5. 二人だけの木陰

 走り出した先、目前に広がる暗くしずまっていた森は、背後はいごからの熱気でざわめき、枝葉えだは煌々こうこうとオレンジ色に照らされていた。


 ミールを担ぎながら、私は改めて後ろを軽く振り返った。


 視線の少し先では、私達がいた納屋なやはすっかり崩れ落ち、ただの火柱となって燃えていた。そして更に奥では、おそらく奴隷商らが住む母屋おもやだろうか、かわら屋根やねで少し小洒落こじゃれた建物や立派な木々が、これまた轟々ごうごううなりながら燃えさかりつつあった。


 あの母屋も、おそらくここに来るときや焼印やきいんを押されたときにも見ていたのだろう。だが、正直なところ今の今までその存在に気づかなかった。


 どこか他人事ひとごとのように現実をとらえていたあの時間も、実際はかなり混乱こんらんしていたんだなぁと、今更だが気が付いた。


 そんなことを漠然ばくぜんと思いながら、私は夜闇よやみの中で舞い上がる灰とあかく揺らめく炎をながめていた。


「……アズサ?どうしたの?」


 背にかついだままのミールが不安げにたずねてきた。

 ……そうだ。私たち、まだ自由じゃない。逃げないと。

 そう思うよりも早く、私は再び燃える炎に背を向け、また走り始めた。


「ぅえぇっ!?ちょ、ど、どこ行くのアズサ!?」

「逃げるの!ここから!」

「だからどこに!?」

「目の前の森にッ!!」


 あわてる彼女をよそに、私はあの紅色べにいろに照らされた森へと突っ込んだ。足裏に、腕に、顔に草木が容赦ようしゃなくれる。感じる痛みを無視して、私はそのまま走り続けた。


 さっきまで炎で照らされていた木々の輪郭りんかくまたたく間に夜闇に溶け、鬱蒼うっそうとしたかげがどこまでも続いている。

 時折、夜風でゆれれた枝葉の間から差し込む月明かり。それを頼りにしつつ、私は前へ、より遠くへとおのれかしながら走っていた。


 とにかく、とにかく遠くへ。あの奴隷商から見つからないぐらい、できるだけ遠くへ。


 進むに連れて増す焦燥感しょうそうかん。だが、思いに反して私の足取りは次第に重くなっていた。


 視界の端、帯のように流れていた景色は次第に途切とぎれ始め、やがて月明かりに照らされた枝葉の陰影いんえいへと戻っていく。そして気づいたころには、踏み出す一歩すら力を振り絞るように、ゆっくりと踏み出すほどに遅くなってしまっていた。


(駄目だって、まだ行けるだろ。早く、逃げないと……!)


 そんな思いもむなしく、私の足は震えるだけで、その場から踏み出せずにいた。

 なんとか、なんとか、あと一歩だけでも……!そんな思いで一歩を踏み出そうと、両足に力を今一度込める。


 次の瞬間、私は崩れ落ちた。

 力が抜けた両足はガクンとひざをつく。自重じじゅうに負けて倒れ始めた身体しんたい咄嗟とっさに支えようと、私は地面へ両手をついた。だが、突き立てた両腕は余りにも細く、中途半端に、くの字のように折れながら頼りなく震えていた。


 だめだ、足に全く力が入らない。両手を地面について体を支えるのも正直、精一杯せいいっぱいだ。喉奥のどおくかわききって気持ち悪い。ヤバい、起き上がるのも無理かも。


 ……いや、ろくに栄養えいようも与えられていない、おまけに子供とはいえ一人を背負っていた状態でここまで来ているんだ。そう考えればこうなるのも至極しごく当然だ。むしろ草木をかき分けここまで走ってこれたことのほうが異常というか、火事場の馬鹿力というか。多分、ドバドバと出ているであろうアドレナリンでなんとかなっていただけなんだろう。


 そんなことを考えているとふと、背中が軽くなった。と同時に右隣からささやくようにミールが話しかけてきた。


「アズサ、だいじょうぶ?」

「うん……ごめん、ちょっと、動けないかも」

「えっ!どこか怪我したの……!?」

「いや……体力、限界、な、だけ」


 あぁそうか、ミールが私の背中から降りたのか。そんな事すら忘れかけていた。

 それでも、ミールが自分から動けるくらいには心を持ち直してくれたのかと思えば、少しばかり心が晴れた気がした。


「……ごめんねアズサ、今日はもう休もうよ」


 地面についたままの私の手に、ミールの手が重なる。顔をあげると、彼女は眉間みけんしわを寄せながらも、その目はまっすぐと私を見つめていた。


「そう、だね……ただ、せめてどこかに隠れないと」

「じゃああの木、どうかな?」


 そう言ってミールが指さした先には、小さな低木ていぼくが数本生えていた。大きさにして縦一メートル、横三メートル程度の小さな木が、寄りうようにしげっている。


「クシダキ、って木なんだけど……内側の、みき側に行けばちょっとした空間があるんだ。私たちなら多分隠れられるはず」

「……よく、知ってるね」

「うん。あの木、家の近くでよく生えてたから」

「そっか……」


 ミールの、この世界で生きているからこその知識だった。そして目前のクシダキを差し置いて別の場所を探せるだけの気力は、今の私にはなかった。

 ……それに、あんな顔を見せられたら、断れないじゃん。


「……それじゃ、そこにしようか」

「わかったよ!あっ……アズサ、歩ける?」

「ちょっと、キツイかも……肩、貸してくれる?」


 申し訳なさそうに私はミールへたずねたが、当のミールは返事を聞くよりも先に私の腕を首にかけ、私と立ち上がる準備に取り掛かっていた。




                   ◇




 ミールの肩を借りつつ、私達はクシダキのしげみのなるべく中心に行けるよう、ゆっくりと潜り込んだ。


 木の内側は意外にもかさのように枝葉が外側に密集するような形で広がっていた。ミールの言う通り、確かに幹側に行けば、私達が座り込むには十分な空間が開けていた。これなら一晩も過ごせそうな、ちょっとした安心感がある空間だった。


「アズサは休んでて?わたしが見張ってるから」

「うん……ありがと」


 ミールの提案に乗り、私は体をゆっくりと横にした。地面に低く生い茂る草花がほほに、腕にあたる。少しかゆさを感じはするが、あの小屋の薄いわらに比べれば、はるかに快適な寝床に感じられた。


 ミールをあの奴隷商から助け出し、一時的とはいえ心身を休める場所を確保することができた。まだ奴隷商から逃げ切れた確証かくしょうはないし、正直この先に身を寄せるあてなんてものはない。それでも、あの退廃たいはいした絶望から抜け出し、自由に向かって走り出せた、そんな感覚が今の私の中に満ちていた。


 そう思うと、途端とたんに嬉しさと希望がじんわりと込み上げ、目頭めがしらが熱くなった。


「へへっ……」

「ど……どうしたのアズサ?」


 隣に座るミールが訝しむような眼差しでたずねる。……確かに、はたから見れば急に笑いながら泣き出すのはちょっと気持ち悪いかもしれない。でも、あの時心のなかで謝るだけで何もできなかった苦しさに比べれば、彼女をこうして助け出せた今が、何よりも嬉しかった。


「……私、ミール、助け、だせっ……たんだぁ……」

「え?」


 今にも隣にいるミールに抱きつき、大きな声で泣き叫びたかった。

 そのまま抱き合ったまま、泣きつかれて深い眠りにつきたかった。


「よかった、よかっ――」

「――せ!探せぇッ!大事な売りもんだ、一人も逃がすなァッ!!!!」


 だが、その声を耳にした瞬間、あの恐怖きょうふ緊張感きんちょうかんが全身をおそった。


 忘れもしないあの声だった。納屋なやの引き戸を開けるたびに怒声どせいを浴びせてきた、あの大男の罵声ばせいだった。


 草木をかき分ける音が森に響く。音はやや遠く、そこまで近くにはいない。それでも、大人がこちらに真っすぐ走れば十数秒、それほどの距離のように聞こえた。


 気づけば私はとっさに息を殺し、口に手を当てていた。ミールも私を真似まねるように口に手を当て、息を押し殺している。表情こそ手で隠れて目元しか見えないが、まゆをすぼめ、かすかに震え、見開いた目で周囲を落ち着き無く見渡していた。多分私も同じ顔をしているのだろう。

 

 瞬間、ミールの顔が、体が、さらに強張こわばった。私も同じだった。


 新たな葉音。あの大男とは真逆の方向からだった。


 一歩一歩踏み出すように、かき分ける音が一定のリズムで響く。

 近い……いや、。だれ、なんで。もしかして、バレて――


 ――そして、音が止んだ。距離にして多分、一メートルもない場所で。


 気づけば、私はまたたきもできないほどに全身を強張こわばらせていた。血の気は冷たく引ききっているのに、心音があらゆる音をかき消すほどにうるさい。もうミールの方を見る余裕すらない。


「……兄貴、明かりもなしに無理ですって!!!暗すぎる!!!今は火消しが先です!!!」


 大男とは違う、若い男の声だ。息を切らしながら慌てている調子で、さっきの葉音が止んだあたりから聞こえていた。


「馬鹿言うなッ!!売るもん無きゃ俺も、テメェの駄賃だちんも怪しいんだぞ!!!」


 大男が私達をはさむように、少し遠くで怒鳴どなり散らした。今の私でもわかるほどに声色からは余裕のないあせりがにじみ出ていた。


「わかってます!!!!けど十五はらえたんです!!!!」

「三人足りねぇ!!!!!」

「火消さないと屋根も、足も消えて……明日生きる飯代めしだいすらなくなりますよ!!??いいんですか!!!?」


 大男からの怒声は、ない。

 若い男の必死の訴えが陰鬱いんうつとした森の夜闇に消える。

 かすかに聞こえる上がった息、風でれる草木。変わらず響く己の心音。


「……兄貴っ!!!!」


 そして、永遠のような一瞬の、張り詰めた静寂せいじゃくを若い男の声が断ち切った。


「……ッだぁッ!!!!!うっせぇ、戻るぞッ!!!!!!」

「はいっ!!!」


 若い男の説得せっとくに折れたのか、大男が叫びながら音を立てながら動き出す。そしてもう一つの草木をかき分ける音が、後を追うように遠ざかってゆく。


 大男たちの気配が遠くに消え失せてしばらく、気づけば何もなかったかのように森の夜闇に静けさが戻っていた。


「……助かったの、かな」


消え入りそうな震えた声で、ミールがぽつりと言葉を漏らした。


「……多分」


私も私自身に言い聞かせるように、小さな声を絞り出す。


「「……はぁ~~~~~~っ」」


 私たちは強張こわばった体を解すかのように、同時に大きく息を吐いた。


 男らから隠れ通せた安堵あんど感と極度の緊張からの開放感からか、私の体はすっかり脱力だつりょくしきっていた。

 冷たくなっていた四肢ししにじんわりと血の気が戻るのを感じる。多分もう一回追手おってが来たら、今度こそ見つかるくらいにはリラックスしきっている自信がある。


「……ねぇ、なんでわたしなんか助けたの」

「え?」

「助けなければ……アズサだけならもっと遠くまで逃げられた」


 ふと、ミールが私にたずねてきた。寝返りをしミールの方を見るも、当の彼女は顔を抱えた膝の前にうずめており、その表情はわからない。ただ、声色はなんだか不貞腐ふてくされているようだった。


 私はそのままミールを見つめながら、私なりの言葉で答えた。


「……私の、わがままで助けたかったから」

「……なんで」

「あの日……ミールが焼印をつけられた日、私は声をかけられなかった。あの日からずっと、どうすればいいか分からなくて。それで、結局今日まで話せなくて」

「……」

「でも、あの場所で、あんな形で別れるのは嫌で……ううん、違うな。あの日からずっと、こうしてミールと話したかった。だから助けたんだ、私」


 まとまりきっていない言葉をぽろぽろと、置くように話す。そうだ、贖罪しょくざいとか使命感とかじゃなくて……単に私は、ミールとこうやって話して、こうやって一緒にいたかったんだ。……ガハハ、ようやく気付きおったわこのバカ。遅すぎんだろ。


「……なにそれ」

「ん?」

「それだけで……そんなことで、死ぬかもしれないのにさ……助けてくれたの?」


 かかえていた膝から顔を上げ、ミールがこちらに振り向いた。ようやく見えた彼女の目には、大粒の涙がいまにもこぼれそうに、下まつ毛の上で震えていた。


「そんなことだからだよ。……今はさ、なにもないけどさ。なにもないからこそ、私がもってる唯一の、一番大事なものだから。ね?」

「……ぅ゛あ゛あ゛ぁ゛ぁ゛……ばがぁ゛ぁ゛……!!!」


 そんな私の言葉を聞いて、ついにミールの目から涙がこぼれた。体を軽く起こし、ゆっくりとミールの隣へと近づく。そして何も言わず、私は嗚咽おえつ混じりに泣きじゃくるミールをぎゅっと抱きしめた。


 胸元に抱えるミールの暖かさと共に、ボロボロの私の麻布あさぬのにじんわりと、ミールの涙がにじみるのを感じた。

 気づけば、あの日から感じていた自責じせき孤独こどくはもうどこにもなく、心地の良い安らかな感覚に私は満たされていた。


 今日はもう寝よう。そして明日の朝焼けとともに、また一歩、今度はミールと一緒に前に進もう。そう思いながら、私はゆっくりとまぶたを閉じた。

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