③
粘る床にスリッパを持っていかれそうになりながら壁に駆け寄る。必死でドアノブを探したが、それらしきものは見当たらなかった。
(もともと室内側にドアノブはなかったのか?)
思い出せなかった。だが、ドアノブがなくとも、ドア自体は確実にあるはずだ。たしかに開けて入ってきたのだから。きっと照度に目が眩んで、ドアと壁の狭間が見えないだけだ。わざとそうゆう仕様にしているに違いない。
俺は壁をなめるようにして調べたが、のっぺりとしていて継ぎ目すらなかった。
もしかして、入り口はこちらの方面ではなかったのかもしれない。他の三面の壁も丹念に調べた。だが、ドアは見つからなかった。
一体どうゆうことだ。ぞわぞわした焦りが背中に忍び寄ってきて、俺はそれを振り切るように両の拳で壁を叩いた。
「誰か! 誰かいませんか!」
壁は不思議な弾力があり、また張りつくようなべたつきがあり、しかも生暖かかった。ひんやりと冷たい質感を予想していた俺は、ぎょっと拳を離した。なんだか体温じみた温度で、ぞっとしたのだ。
音はまったく響かなかった。
おそるおそる壁に耳をつけてみる。膚の密着する怖気立つような粘った音のみで、外部の音は何ひとつ聞こえない。
やはりこれは何らかの実験なのか。結果が出るまで出れないのだろうか。いつまで待てばいいのだ?
(そもそも、俺は何の仕事と言われて来たのだった……?)
愕然とした。思い出せなかった。
いや、思い出せないなどありえない。アルバイトの紹介者に事前に内容は聞いたはずだった。その条件の良さに喜んで了承したのだから。
しかし。――その紹介者は誰だっただろうか。
俺はごくりの生唾を飲んだ。背に冷たい汗が一筋伝ってゆく。
嫌だ。もう家に帰りたい。ここから出たい。請うように願い――ふと新たな疑問に気づいてしまった。
自分は、どんな家に住んでいるのだったか。
部屋の内装も、住所も、何もかも思い出せない。
そうだ、家族は? 両親、きょうだい――。見慣れ過ぎているはずの顔を頭に浮かべようとした。何も出てこない。
そもそも自分は社会人なのか。学生なのか。
歳は。名前は――。
何も思い出せない。
あまりのことに、酩酊にも似た
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