新選組副長の文箱は危険なり
斑鳩陽菜
第1話
文久三年――、京・
朝から容赦なく心身を
青年の背後には、同じ羽織に袖を通した仲間が数十名――、京の治安を悪化させている過激攘夷派や不逞浪士を取り締まる、新選組・一番隊の面々である。
京都守護職にして会津藩主、松平容保の傘下にあるとはいえ、町の人の新選組に対する評価は冷たく、この日も遠巻きに、
確かにただでさえ治安が悪化している京の都に、関東から大勢の浪士がやって来て居着いたのだから迷惑な話だろう。
しかも同じ格好した男が毎日のようにぞろぞろと歩いているのだから、町の者には奇異に映るだろう。
そんな新選組屯所内にて、ある噂が広がりつつあった。
「噂?」
青年は、話しかけきた一番隊隊士に対して首を
副長室にある文箱は、触れるものに災いをもたらす――、らしい。
一番隊を率いる
なにしろその文箱に多く触れているのが、持ち主である副長・土方歳三に続いて、総司なのである。
土方はこれまで使っていた文箱から、新しいものに変えた。
それが例の、文箱である。
いまのところ二人共なんの害もなく、巡察にも支障はない。
その文箱は数日前、会津藩公用人・秋月が八木邸の屯所を訪れ、金子・五拾両と品々を置いていったものだった。
見た目は、書が一冊すっぽり入る大きさの箱である。
そもそも、そんないわくつきの品を、会津藩が押し付けてきたとは考えにくい。
――ただの、文箱なんだけどなぁ……。
総司は、その文箱に触れては土方に怒鳴られている。
つい昨日も中を覗こうとしたところを見咎められ、屯所に響く大声で怒鳴られた。
本来ならば、朝の巡察は原田左之助率いる十番隊の番で、一番隊は非番なのだ。
しかし総司が文箱を開けたため、連帯責任を一番隊は負わされたのである。
ただの文箱を総司が覗くには、理由がある。
総司にとっては
普通なら他人のものに勝手に触れるなど以ての外だが、二人の応酬は数年前からだ。
もちろん中身も知っているのだが、決して害になるものでもない。
「沖田さん、よくご無事で……」
怒鳴られては副長室を追い出される総司に、この日も一番隊の隊士はそう声をかけてくる。
「だってさぁ、面白いんだもん」
「あの副長を怒らせて楽しめるのは、沖田さんだけです」
二人の関係性を知る者は呆れてつつ苦笑するが、知らない他の平隊士たちはさらに不安になったらしい。
一番隊を率いる総司が、副長・土方に怒鳴られている――、きっとあの文箱は開けてはならぬ危険なものがあるのだ。
確かにある意味、危険かも知れないが。
考えているうちに、総司はおかしくなってきた。
副長は大丈夫だろうか? と危惧する隊士に、総司は「災いのほうが逃げますよ」と笑って答えた。
噂を鎮めるのは簡単だが、真実を話すと土方に一生恨まれそうで怖い。
中身がなんなのか――、これは一番隊の隊士も知らない。
ただこの噂を信じ、本気で心配してくる平隊士以外の男がいた。
局長の、近藤勇である。
ある日、総司は近藤の部屋に呼ばれた。
「そんな危険なものが入っていたとは……、トシは無事だろうか?」
難しい顔で聞いてくる近藤が、総司は可哀想になった。
近藤とは江戸にいる頃は道場主と師範代という師弟関係にあり、付き合いも長い。
副長の土方とは同じ武州・多摩の農村育ちで友好を深めた仲、のちに近藤が道場主となる江戸・試衛館に土方もやって来たのだが、近藤は人を疑わない。それが彼の長所でもあり、短所なのだが。
「近藤先生、土方さんなら大丈夫ですよ。災いのほうが逃げていきすよ」
土方の身を心配する近藤に、総司は他の隊士に言っているのと同じ言葉をいった。
問題はこの噂が独り歩きをしたお陰で、当の土方の機嫌は今日もよくない気がする。
触らぬ神に祟りなし――ということわざは、副長助勤には当てはまらない。
機嫌が悪かろうと、その副長に巡察の報告をするのが義務だからだ。
こうして総司は、朝の巡察を終えた。
◆
京都守護職・会津藩お預かり新選組――、屯所として使われている八木邸には、局長が二人、副長も二人いる。
新選組の前身である浪士組結成の際、江戸から参加の総司たちからは近藤勇を局長とし、土方を副長としたが、これに待ったをかけてきた面々がいた。
水戸藩浪士だという芹沢鴨と、新見錦である。
「今日は、やけに静かですねぇ」
巡察の結果報告をするため土方の副長室に入った総司は、いつもなら芹沢たちが談笑する大声が聞こえてこないのに苦笑した。
彼らの部屋はここから対屋にあり、彼らが酔っているときなどは声が大きいのだ。
「どこぞの
副長・土方は文机に向かっていた。
彼の背で、括った髪が揺れている。
「よくおわかりで……」
芹沢鴨と新見錦は、一応は筆頭局長と副長という肩書きではあるものの、横暴な振る舞いが多く、大酒飲みで女癖も悪かった。
ただ、朝から遊郭にいるのもどうか。
たぶん昨夜、島原へ出かけ、泊まったのだろう。
「俺を誰だと思ってやがる」
芹沢が何処にいるか、土方は把握済みのようだ。
「放っておいていいんですか?」
「好きにさせておくさ。そのほうが、あとあと楽なんでな。ところで、総司」
筆を置いた土方が、ようやく総司に視線を合わせてきた。
この男――、顔はいいのだが目線が鋭く、絶えず仏頂面でいるため、平隊士たちからは怖がられている。
最終判断は局長にあるとはいえ、実際に隊士を指揮しているのは土方である。
ゆえに副長助勤と呼ばれる各組長は、土方に巡察の結果報告にやって来る。
そんな土方の視線に、総司は臆することなく視線を合わせた。
予想通り、土方の機嫌は悪かった。
「何でしょう?」
微笑む総司に、土方の目が据わった。
「お前だな? 妙な噂をばら撒きやがったのは」
「はて?」
「惚けンじゃねぇ! アレだ」
土方は、傍らの文箱を指差す。
「ああ。文箱ですか」
どうやらかの噂は、土方の耳に届いているらしい。
きっかけは、局長・近藤勇だったようだ。
近藤は本人を、確かめずにはいられなくなったようだ。
「私にも、近藤先生は聞いてきましたよ。それはそれは、土方さんを心配なさっておりました」
「お前……、まさか近藤さんにアレを、喋っちゃいねぇだろうな?」
他の隊士なら、凍死するかのような冷たく、ドスが利いた土方の声だが、いまさら震え上がる総司ではなかった。
「私も命は欲しいので……」
「けっ」
土方は、軽く舌打ちをする。
「ですが、噂の張本人は私ではありませんよ?」
「おかげで、芹沢の野郎まで来やがった」
土方は芹沢の名を出すと、渋面になった。
「珍しいこともあるものですねぇ。ですが芹沢さんは、この文箱には無関心だったのでは?」
京都守護職・松平容保はその本陣を、
文久三年八月十八日――、朝廷内の急進的な尊攘派公家と背後の長州藩を朝廷から排除すべく、会津・淀・薩摩の藩兵が禁裏の六門を封鎖し、在京の諸藩兵が御所の九門を固めたという。
この政変に、新選組も出動。
その功績が会津公(松平容保)の耳に入り、金子とともに扇やら品々が新選組に下賜されたのである。
その場には当然、芹沢鴨もいた。
しかし彼は下賜された文箱にはなんの関心も示さず、金子だけは幾らか寄越せと言った。
おそらくその金子は、遊興に消えているだろう。
「ああ。だから俺が貰った。今まで使っていたやつは、何処かの馬鹿のせいで割れていたからな」
土方の目に、再び眼光が復活する。
「酷いですねぇ。割ったのは私ではありませんよ? 置き場所を変えすぎるせいでは?」
「誰のせいで、変える羽目になったと思っていやがる……」
普通文箱というのは、その名の通り書状を入れておく箱である。
江戸にいる頃――、土方はある書きものをしていた。
総司が部屋に行くと慌てて隠し始めるので、よほど見られたくないものだなと総司は思った。するとそれが見たくなった。
以来、見るンじゃね! という土方と、凝りずに覗こうとする総司の些細な攻防が始まるようになったのだ。
「では、芹沢さんはなにをしにいらしたんです? まさか本当に土方さんの身を気遣って、ですか?」
芹沢がかの噂を信じたのかは定かではないが、人の身を気遣うような男ならば日頃の非行はしないだろう。
「あいつがそんなことをするわけがねぇだろ。奴は中身はなにかと聞きに来たのさ」
やはりそっちか、総司はそう思った。
「教えたんですか?」
「教えるわけがねぇだろう。たとえ伝家の宝刀を出してきてもな」
土方のいう伝家の宝刀とは、局長命令だろう。
芹沢鴨は、筆頭局長である。
これまで商家に対して、ゴリ押しをしてきたという経緯をもつ彼は、筆頭局長という地位によってさらに天狗になった。
「この際、アレを見せて親交を深め――……」
そこまで言いかけて、総司は苦笑した。
よほど芹沢たちが嫌いのか、土方は渋面だ。
「冗談ですよ……」
総司はそんな土方の様子も楽しかったが、さてさてこの先どうなることやら。
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