第37話 ある少年の小さな冒険譚

 正午を過ぎる頃には、寝袋に包まっている僕をよそに皆は出かけて行った。

 人の気配が無くなったのを確認すると僕はノソノソと寝袋から這い出し、残り物の果物をかじる。

 うう、なんだか自分が情けなくて悲しくなってきた。


 なんとなく梯子はしごを登りベランダへ向かうと、スピカ……じゃないレオニスが日向ぼっこをしているのが見えた。

 見た目はそっくりなので、財布をさげているかどうかで判断している状態だ。

 僕が梯子はしごを登り切ると、僕の気配に気付いたレオニスの耳がピクッと動き、クリクリとした瞳を開いた。


「あるじ、起きたか。体調はもう良いのか?」


 体調が悪くて寝袋に包まっていた訳じゃ無いんだけれども……

 全裸を見られて恥ずかしかったから引きこもっていたなどとは口が裂けても言えない。


 僕は寝そべっているレオニスをまじまじと見つめた。

 それにしても、本当にスピカそっくりな外見だ。

 大きさや見た目もそうだが、体重や気性すらも酷似している気がする。

 生き別れの家族だと言われたら信じてしまうレベルだ。


「何だよあるじ? 俺の事ジッと見つめて、まさか惚れたのか?」


 レオニスは目を細め口角を上げるような表情を浮かべてきた。

 なんで猫に惚れるんだよ……。

 シャニカさんみたいに熱狂的な猫好きでもあるまいに。

 レオニスは「しょうがないにゃぁ……」と甘えたような声を出して、僕の肩に飛び乗り顔をペロペロと舐め始めた。

 猫特有のザラザラとした舌が頬に触れる。

 スピカはプライドが高いからか、こんな風に僕の顔を舐めたりはしない。

 もしかしてレオニスは甘えん坊なのか?と思っていると、急にブワッと強い突風が僕の横顔を突き抜けたように感じた。

 そして、それと同時に肩の上のレオニスの重みが消えた。


 あれ?っと思い、ふと首を振ると少し離れた所に黒い物体が見えた。

 それはベランダに突っ伏すレオニスと、それを足蹴あしげにするスピカの姿だった。

 直立歩行の態勢でスピカの小さな足がレオニスの顔面を床に押し付けるように踏みつけていた。


「お前……なにやってんだ?」


 地の底から聞こえてくるような怒りの混じった低い声でスピカが問いかける。


「い、痛いっす先輩!? ちょっとした冗談じゃないですか!」


 半笑いで引きつった顔のレオニスが地面に伏しながら平謝りを始めた。

 スピカのやつ珍しく本気で怒っているのか、容赦なくレオニスの顔面を踏みつけて大声で罵倒し始めた。

 最初は下手したてに出て耐えていたレオニスも、ある瞬間突然キレてスピカの顔面に猫パンチを喰らわせた。

 そこからはゴングが鳴った武闘大会が繰り広げられる。

 右フックに左のクロスカウンター!白熱する猫パンチの応酬だ!

 2匹の争いは苛烈を極め、取っ組み合いの喧嘩を始めた。

 しばらく眺めていたが、痛々しくて見るに堪えないので僕は2匹の首根っこを掴み引きはがす。


「おい、離せよラルク! コイツには教育が必要なんだよ!」


「あるじを敬うのは悪い事じゃないだろうが! あるじもそう思うだろ?」


 2匹はお互いの間合いを放してもなお、「シャー!」と威嚇し合いながら両手をシャカシャカと激しく上下させて攻撃を仕掛けようとしていた。

 見た目と気の強さもそっくりだ、本当に細胞分裂したんじゃないだろうか。

 そもそもレオニスってどこからやってきたんだ?

 喋る猫をアルフヘイムの人達も珍しがっていたし、レオニスはこの村の近くで暮らしていた訳じゃなさそうだ。


 それにしても普段大人びた態度をとり、自信満々な表情でドヤっているスピカがこんなにも感情をあらわにしてジャレ合うのは、やっぱり同族と会えて嬉しい気持ちのあらわれなのかも知れないな。

 ……ともかく、ここは借家だ。

 周辺の物が壊れないように早々に喧嘩を止めさせないと……

 僕は少し考えて、この醜い争いを終わらせる作戦を考えた。


「お腹が空いたから、朝食……もう昼食か? 食べたいんだけど、2人とも造るのを手伝ってくれないか?」


 昼食という言葉にスピカの両耳がピコン!と直立し、振り上げていた拳が止まる。

 スピカに対して食物の話題は効果抜群だ。

 動きを止めてチラチラと横目で僕の言葉の続きを伺っている。

 相変わらず反応が分かり易いやつだ。


 レオニスの性格はまだ完全に把握した訳じゃ無いけど、スピカと少し違い僕を”あるじ”と言って敬うように懐いてくる。

 逆にスピカの事は「先輩」と呼称してはいるが敬う気なんて全く無く、むしろ喧嘩ごしな態度をとっている。

 ……だとしたら、僕が直接レオニスに頼めば聞いてくれるかも?


「スピカはこう見えて料理が凄く得意なんだ、最近では味付けもそこらの料理人に負けない美味しさになったしね。レオニスも食べてみたいだろ? 僕と一緒に材料集めを手伝ってもらえないかな?」


「……あるじの頼みなら仕方がねぇ。俺も昨日の昼から何も食ってねぇし、腹は減ってたからな」


 僕が一緒に食材集めを頼んでレオニスの頭を撫でると、闘争本能剥き出しだったさっきまでの態度とは打って変わって大人しくなった。

 スピカも自分の料理の腕を面と向かって褒められた事が嬉しかったのか、「しょうがねぇにゃぁ……」と言いつつドヤ顔で胸を突き出し踏ん反り返っていた。

 ふふっ……チョロ可愛いやつらだ。


 こうして僕達は昼食の準備を始める事となった。

 スピカの指示で僕は借家に余っていた野菜類を吟味する。

 レオニスは肉の調達係に立候補したので、僕からお願いをした。

「ちょっと待ってろ!」と言って数分後、近くの森から1.5メートルはある中型サイズの雪うさぎを1匹狩って戻って来た。

 そして、「あるじの為に良さそうなのを速攻で狩ってきたぜ!」と言い放った。

 その光景を見て少し引き気味になるが、「凄いな」と褒めておく。

 この雪うさぎ、どうみてもレオニスの体の5倍以上の大きさはあるな……。

 僕が頭を撫でて褒めると「もう1匹狩ってこようか?」と瞳を輝かせて聞いてきた。

 こういう子供みたいな所は、やっぱりスピカとどこか似てるな。


 食材が集まった所でスピカの魔法スペル技術を駆使した調理が始まった。

 風は刃物・炎は過熱・水は原料。

 それらを巧みに操り何種類もの料理が次々と食卓へと並んだ。

 この華麗で独特な調理技術を目の当たりにしたレオニスも感嘆の声を上げていた。

「先輩すげぇな!」と素直に褒められて、スピカもまんざらでもない様子で「ま、まぁな!」と照れていた。

 こうして少ずつ互いの良い所を知って仲良くなってくれれば良いなと思う。


 大きな木製の皿に山盛りの料理がテーブル一杯に並ぶ。

 雪うさぎの肉を全て使った料理は半端無い量で、とても食べきれないんじゃないか?と考えたがすぐに思い直す。

 いや、スピカの胃袋なら入るだろうか?

 あいつはどう考えても胃袋の体積以上の分量をペロリと平らげるからな……。


 世界の七不思議にエントリーされそうなスピカの食事量の事を真剣にかんがえていると、セロ社長とネイと騎士達全員が村から戻って来た。

 皆は昨夜の双頭の獣で壊れた村の修繕作業を手伝っていたらしい。

 窓の外を見ると太陽も傾きはじめ、夕方にさしかかる時間になっていた。

 結局僕は今日1日何もせずに過ごしてしまった訳だ……。


「わぁ、凄いノ!」


 今日は昨日まで家族と過ごしていたシャニカさんも皆と一緒に帰って来ていた。

 そして、テーブルに並ぶ豪華な料理の数々を目にして大変驚いている様子だ。

 皆が料理を賞賛すればするほど、スピカの鼻が伸びて頭頂部が真後ろの地面にまで付きそうなくらい踏ん反り返っていた。

 いや、ドヤり過ぎだろ流石に……


 急にネイが僕の額に手を当てて、「……大丈夫?」と心配そうに呟いた。

「う、うん。平気」と少しだけ気恥ずかしさの混じった返事を返す。

 ネイの心配そうな表情を見て、自分の悩みの小ささを再認識したような気分になる。

 たかだか裸を見られただけじゃないか……こんな事で気落ちしてネイに心配されるなんて逆に情けないだろう。


 真横にいたスピカが「小さな事で悩んでいても仕方が無いぜ。忘れちまえ!」といつもの調子で言う。

 小さい事って……物理的な意味のダブルミーミングじゃないだろうな……。

 こいつは無駄に知能が高いから変に勘ぐってしまう。

 皆ももう気にしてなさそうだし、僕も執拗に考えず忘れる事にしよう。


 その後、皆で食事を囲んだ。

 今日はシャニカさんもいたせいか、アネッタさんやルーティアさんの漫才じみたやりとりも拍車がかかり、夕食の宴は大層盛り上がった。

 新参者のレオニスもすぐに輪の中に馴染んで笑いながら談笑していた。

 その光景を見て少しだけ不機嫌そうなスピカには、僕が肉の良さそうな所を口に運んでやり機嫌をとってやる。

 なんだかんだでスピカは物を食っている時が1番幸せそうな顔をしてるんだよな。


 夜も更け、シャニカさんは村の方へと帰っていった。

 なんでも、自警団の見回りに参加するらしい。

 昨夜のように双頭の獣が出現したり、樹海でのボヤ騒ぎが起きるかも知れないので村の自警団も警戒態勢を強化するらしいと話していた。

 スピカとレオニスは「もう大丈夫なんじゃねぇかな?」と珍しく同じ意見を述べていた。

 地震を事前に察知するような動物的勘ってやつなんだろうか?


 スピカ達の予想通り今夜は何事も無く、静かな夜が更けて行った。




 ――アルフヘイム滞在最終日


 翌日はセロ社長の指示でルーン文字臨時店を再開した。

 滞在最終日という話をフォロスさんにしていたせいか、村の人達がたくさん訪れてくれた。

 皆口々に感謝の言葉を言い、是非また来て欲しいと話してくれた。

 短い期間だったけど、親切な人ばかりで快適な生活ができた事に僕達も感謝しかない。


 シャニカさん達は双頭の獣を倒した英雄として村人から尊敬の念を集めていた。

 村の子供が騎士となり、幼い( 妖精種エルフ的な感覚で)ながらあれだけ大型のモンスターを倒したのだから当然だろう。


 僕も故郷に帰る事ができたなら……なんて考えて、少しだけシャニカさんが羨ましいという気持ちと久々に郷愁に似た寂しさを感じた。

 ルーン技術が使えるようになって、少しは成長したんだよと両親や妹に報告したい。

 少しは剣技が上達したんだとビクトリアに自慢して無謀ながら模擬戦を挑みたい。

 ……まぁ、いつものように彼女も更に強くなっていて勝てないだろうけど。


 故郷の事を考えていると、急に目の前にハーブの香りのする飲物を差し出された。

 見上げると、そこにはネイがいた。

 僕は飲物を受け取るとネイが「お疲れ様」と優しく微笑んだ。

 こういう小さな気遣いがいつも僕の心に安らぎを与えてくれる。


「ありがとう」


 心から湧き出た感謝の言葉と共に彼女の手からコップを受け取る。

 僕が孤独感に押しつぶされないのは、彼女やスピカが傍にいてくれたからだと改めて感じる。

 彼女は僕の横に座り、一緒にハーブティーを飲みはじめた。


「疲れた?」


「ううん、大丈夫だよ」


 短い言葉で紡いでいく何気無い会話。

 こんな日常がいつまでも続けばいいなと切に願った。



◇◇◆◇◇◇



 お客様の流れも緩やかになり、休憩する余裕もできた。

 私は村人に頼んで2人分のハーブティーを手に入れて副隊長にラルク君に渡すようにと促し、シャニカにはセロ社長と滞在最終日の挨拶回りを提案するようにと指示を出した。

 思惑通り、社長とシャニカは挨拶回りへと出かけて行った。


 1番の難敵だと思う黒猫スピカには、アネッタを監視役として充てた。

 小耳に挟んだ情報だが村の外れで双頭の獣の解体が行われていて、「肉は捨てる」と村人が話していたという情報を黒猫スピカに教えると「もったいねぇ!」と言いながら駆けて行った。

 それをアネッタが監視役として付いて行くという役回りだ。

 そして私はもう1匹の黒猫レオニスと木陰からラルク君達の様子を見守っていた。


 新参者の黒猫レオニスはラルク君に懐いているようだが、黒猫スピカほど粘着質ではなさそうで、どちらかというとラルク君の好みや嫌いな事などの情報収集をしている感じがした。

 なので、私達の慣行している「副隊長恋愛成就大作戦」の事は隠し、こうして私と一緒に観察をしている訳だ。


「あの……えーとネイって名前だったっけ? あいつはあるじの恋人なのか?」


「違います。友達以上、恋人未満の自称家族という話です」


 自称家族というのは副隊長が家族と宣言していたから私がそう言っているだけだけれどね。

 あのラルク君は、何故か副隊長が唯一心を開いている稀有な人物だ。

 本当、実に興味深い。


人間種ヒューマン妖精種エルフの価値観ってわっかんねぇな。家族ってのは恋人よりも深い仲なんじゃないのか?魔人の……マ、マジわかんねぇ」


 ……確かに。

 この黒猫レオニスの言う事は間違ってはいない。

 一般的には恋人より家族のほうが絆が深いという解釈だ。


 ……なら2人はすでに”くっついている”と言っても過言ではないんじゃないだろうか?

 もしかして家族という発言は不器用な副隊長なりの自己主張で、「ラルク君は私のモノ」というオープンな宣言だったんじゃないだろうか?

 言葉足らずで不器用な所が似ている私は、その仮説に妙な確信を覚えた。


 ―――その時、私の中で電流が走った。

 そして、私はある一つの事実に気付いてしまった。


 私は単純に副隊長とラルク君のイチャイチャしている光景が見たいんだ!

 副隊長を自分に重ねて男性との疑似的恋愛を想像し、悦に浸っていたんじゃないか?

 思い返して考えると自分の中で構築した仮説が、私の中に存在する空白部分を埋めていった。


 私は副隊長やラルク君の幸せなんて興味がなかったのだ。

 ただ、自分に似た身近な人物の男女間のイチャイチャを心から欲していたんだ。

 まるで自分が恋愛をしているかのように副隊長に自分を重ねて、疑似的幸福を感じ心の隙間を埋めていたんだ……・と!

 私は自分の本当の気持ちに気付いて頭を抱え込んだ。


「お、おい。どうした? ……お前、大丈夫か?」


「え、ええ……少し精神汚染というか精神浸食をされていただけです。」


 私の言葉を拡大解釈した黒猫レオニスは「なんだと!? 敵か!?」と周囲を警戒し始めた。

 勘違いさせてすまないが……もういいんだ。

 敵は自分の中にいると聞いた事があるが、こういう事だったのか……。

 重大な何かを悟った私は仲睦まじい2人を見つめ、自分も頑張ろうと心に誓った。



◆◇◇◇◇◇



 滞在最終日の夜、僕は寝袋に包まりながらセロ社長と今回の旅の話をしていた。

 目的の人物にも会えず中途半端に終わった研修なのでレポートの提出代わりに学んだ事を聞かせて欲しいと言うので、僕は苦情を言って来た少年とのやり取りや、見知らぬ土地で見知らぬ人達と交わした会話から感じた事を赤裸々に話した。

 自分とセロ社長とのお客様に対する向き合い方の違いや、ただその場を治める為だけに取った間違った対応の事が僕の中で引っ掛かりとなって残っていた事など……


「ふふっ、良い勉強ができたみたいですね。何かを感じる事は”発見”で、それについて悩み考える事は、その後どんな答えを導き出したとしても”成長”と呼べると思います」


「発見と成長……ですか」


 今まで何気無く過ごして来た事柄も、発見と成長の繰り返しだと考えると自分を客観視できるようになるとセロ社長は話してくれた。

「それは商売のみならず、人生という名の長い旅の良い糧となるでしょう」と言った言葉は今まで聞いてきた社長の言葉の中で、1番の重みを感じた。


「少し、昔話をしましょうか」


 セロ社長はそう言うと、を話し始めた。

 少年は雪深い国の地図にすら記載されない小さな村に生まれた。

 その少年には2人の幼馴染がいた。

 1人は剣術や武術が得意な男の子、もう1人は力は無いけれど魔法スペルの扱いが上手な女の子だった。

 少年は2人のように最たる特技も無く、長所としては”運算の才覚”という特殊才能ギフトにより、算術が得意だという事だけが唯一の自慢だったそうだ。


 16歳を越えた頃に3人は若い冒険心に駆られ、国を飛び出し旅に出た。

 俗に言う冒険者となったらしい。

 戦闘面の才能に疎かった少年は荷物持ちや特技の算術を活かした交渉術を武器に金銭面でパーティーが困らないように立ち回ったらしい。

 そして、様々な国を巡り、各国の物価の違いを勉強していったと語る。

 ある国では貴重な品でも、ある国では持て余す程に産出され捨て値で売られている品物もあったらしい。

 少年はその価格差こそが商売の儲けなんだと発見した。


 そんな数々の学びのあった旅の終わりは唐突に訪れた。

 幼馴染の男性と女性がいつの間にか恋仲となっており、とある国で結婚するという話をしてきた。

 幼馴染の女性を密かに思っていた少年は最初こそ裏切られたような気持ちが溢れ、幼馴染の男を恨んだが女性の幸せそうな顔を見てそんな気持ちは吹き飛んだそうだ。

 その後2人は結婚し少年は少しだけ寂しさを感じながらも心から祝福した。

 そして約7年間の旅を終え、独りで故郷へと戻ったそうだ。


 稼いだお金の半分以上は2人の結婚祝いとして渡し、残りのお金で故郷に小さな店を開いた。

 旅の中で磨いた交渉術や地域ごとに違う物の価値などを商売に活かしお店は大層繁盛したそうだ。


「やがてその少年は、その国でも有数の大商人になったそうだ。学びの機会はどんな所にも必ず落ちているものです。若い内から沢山発見するようにしましょう」


 話を終えると、セロ社長は天井を見つめ何か物思いにふけっている表情を浮かべていた。

 その横顔を見た僕は「その少年ってセロ社長の事ですか?」と聞こうとして止めた。

 細部まで語られた旅の話は聞くまでもなく少年期の社長の話だと思う。

 わざわざ名前を伏せて話していたんだ、あえて聞くのは野暮というものだろう。


 セロ社長は自分の人生経験を話す事で、僕に学びの大切さを教えてくれた。

 成功者の話というのは為になると同時に、努力と非凡な才能をきちんと自覚して活かせる能力が必要なんだと思った。

 冒険者としての才能に恵まれなかった少年も、商売という分野に対しては大成功を収めた。

 僕にも同じような事ができるのだろうか?

 破壊神の加護……それが良い方向へと作用するルーン技術。

 今の作業長というのはカルディナ先輩やリアナ先輩よりも責任が低い分、気楽で自分の才能が活かせるポジションではある。

 そして、セロ商会という大きな看板の下に守られていれば一生安泰で平穏な生活が保障されるのかも知れない。

 でも、セロ社長のようには一生かかってもなる事はできないだろう。


 僕は15歳まで流されるように生きて来た。

 破壊神の加護を知って、人生が大きく変化した。

 何気無い日常が嘘だったかのようなつらい事も苦しい事も経験した。

 優しくしてくれた人の死にも直面した。

 自分の隠された才能も発見できたし、その事を褒められると無性に嬉しいという感情も知った。

 ……そして、たくさんの出会いと別れを重ねて今僕は小さな幸せの中にいる。


 でも、この場所は僕の最高到達点なんだろうか?


 その昔、成人の儀でなし崩し的に”勇者”や”英雄”になる想像をしていた幼い自分の隠れた野心が囁きかけてくるような……そんな不思議な気持ちが溢れる。


 僕はその夜、自分の人生の在り方について生まれて初めて真剣に考えたのだった。

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