第2話

 金属バットが白球を綺麗に打ち返した時のキン、という澄んだ音は、しかし風鈴のように涼を感じさせることはなく、ひたすらに暑苦しい。

 八月最初の土曜日、気付けばはじまっていた夏の高校野球を、わたしはリビングのソファに沈み込んで眺めていた。なんとか大付属なんとかと、うんたら工業の第三試合だ。

 野球にはそれほど興味がない。サッカーよりは好きかなという程度だ。やっているから、観ているだけ。白熱する試合より、ウインタースポーツの方が断然好みだなと思う。地味なのがいい。

 中継カメラはスタンドの応援席を映し、チアガールのインタビューを伝えていた。ややもすると、今ごろあのスタンドで汗だくになって応援していたのはわたしかもしれない。わたしの高校の野球部は今年県予選のベスト4まで勝ち上がってしまったのだ。幸か不幸か、古豪で知られる公立高に準決勝で敗れた。決勝で負けていたらわたしも悔しいと感じてしまっただろうから、ちょうどいい幕引きだったと勝手に思っている。

 日に日に日照時間が短くなっている素振りを見せず、太陽は四時を回ってもさんさんと照りつけている。今日は朝から雲ひとつない快晴。真夏の空には入道雲がつきものだと思っていたけれど、こんな日もあるらしい。

 だからわたしは、今日は一歩も外には出まいと決めていた。学校の自習室もパス。生徒会も休み。当然、アリカの自由研究はサボりだ。

「あいつ、一人で黙々とやってたら、笑えるな」

 夏休み中、顔を出すたび生徒会室にアリカはいる。帰ってないんじゃないかとすら思うことがある。

 たまには休むといいのだ。息抜きは必要だ。なんとなく野球中継を観て潰れる一日は大切だ。

 西日がいい加減まぶしくなってきた。カーテンを閉めたいと思っていたが腰が重い。母が買い物から帰ってきてからでいいか。

 瞬間、窓の外がまばゆく光って、わたしは咄嗟に目をつむった。間髪を容れず、ドオン、という轟音が響き、飛び上がって窓を開ける。

 向かいの家の住人も玄関の扉を開け、外の様子を窺っていた。目が合うと、「なにがあったんだろう」と書いてあるような顔をする。多分、わたしも同じようなものだ。

 聞き慣れたエンジン音が近づいてきた。我が家のセダンだ。母が買い物袋を提げて降りてきた。

「葛葉、さっきの何の音? 外、光ったよね? ええ、雷かしら」

「雲もないのに」

 遠雷という感じでもなかった。どちらかと言えば、とても近くで打ち上がった花火のようだった。

 背後で突然、ケータイの着信音。予想外の事態に困惑していたところに電話がかかってくると人間は本能的に怯える。画面には「清津アリカ」の文字。電話を受ける。

「隕石を拾いに行くぞい!」

 電話口だと、本当に年下の男の子がはしゃいでいるように聞こえる。けれど、アリカは同い年の女子高校生だ。

「ああ?」

「柄が悪いよ」

 開口一番、意味不明なことを言われたら誰でも剣呑な態度になる。

「あんた、今それどころじゃ、って」

 ちょっと待て。隕石と言ったか?

「山に隕石が落ちたんだよ。拾いにいくんだよ」

 にわかには信じがたい話だった。要するに、今の轟音は隕石の衝突によるものだというのか。

「見たの? 落ちたところ」

「隕石を砕いて隠し味として試してみよう」

「NHKの速報も出てこないんだけど」

「夏バテにはミネラルだ」

「会話をしろ!」

 人の質問を無視するところは、本当に嫌いなところだ。イライラする。どうにか矯正できないものか。

「見てなきゃこんな電話かけないって。分かれよ」

 逆撫でするようなことを言ってのける。わたしが悪いのか?

「もたもたしてたら日本政府に先を越されるから! 家の前まで迎えに行くから準備しといてね」

 返事を待たず通話が切られる。わたしは思わず、ソファーにケータイを叩きつけた。ぼふ、という小さな音がする。

 ああ、もう。

 火星大王の思いつきがはじまった。これだったら、生徒会室で不毛な実験に取り組むほうがましだった。

 悔やみながら、日焼け止めを塗りたくる。リビングからはニュース速報のチャイムが聴こえてきた。


 夕暮れの田舎町を自転車で走る。

 自動販売機で買ったペットボトルがカゴの中で弾んでいる。

「こう、こないだの、なんとかって映画みたいじゃない? 観なかったけど!」

 アリカは振り向き、目をらんらんと輝かせながら、どこまでも情報量のない問いをする。けれど悲しいかな、どの映画を指しているのかはなんとなく察しがついた。去年大ヒットしたアニメ映画のことだろう。わたしは観たから言うが、全然シチュエーションが違う。

「前見て運転しなよ」

「どうせこうやって自転車をぎっこぎっこ漕いで、叫んで騒いで汗まみれになって、そういうのでしょ? わたしは詳しいんだ」

 快感原則なんだよと怒鳴り、小山の入り口に向かって農道を爆走する。その主張について、いまいち否定はしづらかった。

「ちゃんと着いてくから、走るのに集中させて?」

 あごから汗がしずくとなって落ちたのを感じた。息は上がっている。夏の陽は長くて、夕焼けのしぶといこと。長くて重い髪がまとわりついて鬱陶しい。アリカのふわふわとしたナチュラルパーマがうらやましくなる。

 昼と夜の間は時間感覚が曖昧になって、もう走れないような気もするし、どこまでも走れそうな気もする。時間も歪んで神隠しも起こるし、UFOも空を飛ぶだろう。そんな馬鹿げたことを思う。

 ぎしぎしと音を立ててペダルを踏み込み、杉林の小山へ。これだけの労力をかけるのだから、隕石のひとつぐらい落ちていてくれないと困る。

 ただ、隕石が材料になることはないだろう。

 火星ソーダはアリカが勝手につけた名前だ。アリカは火星人ではないし、その親もまたそうだろう。

 そもそも、アリカが火星人だったとしても話は同じだ。火星の石ならともかく、隕石は地球でも火星でも希少な現象だ。材料の供給源としては、まるであてにならない。

 つまり、この行軍の一切は無意味だ。隕石騒ぎの野次馬で飛び出してきただけ。

 それでも着いてきたのは、要するに見られるものなら見てみたかったのだ。隕石を。そのぐらいの興味はわたしにだってある。

 わたしは意識的に、ふとももでサドルを挟み込む。ハンドルを握り、緩める。ペダルを踏み込む足に余計な力が入っていては疲れるので、急いでいても一定の間隔で。農道のアスファルトは傷んででこぼこがあって、揺れが伝わってくる。

 自転車に乗っていると、そのまま宙に浮き上がってしまうような気がしてくるのは、昔観たスピルバーグの映画を思い出したから。

 道の悪いところでこれ以上スピードを出したら、ややもするとバランスを崩して転倒するかもしれない。恐怖感こそが身を守ってくれる。

 でも、いざとなったら田んぼに体を傾ければ、大怪我はしないだろう。幸い今日の服は、汗まみれになっても泥だらけになっても構わないような着古しだ。

 体を前につんのめらすようにして、わたしは速度を上げ、数メートル前を走り続けていたアリカをかわして前に出る。

「デッドヒートかな?」

 息を弾ませながらアリカは言う。わたしは取り合わない。

 いつもいつも、あんたが先を行けるわけじゃない。隕石を見つけるのはわたしだぜ。

 そんなことを言えば、むきになって抜き返されるに違いないからだ。


 農道から林道へ、直線から坂路へ。炎天下の中、わたしたちは自転車を漕いで、アリカの勘を頼りに山道を登る。その頃にはアリカもさすがに黙々と漕ぐだけになっていた。

 カーブが多い分、勾配はそれほどでもない。けれど傾斜路を座ったまま登るのはやはり難しい。わたしは立ち漕ぎで、自転車を踊らせるように左右に揺らす。

 常なら人の往来など早々ないだろう杉林の先に、なにかの気配を感じる。

 その勘は的中していた。警察の封鎖線と、縦に並ぶ県警のパトカーの列が現れたのだ。

 日本の警察の初動が遅くなくてよかったと安心する。優秀だ。十日市もあのフットワークを生かして警察官になればいいのだ。きっと、向いているだろう。

 警官のひとりがわたしたちを認めた。

「ああ、君たち。ちょっとこの先は通れないから。引き返して」

「ええ。何があったんですか?」

「それがちょっと分からないんだよ。今調べてるの、ちょっとね」

「事故じゃないなら通してもらえません?」

 少し太さの残る眉を吊り上げて、アリカが気追い立つ。

「ダメだよ、ちょっと。何かあったら責任取れないから、ちょっと」

 ちょっとが口癖の人だなと思った。押し問答で、まるで会話にならない。

「わたしたち、天体観測に来たんですよ。夏休みの宿題なんですよ」

 平気で嘘をつくアリカ。望遠鏡も何も持っていないのに、よく言う。

 ただ、その設定は少し面白かったので、付き合うことにする。

「迂回すればいいですか。この道、山頂っていうか、上まで登ったらその先にもう一本、下りる道ありますよね」

「悪いね、ちょっと。向こう側も止めてるから、この山はダメだよ。今日はやめときな」

 そもそも女の子が二人で夜の山なんてダメだよ、補導することになっちゃうよ、なんて余計なことまで言う。脅しじゃないか。

 当然、アリカが黙っているはずもなかった。

「公権力の横暴だ。しかるべきところに訴えてやるから覚悟しとけよ、巡査」

「なっ、こら」

 挑発をするだけして踵を返し、地面を蹴ってきた道を降りる。わたしも続く。

「この山はな、イノシシが出るんだぞ! 分かってんの、ちょっと!」

 ぎょっとする一言が投げかけられた。それを先に言ってくれ。

 追いかけてくるかなと思ったけれど、その気配はなかった。彼の仕事は野次馬を追い返すことで、持ち場を離れてまで相手にする必要がないということか。

 いや、連絡されて下で他の警官が待ち伏せていたらどうしよう。というか、そのうち林道の入り口にも封鎖線ができるはずだし、もういるかも。

「急いでおりよう、アリカ」

「完全にやる気なくしたわ」

 前を走るアリカの声は不機嫌を露わにしていた。きっと、表情もひん曲げていることだろう。せいぜい、労いの言葉をかけてやることにする。

「わたしもむかついたから、さっきのはちょっと溜飲が下がった」

 反骨心はあるが臆病者だから、こういう時、後先考えないアリカが少し羨ましい。

「日本にもメン・イン・ブラックがいたんだ。油断した」

「あの警官たちが実は秘密工作員? あはは、だったら面白い」

 それじゃあ、隕石には物体Xでもくっついているのだろうか。命拾いした。

「追い返されたから言うけどさ、なんにせよ、隕石は材料じゃないと思うよ。もっと入手性の高いものだって」

 柄にもなく慰めているのは、そうでもしないと気が滅入りそうだったから、

「……隕石、見たかったんだよ」

 やっぱりそうか。火星ソーダにかこつけて、わたしを引っ張り出しただけだ。わざわざ理由をでっち上げなくても、隕石を見に行こうと言えば、着いていったのに。

「隕石は空振り、甲子園も見そびれたよ。あーあ、どっちが勝ったかな」

 恨みがましく言うが、アリカはそれには答えなかった。

 かわりに、

「異星人だ!」

 と、彼女は叫んだ。その声に驚いて、急ブレーキをかける。

 見ると、坂道の端っこをとぼとぼと、というより少し左右に揺れてぺたぺたと、歩いている女の子がいた。

 まるで気付かなかった。近くに人家はないし、そもそも行きには誰ともすれ違っていないのに。わたしたちと同じく野次馬のつもりで途中まで登ったけれど、案外遠いのでくじけて引き返したのか。

 相手も驚いているようで目を見開いている。

 帽子を被っていない彼女の髪は、アッシュブロンド。白い頬にはわずかに朱が差して、そしてアクアマリンのような瞳。異邦人だとわたしは思う。

 いや、待て。アリカは異邦人ではなく、異星人だと言った。

 木を見て森を見ず、とはこのことだと思う。

 整った顔立ちの下には、白地に青いラインの入った全身スーツを身にまとっていた。コスプレかとも思うが、生地がちゃちくない。なんだかものすごくハイテクな感じがする。映画の撮影と言われた方がそれらしい。

 髪も腰まで届くほどに長く、浮き世離れした印象を受ける。ロングヘアはブスを隠す。けれど美人を引き立てもする。わたしは前者で、彼女は後者だ。

「あなたたち、わたしが見えるんですか?」

 信じられないといった様子で彼女は言った。

 ああ、やばい。これはやばい。電波ちゃんだ。触らぬ神にたたりなし。

 何も言わずに再び漕ぎ出そうとするが、アリカは違った。

「乗ってく?」

 あろうことか、荷台を手で叩いて謎の少女を誘ったのだ。

「……いいんですか。それでは、遠慮なく」

 少し躊躇したようだが、しかし少女はすぐに歩み寄って、荷台にちょこんと腰かけた。

「レディー、ゴー!」

 アリカは地面を足で蹴り、弾みをつけて坂道を下り始める。

 やめろバカ。この下り坂で二人乗りは転ぶ。転んだら死ぬ。後ろの女の子もせめてまたがってくれ。昭和の映画みたいに横向きに座るな。警察に見つかったら大目玉だぞ。

「ナンパしてんじゃないよ! もう!」

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