フロムハウス
KN
それは真夏に雪が降るような
シュワシュワと口の中でほんのり甘く、涙まで溢れてしまいそうな刺激が広がった。
僕はきっとこの夏を忘れないと思う。いや、きっと忘れられない。だって、目の前にあるどんなキャンバスよりも大きく、白い雲のようであったはずの心は様々な色で、模様で彩られてしまったから――。
◆
僕はスマホを放り投げ、身体もベッドへ飛び込むようにして飛び込むようにして投げた。枕に顔を押し付けるようにうつ伏せになり、暗闇の中で情報を整理する。
「夏休み、あんた暇でしょ。なら、バイトしなさい」
それが、母からの言付けであった。大学生になったからにはバイトの一つでもしておくべきだ、と考えてことらしい。なんて、お節介だ。僕はこのまま涼しい部屋で、団扇を使って風を起こし、風鈴を鳴らす「これぞ夏」というのを味わいたかったのに。
まあ、なんだかんだ言ってもあの母のことだ、一人暮らしの息子を思ってそう言ってくれているのだろう。だから、厳しい言葉のように聞こえても実際はまだまだ甘えても許してくれるはずだ。
そうと決まったらこの件は頭の隅にでも置いておこう。枕から顔を上げ、仰向けになって手でベッドを探る。そして、僕はスマホを手に取り友人と連絡を取った。
せっかくの夏休みだ。プールだったり海に行くのも良い。花火大会や夏祭りだってあるだろう。もしくは普段は行けないような遠出をすることだって良いだろう。僕が鼻歌まじりにメッセージを打ち込んでいるとスマホが振動した。友人からのメッセージだろうか、随分早い返事だなんて思って確認する。
『追伸、お小遣いの支給は停止されました』
まるで僕だけが極寒の大地に――冷房が効き過ぎているだけかもしれないが――いるような心地だった。外を見れば地面がぼやけて見え、青々とした木々があるはずなのに、瞬く間に地面が白くなり木は葉を落としてしまったように思えた。
なぜ、こんな非道な真似ができるのだろうか。
僕の計画が台無しだ。脛の骨までかじるつもりであったのに。これが獅子の子落としというやつだろうか。登るどころか僕は諦めてそこで暮らしてしまうかもしれない。今生の別れとなってしまうことになるがそれでもいいのだろうか。
そんな思いを込めて僕は必死に指を動かす。当然肩を揉むだとかまだまだ若いなんて言葉を入れるのも忘れない。
僕はベッドの上で足を揃えて正座をしながら祈るように手を合わせる。時計の針が動く音のみが聞こえる部屋で固唾を飲んでスマホを眺めた。
そして、返事が来た。
『学費や家賃などの諸々の生活費を私たちは出しています。このままじゃ家計は火の車です。せめて遊ぶお金ぐらいは自分で稼ぎなさい』
なんてことだ。至極当然な正論で返された。そんな真っ当な意見に僕はただただ「ぐぅ」と唸って歯軋りすることしかできなかった。
この前実家に帰った時に強請ってもらった湯沸かし器が働いている音を聞きながら卓上の小さなカップ麺を眺める。賞味期限切れが近いのか店内で大きな箱に煩雑に入れられてあったものだ。通常価格よりも安く思わず購入してしまい、結構な量があるので最近の食事はもっぱらこれなのだ。
きっと僕もこうなるのだろう。今は親という包装が僕を守ってくれているが、その容器の中で刻一刻と時間は迫っている。いくらカラッと振る舞っても限界があるのだ。そして待ち受けるのはお手軽に手に入ると見透かされて安く買い叩かれる未来。考えたくもない。
かちりと音が鳴り、お湯が沸いた。小さな頃はやかんだとか鍋で沸かしたものだが便利になったものだ。
カップ麺の蓋を開けて熱湯を注ぎ入れた。付属の粉末スープを入れることも忘れない。待ち時間は三分。
待っている間、手持ち無沙汰になり床に寝転ぶ。目に入ってきた照明がやけに眩しくうざったい。目を逸らしても映るのは窓から見える赤く染まった空ぐらい。随分と陽も長くなった。ほんの少し前まではあれだけ恋しかった布団を今では気づくと蹴飛ばしている。季節は僕に否応なく伝えてくる。僕は鈍間なんだと。
何となく寝転んだままというのもどうかと思い、百均で買った埃取りを手に持つ。机の下やベッドの下などの普段手が届きにくい場所に手を伸ばす。しかし、そのふわふわの部分に埃は全くついていなかった。そういえば少し前に僕の生活環境を気にした母に言われて本腰を入れて掃除をしたのだった。
埃取りを放り投げる。埃一つないこの綺麗な部屋には掃除をする場所なんてありはしなかった。
気づくと随分と時間が経っていた。ベッドの下を覗き込んだりしたのに時間をかけてしまっていたみたいだ。
急いで箸やコップを準備して食べ始める。しっかりと目安の線まで入れたはずだったがスープは見る影もない。麺をほぐして掬い上げると、ようやくシンプルな醤油味らしい色が見えた。
まずはスープを飲む。まあ特に言うことはない。何度も味わったものだ。次に、麺を食べる。口へと運ぶだけでぶちぶちといくつか千切れてしまった。それにスープを吸いすぎてあまり美味しくない。もう既にこれを食べる気が失せ始めたが残すのも決まりが悪い。
非常に食べづらいのも腹立たしい。最初のうちは麺も多く容易く掴めたが、少なくなってくるとバラバラになっておりポイから逃げる金魚のように箸にかからなくなった。
そんな大変不満がある食事を進めていてもお腹が満たされるどころか、何か空洞ができたように満たされない。胃に入れた分だけ穴でも空いているのか代わりにどこかへ抜けていく。
これはきっと焦燥感と呼ばれるものだろう。
最後に残ったスープを飲み干した僕は思った。
――やばい、早くバイトしよう。
力ない指がスマホの画面上を彷徨う。いくら一念発起したからといって気が進まないものは進まないのだ。ましてやバイトだなんて。適当な求人アプリをインストールして登録してみても、中々これといったものが見つからない。しかし、このアプリが使えないというわけではない。掲載されている中には学生歓迎だとか家から近い場所であるだとか様々な条件などがある。なのに決まらないのは僕が高望みしているからだ。
初めてのバイト、どうせなら楽なものが良い。将来の就労意欲を損なわないような感じが良い。つまるところ僕は選り好みをしすぎているのだ。
その後も探し続けること早一時間、何だかこのまま気に入ったバイト先が見つからなくとも探したという事実があれば十分ではないのかと思えてきた。
ふと、メッセージアプリを見てみると何件か届いているようだった。また母からかと辟易する。見透かされたような気分だ。それでも見ないわけにはいかない。これ以上機嫌を損ねてもいいことなど一つもない。
僕の思いとは裏腹に、メッセージの送り主は母ではなく、特に親しい友人の内の一人からのものであった。
文面に目を通していく。まずはバイトの一つもしたことのない僕が働かざるを得ない状況になったことを揶揄う言葉が並んでいた。この時点で頼りにして相談したことが間違いで怒りのあまりに適当な文字の羅列でも打ってやろうかと思ったが、その下にあったいくつかのバイト先の情報を載せたチラシを撮った写真があったのでやめておいた。この真っ先に人を食ったような文から始める友人は僕らの中では卓越したバイト戦士なのだ。誰に言われるまでもなくシフトを入れに入れ、扶養を超えるといつも悩んでいる男である。そんな奴からの情報だ。当然信頼できる。あるいは僕を試金石として使おうとしているのかもしれないが、彼が目をつけたことがある程度良条件であるのを証明している。
ここまでお膳立てされた上で何もしなかったとなれば彼にどれだけ笑われるだろうか。
僕は思いついた罵倒を送ると同時にその情報を吟味し始めた。
一つ二つと目を通して、ネットに情報があるものは画面と照らし合わせていく。流石に彼は僕のことをよく知っている。彼も通った道だからだろうか。送られてきたバイト候補は短期間のものばかりであった。すぐに終わると思えば、諸々の心配事の大半が些細なことに思えて心理的ハードルが下がる。
意気揚々と見ていくと、その中でやけに目が惹きつけられるものがあった。いや、正確に言えば何もわからなかったからじっと見る必要があったのだが。
それは他と比べても非常に簡素でサイトのURLのアドレスのみが記されていて、色合いもレトロテレビのように白と黒だけだった。操作に不慣れな人が作ったのか、それともあまりバイトの必要性を感じていないのか。
示されたURLを打ち込んでサイトを開いてみる。どう見ても怪しいが情報のソースはしっかりと信頼できる。
サイトが表示され、まず目に入ったのは顔を顰めてしまうほどの極彩色。目がチカチカとしてぐにゃりと視界が捻じ曲がったような気がする。
サイトはチラシとは打って変わってさまざまな色が使われていた。パソコンにあった色全てを使っているのでないかと思うほどにごちゃごちゃだ。やはりこれを作った人はパソコンに慣れていないだろう。
あまりの混沌具合に眩暈を覚えながらも目を通していく。そして、僕は目を見開いた。条件が非常に良かったのだ。賃金は並のバイトよりも遥かに高く、期間も夏休みのほんの数週間。これを逃す手はない。僕はすぐに記されてあった電話番号を打ち込んだ。
僕の腹は随分と現金なようだ。ほっと一息ついたと思ったらやかましく次の食事を急かしてきた。
それに応えて現在、きっかり時間を計って三分。蓋を開けると数時間前とは違う味噌の香りが部屋中に漂った。
麺を掬っても今度は千切れたりしない。スープと共に入ってるコーンも甘くて美味しい。
舌鼓を打ちながら先ほどの電話の内容について思い起こす。
初めての経験故に緊張の瞬間であったが、殊の外すんなりと終わった。名前や年齢などのいくつかの簡単な質問を受け、それに答えると後日面接があると告げられて終わった。面接の時間は数日後の午後だそうで、特に持参する物もないらしい。拍子抜けしたが、上手くいっているならば言うことはなかった。後は面接を受けるだけだが、この調子では大したこともないだろう。まあ、念の為適当な本でも読んでおくが。
一日中僕の頭を悩ませていた厄介事に光明が差し込んだので気分が良い。今なら友人の意地が悪い言葉に対しても優しくしてやれる気がする。
そんな事を思っていると件の友人から連絡が来た。どのバイトを選んだのかという内容だ。手を貸してもらったのだ。伝えないのも不義理だろう。僕は彼にそのバイト先の名前を端的に返信した。
――フロムハウス。
フロムハウス KN @izumimasaki
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