ついた頃から、衣服を作ることに興味津々だった。寝ても覚めても脳裏に色鮮やかな意匠が思い浮かんで、夢中で機織りしたものだ。

 あまりに仕事一筋すぎて、年頃になっても浮いた話の一つもないではないかと、父に心配されて引き合わされた相手——それが夫なのである。

 結婚した途端に、私の世界は、どんな意匠の織物よりも美しく色鮮やかになった。そしてそれは、牛飼い一筋だった夫にとっても同様だったらしい。

 私たちは、仕事も忘れて、川のほとりでお喋りに興じた。それだけで一日が過ぎ去ってしまう、そんな日々を繰り返しすぎたのだ。

 ついには、結婚を勧めたはずの父の怒りに触れてしまい、強制的に別居させられた。対面する頻度も、厳しく制限されてしまった。

 以来、私と夫は猛省して、ワークライフバランスを考え直し、信用を回復するに至った。

 その後は、結婚生活のマンネリ化を防ぐためにも、時折地上に降りて、人の世で暮らすようになったのだ。

 いつだったか、夫が、こだわりの牛車をプレゼントしてくれたことがあった。

 車を引く牛を飼うところから始めて、とことんこだわり抜いた一点物だった。

 その当時、人の世では、牛車は貴族の乗り物だったし、私も無邪気に大喜びした。けれど、人の世はうつろいやすいものだし、千年前の成功体験を、いつまでも引きずられても、ねえ……


「ねえ、あなた。私たち、新婚の頃、何をお喋りしてたんだっけ? 日がな一日二人で話していたはずなのに、ちっとも中身を思い出せなくて」

 私は、ついに沈黙を破った。

 夫は夫で、しばらく考え込んでから、「覚えてないなぁ」と頭を掻いた。

「ただ、とっても綺麗だなぁと思ってた。お喋りするきみの表情や、髪を掻き上げる仕草なんかがさ。何を話してたのかは忘れちゃったけど……」

 言われてみれば、私も私で、あの頃の夫は、優しかったし温かかった、といったことは思い出せるのだった。

 けれどお互い、断片的に過去形で語るしかないんだよね。当然のことだけど、川のほとりで過ごした、あの新婚の日々は、もはやあまりにも遠い過去なのだ。

  今回、人の世で生きるにあたって、おのずと別居になったのも、やむをえないことなのだろう。


「ほら、着いたよ」

 やがて、夫が言った。

「え、ここって?」

「見ての通り動物園だよ」

 そうね、見解の相違はない。二度見したけど、そこは確かに動物園だった。

 夫が、サプライズデートの行き先として選んでくれたのが、近隣の動物園だったなんて!

 これはさすがに、リムジンで乗り付けるような場所ではなかったかもしれない。

 だからって、牛車だったら良かったというわけでは、もちろんないのだけれど……


「実はさ、今日は僕たち、パンダに餌をやることができるんだ。ものすごい倍率を勝ち抜いてゲットした、特別な権利なんだからね!」

 リムジンを降りて、飼育員の案内に従いながら、夫は、白い歯を見せた。

「あら素敵」

 私は、一先ず調子を合わせた。ここで不機嫌な反応を露わにするほど浅慮ではないのだ。

 やがて、柵を挟んで対面することになったのは、パンダの成獣の雄だった。

 そいつは、どこかふてくされたように、コンクリートの上に座り込んでおり、私たちを見ると、威嚇するように息遣いを荒くした。

 パンダの場合、大人の雄というのは、どうにも愛嬌に欠けるのだ。もっとも、不慣れな相手から餌を貰うなどというストレスフルな役目には、子供や子育て中の雌よりも適任なのかもしれないが。

 夫は、いそいそと軍手をはめると、餌用の笹を手にした。

「ほら、パンダが餌をねだってるよ、『笹くれ』ってさ」

 ん? 夫よ、今、なんつった? ダジャレを盛り込んでいたように聞こえたが?

「……カササギさんから聞いたんだけどさ、指にささくれを作りながら頑張ってるんだって?……きみ、大丈夫?」

 間違いなくダジャレだったようで、夫は、照れくさそうに訊いてきた。

 あの秘書め、やはり情報を伝える際に印象操作を行ったな!——というのはさて置いて……

 私は、頭痛を禁じ得なかった。

 夫よ、そのダジャレのためだけに、パンダに給餌する権利をゲットすることから始めたのか?

 私はうっかり、羽衣を纏って、実家に舞い戻ってしまいそうになった。


 その時、夫が手にした笹が、風に吹かれてサラサラと音を立てた。

 それは私に、川のせせらぎの音を思い起こさせた。新婚時代の私たちが、ほとりでお喋りに興じた、あの川……

「ウッシッシー……牛飼いだけに!」

 そんな夫の話し声と、私自身の無邪気な笑い声までが蘇った。

 そうだ、夫は、あの当時から、ダジャレを連発していたのだ。そして、私自身は、天帝に誓って、ダジャレ愛好家ではないけれど、あの頃は、いつも笑っていたような気がする。夫に夢中になる余り、彼の口から出る言葉なら、何であれ好ましく感じられたのだ……


「ねえ、どうかした? 本当に大丈夫?」

 私は、夫の呼び掛けで、我に返った。

「ええ、大丈夫よ。心配いらないわ。なんだか新婚の頃を思い出して、元気が出ちゃったわ」

「それは良かった! ウッシッシー……牛飼いだけに!」

 夫は、定番のダジャレを繰り出したのだった。

 折角の機会には違いないので、私も軍手をはめて、パンダに餌をやった。

 新婚時代の思い出が蘇ったところで、あの当時そのままの心持ちに戻れるわけではなかったけれど、少なくとも、目の前のパンダよりは、夫のことが可愛らしく思えたのだった。


「ちょっと、牽牛様、笹を手にしていながら、七夕をネタにしないとは、修行が足りませんね! このままでは、お義父様たる天帝陛下に、マイナス査定を進言せねばなりませんよ! ちょっと、織姫様からもビシッとおっしゃってくださいましぃ〜〜!」

 二人の頭上では、一羽のカササギが、小煩く飛び回っていた。

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