【KAC20243】不味い味噌汁

金燈スピカ

不味い味噌汁

 頭痛がすると言っていた母は、救急車で運ばれたきり意識は戻らず、小さな箱に入って帰って来た。


 母ひとり、子ひとり、穏やかで慎ましい暮らしだった。ハヤトはお父さんによく似てるね、と言いながら高校の制服の襟元を直す母の眼差しがくすぐったくて、でも俺に触る指先がガサガサなのを見るとその手を振り払うことも出来なくて、いつも苦笑いしながらされるがままになっていた。


 2LDKの部屋の家賃は安くなかったと思う。父が交通事故に遭ったのは俺が小学三年生の時。俺が学校から帰るといつも家にいた母は、毎日泣き暮れて、でもその鼻声が治らないうちにあちこちに電話して、父みたいにびしっとしたスーツを買ってきた。俺にメシの作り方、掃除と洗濯とゴミ出しのやり方を教えると、きっちりと化粧をして俺よりも早い時間に家を出て、俺よりも遅い時間に疲れ果てて帰ってくる。俺が作った丸焦げの鮭の切り身と、ほとんど味がしない味噌汁を飲んで、おいしいね、ありがとう、と笑うのが、どうしてこんなにイライラするのか自分でも分からなかった。


 母は職場では優秀な方なのだと思う。時々母の友達だという女の人が家に遊びに来ることがあった。俺は全く覚えていないが、大きくなったね、なんて言われるとその場から逃げ出したくなる。今の身長になるより前の話はしないで欲しかった。母が自慢の息子だよ、というのもやめて欲しかった。俺が作るメシはずっと不味いし、家事も適当だし、正直面倒だ。かといって家のことを拒否するだけの勇気も持てず、惰性でやっているだけの俺を、そんな風に褒めないでほしかった。


「……家、着いたよ」


 キッチンのダイニングテーブルの上に箱を置いて話しかけてみて、ものすごい後悔が襲ってきた。話しかけても箱が、その中身が何か答えるわけがない。ぐっちゃぐちゃに散らかって、箱を置くにも上に置いてあった郵便物を薙ぎ払って床に落としてようやく置くような有様だ。カップ麺とコンビニ弁当のゴミも、シンクに山盛りになっていてそろそろやばい。もし、母がこんな小さな箱に入ってなかったら、この惨状を見て何というだろう? 大変だったよね、ありがとう、と笑うだろうか。一緒に片づけちゃおう、とスーツのジャケットを脱いで腕まくりするだろうか。どの姿もありありと思い浮かぶが、どれもこれもイライラさせられる。胸がむかむかする、腹が煮えくり返る──


 どうして、全然できてない俺を叱らなかったんだよ、母ちゃん。


「…………」


 味噌汁が不味ければまた作り方を教えてもらえるかと思った。部屋が汚ければ一緒に掃除をしてくれるかと思った。だってあの日まではずっとそうやって来たからだ。綺麗な化粧をした母の横顔はまるで別人で、俺の子供っぽいわがままなんか笑い飛ばしそうで怖かった。だから、不味いメシを作った。でも不味いメシを母に食べさせたいわけじゃなかったんだ……。


 椅子に腰かけて俺はため息をつく。もう遅い。全部遅いんだ。だって母はもう、こんな小さな箱の中に入ってしまった。今更になって美味い味噌汁が作れるよと言ってみたところで、その言葉はどこにも届かない。そうだ、もう、大声で泣いていいんだ。だってもう誰にも聞かれないんだから。


 子供のように泣いていると、不意に奥の部屋でカタンと何か物音がした。俺はびくりとして口をつぐむ。電気さえつけてない部屋は、夕方も通り越すと真っ暗で、電子機器の小さなランプしか見えない。立ち上がって電気をつけるが、ゴミだらけの部屋に特に変わったところは見当たらなかった。音がしたのはかつての両親の、そして今は母だけの寝室だろうか? 扉を開け、電気をつけて覗いてみると、ぐしゃりと丸まったままの布団と、ドレッサーの前に出しっぱなしのメイクボックスが置かれているのが目に入った。筆みたいな道具と口紅が転がっているから、このあたりが倒れた音だったのかな。


 口紅は蓋が閉まっていなくてドレッサーに少し色がついていた。まったく。ちゃんとしろよな。蓋はどこかとドレッサーの上を見ても見当たらない。床を見渡すと、ドレッサーの椅子の下に落ちていた。屈んで拾おうとすると、ちょうど椅子に座るとつま先が来るあたりに、お菓子の缶の箱が置いてあるのが目についた。


「……これ……」


 最初は確かクッキーが入ってたんだ。綺麗な缶だったから俺が気に入って、しばらくはお菓子箱として機能していたが、とっくに捨てたんだと思っていた。持ち上げてみると中でカサカサと何かが揺れる音がする。開けてみると、メモ用紙を小さく折りたたんだものがいくつもいくつも入っていた。試しに取り出して一つ開いてみると、母の手書きの文字が目に飛び込んできた。


 一緒に映画に行く。


「……映画……?」


 首をひねって、他のメモも開けてみた。焼肉に行く。野球の試合を見に行く。弁当を持って花見をする。遊園地に行く。シチューを作る。授業参観に行く……。


「…………」


 そう言えば、母は働き始めてから、めっきり授業参観に来れなくなった。フルタイム総合職で復帰したからという言い訳は呪文のようにしか聞こえず、俺はその時ばかりは泣き喚いたが、母を引き留められないことも知っていた。仕事だから仕方ない。でもその中のたった一日、たった数時間だけ、俺に時間を使うことは出来なかったのか。叫んだ俺に、母は悲しそうに微笑むだけだった。


 何だ、この箱は。何だ、このメモは。


 俺は缶のフタを見てみたが何も書いてない。メモを全部出すが何もない。箱の本体を持ち上げて底の裏を見ると、そこにはマスキングテープが張られていて、その上に油性マジックで「ハヤトとやりたいこと」と書いてあった。


「……やりたい……こと……?」


 父が死んでから、母が働き始めてから、それまでの当たり前が一つ一つ剝がされて捨てられていくようだった。食うに困らないために、俺の進路を諦めさせないためにと頭では分かっていても、目の前の日常が失われていくのが、俺は何よりも辛かった。メモを一つ一つ開きながら、働きづめで疲れた顔に化粧をしていた母の姿が思い出される。涙がぼろぼろと落ちて止まらない。ソファーでだらしなく寝落ちてしまった日もあった。キッチンの机で夜中まで持ち帰りの仕事をしていた時もあった。そんなに働かなくてもいいよ。俺は味噌汁もろくに作れない駄目な子供なんだから、アンタがそんなに必死になるだけの価値なんかなかったんだよ……。嗚咽と共に開いたメモの一つを見て、俺は目を見開いた。


 本当は、ハヤトは料理が上手なんだよねってバラす。


「…………」


 バレてた。バレてたんだ、俺がわざと味噌汁を下手に作ってたこと。それなら早く言ってくれればいいのに。あんな不味いもの、なんで黙って十年も飲んでたんだよ……。


 俺はメモをぐしゃぐしゃと箱に戻すとフタをして元のところに戻した。そのまま膝を抱えて泣きじゃくり、床を、壁を、自分の膝を何度も叩いた。そんなことをしても何も変わらない、時間は戻ってこない。けれど、そうでもしないと、身体が破裂してしまいそうでどうしようもなかった。母はもう、あの小さな箱から出て来ないのだ。坊主によればそれも四十九日のことで、その後は極楽に向かて旅立つのだという。もう遅い、もう間に合わない、こんなことになる前に早く病院に行けと言えばよかった。美味いメシで、お疲れ、ありがとうと言えばよかった……。


 俺はそこで、夜が明けるまでずっと泣き通した。


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