二章『落ちていく星を見上げて』 その十六
ひ、と宇宙にまで届きそうな極めて細長い声が漏れる。そこに抵抗や拒否感は一切なく、悲鳴は歓喜に辿り着けることを祝い、謳うための前奏のようだった。
私と同様これは、明確に行為であり、それ以外の目的はなく、相手は教え子で、犯罪だ。
触っていても触られても、違法。許されざること。
それに、不倫。ベッドに沈む指の付け根が締まる。
夫がいて、触らせているのは、でも、えぇと……気持ちは……。
「せんせ……」と吐息に混じった呼び声が首筋にかかって頭が真っ白になりそうだった。
人生が、細切れになっていく。順調だった道程のすべてに線が走り、崩れていく。
破滅と、一時の欲を引き換えにする。
ありふれた人生の袋小路だった。
教え子に胸を執拗に触られているという状況が脳にもたらす負荷が、幻視と幻聴を引き起こす。眩暈のように火花が散って、雨を被るように轟音が耳の横で鳴る。
「男子なんて特にそうなんだろうけど、せんせぇの胸に触りたいとか見たいとか……思ってるんだろうね」
羞恥心をくすぐるように、戸川さんが掠れた吐息混じりに喋っている。
「それは……思春期なら、そういうもので……」
「じゃ……わたしも、思春期」
まるで絞るように前後に指を動かすようになると、いよいよお互いのわずかにあった余裕が失われて焦るような呼吸ばかりが募る。戸川さんは私の背中を支えとするようにもたれかかって、どんどん二人で前屈みになる。指の動きも大胆に、掴むようにはっきりとしてくる。
「せんせ……せんせの……せんせぇ……」
切なく呼ばれる度、脳にノイズが走る。
「わたし、せんせぇのおっぱい、一生触っていられるかも……」
思春期を凝縮した雫がぼたりと、私に降る。
その原液を傘も差さないで受けながら、ずっと、耐え続けた。
どれくらい私は、教え子と行為に及んでいたのだろう。
胸を触る以上は、最後まで行くことはなかった。なんとか、今日は。
やっとのことで手を離した戸川さんの名残惜しそうな表情を直視していると、間違いが進行しそうで目を伏せる。伏せながらなんとか、様子を窺う。
引きつつあった熱が悪化したように、戸川さんの顔は紅潮しきっている。
とろんと。様々な感情と共に溶けた瞳が、私を捉えた。
「ちゃんと忘れようね、せんせ」
「…………………………………………うん」
できるわけがないのは、お互い知っていた。
どちらも知ってしまった味わいの余韻を静かに引きずりながら別れる。
教え子と胸を弄り合って帰るアパートは、夜よりも暗がりに潜んでいるように見えた。
今日のは、本当に致命的だった。
決定的な亀裂が入り、もう止まることはないだろう。
後はどれくらい、それを先延ばしにできるか。
日常というポスターで、壊れた壁をどれほど隠せるか。
そういう時間との問題だった。
「おかえりー」
なにも疑う様子もない夫の、緩い挨拶に、私は。
「ただいま」
戸川さんに向けるのとはまったく違うもので、地続きのように偽る。
ああ。
こうやって、嘘をつくのが上手くなるんだ。
顔の上にもう一つ、私を被っていく。
未来なんてない、過去の残骸を寄せ集めた私がいつものように夫に笑顔を向けていた。
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