粘る床にスリッパを持っていかれそうになりながら壁に駆け寄る。必死でドアノブを探したが、それらしきものは見当たらなかった。

(もともと室内側にドアノブはなかったのか?)

 思い出せなかった。だが、ドアノブがなくとも、ドア自体は確実にあるはずだ。たしかに開けて入ってきたのだから。きっと照度に目が眩んで、ドアと壁の狭間が見えないだけだ。わざとそうゆう仕様にしているに違いない。

 俺は壁をなめるようにして調べたが、のっぺりとしていて継ぎ目すらなかった。

 もしかして、入り口はこちらの方面ではなかったのかもしれない。他の三面の壁も丹念に調べた。だが、ドアは見つからなかった。

 一体どうゆうことだ。ぞわぞわした焦りが背中に忍び寄ってきて、俺はそれを振り切るように両の拳で壁を叩いた。

「誰か! 誰かいませんか!」

 壁は不思議な弾力があり、また張りつくようなべたつきがあり、しかも生暖かかった。ひんやりと冷たい質感を予想していた俺は、ぎょっと拳を離した。なんだか体温じみた温度で、ぞっとしたのだ。

 音はまったく響かなかった。

 おそるおそる壁に耳をつけてみる。膚の密着する怖気立つような粘った音のみで、外部の音は何ひとつ聞こえない。

 やはりこれは何らかの実験なのか。結果が出るまで出れないのだろうか。いつまで待てばいいのだ?

(そもそも、俺は何の仕事と言われて来たのだった……?)

 愕然とした。思い出せなかった。

 いや、思い出せないなどありえない。アルバイトの紹介者に事前に内容は聞いたはずだった。その条件の良さに喜んで了承したのだから。

 しかし。――その紹介者は誰だっただろうか。

 俺はごくりの生唾を飲んだ。背に冷たい汗が一筋伝ってゆく。

 嫌だ。もう家に帰りたい。ここから出たい。請うように願い――ふと新たな疑問に気づいてしまった。

 自分は、どんな家に住んでいるのだったか。

 部屋の内装も、住所も、何もかも思い出せない。

 そうだ、家族は? 両親、きょうだい――。見慣れ過ぎているはずの顔を頭に浮かべようとした。何も出てこない。

 そもそも自分は社会人なのか。学生なのか。

 歳は。名前は――。

 何も思い出せない。

 あまりのことに、酩酊にも似た目眩めまいを覚えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る