第2話 汚れたハンカチ

 小学校の修学旅行先は三重だった。1日目は鳥羽市にある水族館を巡った。班に分かれて周るのだが、自分は班分け残り組だったし、さして仲が良くない生徒と周る気もなかったので、単独行動を決め込んでいた。その頃は、一人で行動するのが格好良いとも思っていた。

 そこで面倒を見てくれたのが藤本きよみ先生である。藤本先生は違うクラスの担任だったが、全クラス合同のプールの授業で、バタ足が出来ないグループの担当だった。その時、名前を覚えてくれるようになった。

 当時の自分は、同級生らが知らないような古いギャグをハイブローだと思い込んでいて、頻繁に使っていた。クラスの生徒からは無視されていたが、藤本先生だけは「アホちゃいまんねん。パーでんねん」や「当たり前田のクラッカー」など、文脈関係なく言ってもよく笑ってくれた。

「面白い! 芸人さんみたい」

 性欲の目覚めはその頃だった。


 とあるプールの授業の日。授業の後半は自由時間となっており、各々プールの中で好きに過ごす。

 人気の藤本先生の周りには、多くの生徒が集まっていた。自分はその取り巻きの遠いところにいて、熱い視線を送っていた。露出の高い水着を着ているわけもなく、なんなら袖もあるスイムスーツのようなものを着ていたが、それはそれで興奮に値した。

 自分は少人数の生徒を相手にレクチャーしている先生となら活発に話せたが、大勢の生徒の中では自己主張することが出来ず、ゴーグルをかけて、水中から時々顔を出して眺めるのみだった。

 すると、他クラスの男子生徒たちが藤本先生の胸部を触っているのを目撃した。見間違いかと思ったが、戯れる生徒たちのどさくさに紛れて何度も行われていた。それが意図的な犯行であることを水中に潜り確認すると、そいつらをビート板で殴った。

 複数相手ではあまりに分が悪く、すぐに袋叩きにされた。周囲では悲鳴が起こり、瞬く間に先生たちに取り押さえられ、理由を問われたが、自分は藤本先生がいたずらされていたということを言えなかった。藤本先生に好意があることをバレたくなかったし、ふと見た先生は悲しそうな顔をしていて、この喧嘩に関わらせるのが悪いと思ったからだった。

 この件は思った以上に大事となり、保護者を巻き込む問題となった。

 自分は頑として訳を話さず、理由なき暴力をふるったとして、以来、問題児扱いとなった。

 しかし、藤本先生だけは違った。それからより一層、目をかけてくれるようになった。先生だけは、あの喧嘩の理由を察し、自分のことを理解してくれていると思っていた。


 精通したのはその一件からまもなくだった。

 勿論、戸惑った。局部から出てくる白い液体が脳からの分泌物だと思い、何らかの重度の病気かとも感じていた。当時は気軽にネットで調べられず、この身体の異変が怖かったが、訳は分からずとも、一ヶ月後には自慰行為は欠かせない夜の日課となっていた。


 修学旅行に話を戻す。

 思えばその水族館を周る時間は、藤本先生とのデートといってもいいくらいだった。学校専属カメラマンに2ショットの写真を撮ってもらったり、館内のスタンプラリーを一緒に巡ったりと、心底楽しい時間だった。

 プールの件以降、藤本先生は自分に対して申し訳なく思っていたのかもしれない。あの件で、より一層クラスでハブられ、班分けも最後になってしまった。修学旅行くらい、楽しい思い出を残してもらいたい。それで自分にかまってくれていたのだと。

 シャチのショーも二人で観た。ショーは水族館のルートの最後の方に用意されていたのだが、その時には、藤本先生が自分につきっきりだということがバレてきて、周囲の生徒も不満を口にし始めていた。そうなると先生も無視するわけにいかず、ショーの最中、遠くから生徒らの呼ぶ声が聞こえると、ついに「迷子にならないようにね」と言い、腰を上げた。

 と、その時、大きな水しぶきが自分たちを襲った。飛び跳ねるシャチに歓声が沸き起こる。自分たちは一瞬訳も分からず顔を見合わせた。慌ててハンカチを取り出した先生は、自分の顔や身体を拭った。濡れた先生の髪でプールの授業を思い出した。

 そのハンカチを渡したまま、先生は行ってしまった。


 その夜。

 自慰行為をし、それが皆にバレ、また騒ぎになったのはご想像通りかと思う。

 消灯時間を過ぎた後、周囲の生徒は一連のプロレスごっこや、巡回する先生の目を盗んで、他の部屋にいたずらをしに行ったりなどの遊びを済ませ、すっかりと寝静まっていた。

 自分は布団の中で昼間のデートの余韻に浸っていた。

 その頃はちゃんとした性教育を受けていなかったからというのもあって、自慰行為が人に見られてはいけないことという意識がなく、それほど音にも気を払わず完全に下半身を晒して、盛大に行為した。

 早々に果てようとした際に、ティッシュがないのに気付いた。

 自分は「はて」と、思案した。いつもなら、このような場合、布団にそのまま出すことが多いが、旅館の布団でするのは憚られた。その程度の良識はあった。

 と、先生から貰ったハンカチがズボンのポケットに入っていることに思い当たった。多少のためらいはあったが、布団に出すよりは後片付けが楽だろうと、興奮状態の頭で思い至り、雑な手つきで脱ぎ捨てたズボンをまさぐった。

 そして、ハンカチで、受けた。

 しばらく気持ちが落ち着くのを待ち、トイレへ行こうと立ち上がった。トイレは部屋の入口の脇にある。下半裸のまま皆が寝静まる寝室を抜け、トイレのドアノブに手を伸ばした時、視界の片隅に何かを感じた。修学旅行では各部屋、監視のため玄関ドアを開けておく必要があったのだが、そこに人影があったのだ。ゆっくりと振り向くと、藤本先生だった。

 時が止まったみたいだった。藤本先生は、まっすぐに自分の目を見て、次に懐中電灯で局部とそれに添えられたハンカチを照らした。

 先生は絶叫した。

 自分も絶叫した。

 先生の絶叫を打ち消し、ないものにしたかった。なんとかしてごまかそうと、頭を抱えて、悶えた。

「痛い、痛い!!」

 すると、本当に頭が痛くなってきた。

 その頃の自分は前述通り、精液は脳の分泌物だと思っていた。ついに病気が悪化したと思い、精液で汚れた手で先生に助けを求めた。が、先生は完全に引いていた。下半身を晒し床を這う自分を直視できないようだった。

 手で顔を覆い怯える藤本先生を見ていると、現実逃避なのか、どんどん意識が遠のき、皆が騒ぎを聞いて駆けつける頃には気を失ってしまった。そして、そのまま病院に搬送された。


 病院で診察されたものの、無論、何も異常はなかった。この時、年配の医師から、精通のこと、精液と脳は関係のないこと。そして、自慰行為は一般的には隠すべき行為とされていることを教わった。

 翌日の昼に郷土資料館で皆と合流した。

 昨晩の一件は一晩で知れ渡り、周囲から注目を集めたが、それまでも非難を浴びる経験が多々あったので、開き直っていた。

 一軍の男子生徒らは、自分のことを、修学旅行初日で我慢できなかった淫獣として笑いものにしたが気にしなかった。


 それから残りの時間、先生とはさすがに目を合わせられず、先生からも声をかけられることはなかった。それ以降、誰とも口をきかずに修学旅行を過ごした。


 最終日、志摩スペイン村というテーマパークへ行った。しかし、アトラクションなど周る気など起きようもなく、自分はお土産ショップに直行した。そこでハンカチを物色したかった。先生にハンカチを返さないと、とずっと思っていたのだ。

 ただ、土産代を貰えなかったため、誰かにお金を貸してもらおうと初めて他の生徒に声をかけた。しかし、自分を相手にする生徒がいるわけもなく、仕方なく万引きをすることになり、ほどなくして捕まった。

 駆けつけた担任に張り倒され、保護者に報告すると言われた。藤本先生も来ており、先生は自分が万引きしようとしたピンクのハンカチを見ていた。

 さすがにもう散々だと思った。

 どうしていつも自分は間違いばかり犯してしまうのだろう。何事も上手くこなせない自分がしんどく、泣いた。

「私、買います」

 その時、藤本先生は店員に言った。担任が「うちのクラスですし、僕が…」と止めに入ったが、藤本先生は聞かなかった。

 店を出て、先生に声をかけたが、言葉が続かず、しどろもどろな自分に、先生は「ハンカチ貰っていい?」と聞いた。

 先生が自分で買ったものだし、あげるつもりだったし、なんなら先生は自分にハンカチを汚されたせいで損しているくらいだった。

 自分は「当たり前田のクラッカーやろ」と早口で言った。その時、笑ってくれていたのか、確認できなかった。

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