欲求と心、そして胃袋を捕まえる話

椎塚雫

欲求と心、そして胃袋を捕まえる話

 放課後、旧校舎の三階の空き教室。

 傷や落書きだらけの机が室内の半分を占めるぐらい置いてあり、その上に椅子が乗っている。壁にある本棚には色褪せた地球儀と黒いラジカセ、いつのか分からない赤茶けた卒業文集や純文学の小説が置かれている。残りのスペースに長机が二つと、パイプ椅子が四つある所から文化系の部室だったのだろう。しかし旧校舎は来年には取り壊される予定で現在使われていない。

 そんな人気のない場所で俺は目の前にいる女子生徒にこう言っていた。

「日本ではハグは見えない所でやるんだ」

 もちろんこんな嘘を信じる人は普通いない。

「そうなんですか! 知らなかったです……!」

 目をキラキラさせた少女は疑いもせずにしきりに頷いていた。無理もない、彼女はただの転校生ではなかったから。

 藤堂とうどうリリー。名前で察しがつくと思うが日本人とイギリス人のハーフだ。

 担任の説明によると幼少期は日本で、両親の都合で中学まではイギリスで、高校からまた日本に戻ってきたらしい。

 見た目は金髪碧眼とイギリス人の綺麗さを取り入れ、あどけない印象を与える顔つきは日本人の可愛さを兼ね揃えているいいとこ取りの美少女だった。そして足はすらりと長く、腰も細い、何よりも制服越しでも分かるぐらいふっくらとした双丘の持ち主であることだ。軽くメロンが入っているのではないかと錯覚してしまうぐらいの大きさである。

 そして俺はたまたま隣の席だったということで学校案内をするよう担任に頼まれ現在に至る。

「青島くん、どうぞ」

 藤堂は流暢な日本語で、両手を前で広げて待ち構えていた。

「えっ」

「あれ、ハグしないんですか?」

「あ、えっと……」

 そう、藤堂にとってはなんのこともないただの挨拶。

 だけど日本生まれ日本育ちの彼女もいない男子高校生には非常にハードルが高かった。女の子の手すら触れたことのない童貞には勇気が足りなかったのだ。

 あたふたしていると藤堂は口元に手をやって微笑む。

「……ふふ、やっぱり日本人は恥ずかしがり屋さんで可愛い。ぎゅ」

 そして彼女から歩み寄るとそのまま抱きしめられる。

「うおっ!!」

 むにゅん。胸板に押し付けられた柔らかい感触と共にすぐ側に藤堂の顔がある。身長差から藤堂の肩に頭を乗せる形になるが髪から甘くて良い香りがして、制服越しに伝わる体温やら首に回された腕で何も考えられなくなる。

 柔らか……いい匂い……柔らか……。

「……と、とと藤堂っ」

 声が上擦ってしまう。女の子に免疫がなさすぎてすごくキモい声を出してしまった。何をすれば分からなくて背中に腕を伸ばそうか悩んだまま固まってしまう。

 ややあって離れると藤堂は不思議そうな表情でこちらを見つめる。

「顔真っ赤ですよ?」

「あ、その……」

 何か言いかけた俺に彼女は背伸びをしてきた。

「……!!」

 ちゅ。頬にわずかに湿り気のある柔らかい感触がした。

 口をぱくぱくさせたままもはや言葉にならない。

「くすくす、これも向こうの挨拶なの」

 イタズラがうまくいった子供のように口に指を当てながら微笑む藤堂。

「と、藤堂さん……」

「リリー」

「え」

「リリーって呼ばないとクラスの皆にハグしてた事言っちゃうかも」

 藤堂は胸ポケットから細長い棒状の――ボイスレコーダーを取り出ながらニヤリとする。背筋が凍る感覚がした。

 無知だと思わせておいて全然違う。日本語が堪能な時点で彼女は普通にハグが日本の挨拶じゃないことを知っていたはずだと今更ながら悟る。

「え、り、リリーさん」

「明日には言っちゃおうっかなぁ……」

「リリー!」

「素直な男の子は好きです。よしよし」

「あ、ああ……」

 駄目にされる。頭を撫でられながら目の前の彼女に逆らえる気がしなくなっていた。

 下心を見せてしまったばかりに弱みを握られて。

 友達もいないのに藤堂リリーに暴露されれば、教室どころか学校にすら来れなくなってしまうだろうという確信があった。

「もう冗談ですよ。ふふ、泣きそうになっちゃっているじゃないですか」

「え……」

「青島くんがわざと私にハグさせようとしているのがわかったから、逆にドキドキさせて反応見てみたかった。つまり同じことを考えていたんですよ」

「そ、そうだったんだ……」

「これに懲りたら他の子にはしちゃ駄目ですよ?」

 頷く。というかこんな事しようとしたのは無知そうな外国人だと思ったからだった。

 それから藤堂さんは急におどおどしながらこちらを伺う仕草をする。

「青島くん、もしよかったら友達になってくれませんか?」

「……は?」

「いや、ですか?」

 そんな訳はない。というかいいの?え?

「とうど……リリーなら明日にでも友達になりそうな奴いっぱいいそうなんだが」

 途中で言い直したのは無言でボイスレコーダーをチラつかせてきたからだった。こえーよこの女。

「……またハグしてあげるって言えば言う事聞いてくれる?」

「よろしくお願いします」

 即答だった。悲しいかな、男というのは美少女のお願いにてんで勝てない。



 こうして藤堂リリーの下僕としてこき使われる学校生活が始まる――はずだった。

 実際にはパシられることもなく、教室にいる間では名字で呼ぶように言われ、特に話すこともなければ脅されることもなかった。というより休み時間中は藤堂リリーは常に女子に囲まれていたからだ。

「藤堂さんの髪って綺麗だよね」「イギリスではどんな生活していたの?」「放課後一緒にカラオケに行かない?」「連絡先教えてくグホォ」「男は近寄らないで」「青島に悪い事されてない?大丈夫?」

 というより一部の女子がボディガードと化していて少しでも男が話かけようとするものなら冷ややかな目であしらわれる状態だった。実際遠巻きに見ている男子生徒は「でっけぇよな……」「分かる……」「揉みたいよな」「分かる……」「おい誰か声かけろよ」「いやお前が行けよ」とチラチラと藤堂を盗み見しており、専ら下心ありそうな野郎どもしかいなかった。いやまぁ人の事言えないけどさ。

 俺?もちろん藤堂リリーに弱みを握られているようなものなので空気に徹していた。え?そもそも友達がいないから寝ているフリしか出来ないって?事実を言うな事実を。藤堂リリーが転入してからというもの、こっそりライトノベルを読むことすら出来なくなってしまったので専ら机に伏せていることしか出来ない。

 それから女子達が藤堂リリーに彼氏いるの?などとよくある恋バナに花を咲かせはじめたが俺にとってはどうでも良いことだ。寝よう。


 カサ。

 耳元に紙のようなものが置かれる音がして目が覚める。気がつけば四限目の古文であり、自分以外にも寝ている人がチラホラいた。

 顔を上げ、折りたたまれた紙を開く。

『昼休み、旧校舎に来て』

 丸っこくて可愛い字で書かれている。女子の文字だ。

 ノートの切れ端を千切って書かれたそれは宛先が書いてないけれど、不思議と心当たりがあるのでチラリと隣を見る。

「(ニコッ)」

 目線が合うと笑顔になり小さく手を振る藤堂リリー。弱みを握られてさえいなければ惚れてしまいそうなぐらいあざと可愛い。なぜだか女子に話かけられている時よりも嬉しそうにしているのが何故だろうか。

「……」

 紙の余白に『了解』とだけ書いて、藤堂リリーに見せると彼女は満足そうに頷き、何事もなかったかのように黒板に目を戻した。

 とりあえず行かない訳にはいかない。四限目終わりのチャイムが鳴ると同時に俺はさっさと購買部にダッシュしてコロッケパンを確保し、そのまま旧校舎三階の空き教室へと向かった。

「青島くん、おかえり」

「ただい……うおっ!」

 いきなり藤堂リリーにハグをされた。コロッケパンが入っていた袋を思わず落としてしまう。

 むにゅんとメロンのような二つの果実が胸板で潰れるのを制服越しに感じる。耳元でおかしそうに笑う藤堂の息遣いがくすぐったくて体がびくびくと反応してしまう。

「ほら待望のハグだよ」

「藤堂さ――」

「リリー。二人きりの時はそれで呼んで。じゃないと悲鳴あげる」

「リリー……」

「よろしい、ご褒美にしばらくぎゅってしてあげる」

 背中に手を回され、身動きできなくなってしまう。温もりを感じながら、リリーの首元から香る甘い匂いが鼻孔をくすぐる。

「(やばいやばいやばい)」

 なんで女の子の体はこんなにも柔らかいんだ。いい匂いがするんだ。わざと耳元で囁くのもどうにかなっちゃいそうだからやめてくれ!

「ふぅー」

「ああっ」

「耳弱いんだ……えへへ、ほんと可愛いなぁ」

「こんな可愛い美少女に迫られたら誰だって……ひゃ!」

 耳から離れたと思ったら今度は首元に鼻を当てて深呼吸し始める。

「すぅーはぁーすぅーはぁー」

 生暖かい吐息がなんども首筋をくすぐり、その度に背中に電流が走るような感覚がした。突き飛ばそうと思えばできたのに。

「んー?」

 上目遣いでこちらを見つられた途端、碧く透き通った瞳に目を奪われてしまう。睫毛は長く、唇がふっくらとしているのが分かる。

「くすくす、顔真っ赤だよ?」

 からかわれているだけなのに抵抗出来ない。いやしたくないのだ。体温の暖かさと柔らかい感触だけで脳が痺れるように気持ちよく、ドクンドクンとやかましいぐらいの心臓の音しか聞こえない。

 すでに下腹部が固くなり始めている事に気づく。他の女子よりも大きい双丘を体に押し付けられ、首元からただようバニラのような甘い香り、耳元でこそばゆく弄ばれ、学校で抱きしめられているという状況に興奮してしまう。

 こんな所で過ちを起こせば、社会的立場が終わってしまう。

「や、やめ……嗅いでも汗臭いだけだから……」

「全然臭くないよ? それに青島くんの匂い好きだけどなぁ……」

 すんすんと鼻を鳴らして恍惚そうな表情を浮かべるリリー。もはやからかっているのか、痴女なのか分からなくなってきた。妙に色っぽく舌なめずりをしていて、非常にエロい。

 呼んだ?呼んでねえ!!と己の分身に言い聞かせながら、リリーの両肩に手を置いた。

「もうハグはいいから!そろそろ離れてくれ……」

「えぇ~」

 これ以上は本当にやばかった。主に下半身的な意味で。体中が熱くてすぐにでも押し倒したい衝動に駆られるがすんでのところで踏みとどまった。

「まっ弱点見つけたし許してあげる」

 そう言って密着していた体を離すリリー。

 ようやく解放された俺はフラフラとパイプ椅子に座り、深呼吸をする。ついでにポケットに手を入れて、さりげなくアレのポジションを直したのは内緒だ。テントを立てたら一大事だからな。何がとは言わない。

 ピンク色に染まった脳内を切り替える為に適当な話で気を紛らわせることにした。

「リリー、もしかしてだけど匂いフェチ?」

「……あ、バレちゃった」

 恥ずかしそうに俯くリリー。いやどちらかというと異性にハグをやる方が恥ずかしいと思うのだが。

「ん、私ね昔からパパの匂いとか男の子の汗の匂いが好きでついハグしたくなっちゃうの。でもそれで勘違いされたり、男の子に胸を触られたりして騒ぎになった事もあって……」

 恐らくスキンシップが好きなせいで挨拶以上の意味があると勘違いしたのだろうということは想像に難くない。思春期の男子なら手を握られたりするだけでも意識してしまうのに抱きしめられたらもうそれは好きと言っているようなもの。

「分かってはいるの、匂いフェチが普通じゃないというのは。でも君は出会って初日の女の子にハグさせようとしてきて、もしかしたら仲間なんじゃないかと思ったのよ」

「な、なるほど?」

「私も馬鹿じゃないから念の為に護身術も覚えたし、大きな声では言えないけどボイスレコーダーやスタンガンも身に付けてる。でも青島くんは人見知りで小心者で童貞みたいだからその必要はなさそうというか……あれ、なんで落ち込んでるの?」

「なんでもないです……」

 事実陳列罪で藤堂リリーを緊急逮捕してくれませんか?そして言葉って凶器なんだということを教えてやりたい。

「こほん、そこら辺の男よりは信頼しているのよ? じゃなかったらほら、昼休みに一緒になるはずがないじゃない」

 そう言いながらリリーは俺の隣にパイプ椅子を寄せて座ってくる。当然のように肩と肩がぶつかりそうなぐらい近い。パーソナルスペースという概念がないんだろうかってぐらい近い。

 ふと腕時計を見るともう十二時半過ぎ。そろそろ食べないと午後の授業に間に合わなくなる。

 床に落としたままの袋を回収し、中にあるコロッケパンを食べようと取り出した瞬間「待って」とリリーに呼び止められる。

「コロッケパンだけじゃ足りないでしょ、だから作ってきたの……君の為に」

 若干頬を赤くしながら渡してきたのはピンクと白色の二段式の弁当箱だった。

「それはリリーの分じゃ――」

 続けて言おうとしたらリリーは無言でランチバッグから更にタッパーを出してきた。どうやら逃げ場はないらしい。

「わざわざ作ってくれたのか……」

「……だって青島くん、あれからずっと話しかけてこないから。嫌われちゃったのかなって」

 なんだよ、急に泣きそうな顔するなよ……。胸の奥にチクリとした痛みが走る。

 普段敬語で喋る彼女は俺にだけは砕けた口調で、からかうのが趣味の女の子だったはずなのに。急にしおらしくなるなんて。リリーらしくない。

 それに会って間もないはずなのにどうして弁当なんて作ってくれるんだろう。でもそれを聞くのはすごく失礼な気がして言葉にできなかった。

「私もあの時やりすぎたかな……って思ってお弁当を作ってきたの。もしよかったらでいいけど」

「食べるよ」

「いいの?」

「その為に作ってくれたんだろ。こんな可愛い子に作ってくれたのに食べないのは男じゃない」

「か、かわいいって……」

 顔を赤くして俯くリリー。人の匂いを嗅いで興奮していた女と同一人物とはとても思えない。でもああ見えてちゃんと律儀な子なんだなって分かって、改めて藤堂リリーと友達になりたいと思った。

 思えば初対面の女子で嫌な顔をされなかったのはリリーが初めてだったし。

「事実だよ」

 自分で言っといて恥ずかしくなるので早速弁当箱を開ける。

 中身はミートボールにポテトサラダに卵焼きに唐揚げにブロッコリー。下の段の方はシンプルに白飯。食べざかりの男子高校生には最高の組み合わせだった。藤堂リリーさん、イギリス人と日本人のハーフなのに弁当の中身がおかんやん……。

「美味しい……?って聞くまでもなさそうなぐらいがっついちゃって」

「めっちゃ旨い!毎日でも食べたいぐらいだ」

 卵焼きは甘く、唐揚げは肉汁が溢れてジューシーでごはんとの相性は抜群。ポテトサラダもほくほくで美味しいし、ミートボールは定番ながらも良い。ブロッコリーもあることで色合いもあり食欲が唆る。

 素直に絶賛しつつ、箸を動かす手を止めなかった。

「……えへへ、毎日かぁそっか」

 隣で嬉しそうな声を聞きつつ、あっという間に食べ終えてしまった。

「ごちそうさま」

「お粗末様でした。あっ空の弁当箱は私が持ち帰るからいいよ」

「悪いからちゃんと洗うよ」

「いいの気にしないで。今回は私が勝手に作ってきただけだし、そんなに美味しそうに食べてもらったら嬉しくて仕方ないもの」

 嬉しそうに微笑むリリーに俺はドキッとさせられる。

 冷静に考えて金髪碧眼の美人転校生に弁当を作ってもらっている状況。どうしてそこまで俺なんかに構ってくれるのだろう。

 今までモテたことのない自分にはいささかしっくりこないし、何か裏があるのではないかと勘ぐってしまう。でも……。

「その顔、どうしてそこまでしてくれるのって思ってるでしょ」

「心を読むなよ……」

 藤堂リリーは懐から写真を取り出す。

 そこには公園のブランコの前で仲良く映る幼稚園児の子供が二人。

「かつて男の子は言いました、大きくなったら結婚しようって。それに対して女の子はうん絶対に約束だよと答えました。でも女の子は訳あって遠く日本を離れてしまいましたが、それでも男の子のことを忘れませんでした」

 待って、それって……。

 遠い昔の記憶でありがちなエピソード。まだ意味も大して分かっていなかったし、ずっと一緒にいたいという気持ちだけで出たであろう台詞。物心ついて間もない自分にとってはもう朧げで公園で何をしていたのかすらもう思い出せないけれど。

「しかし10年ぶりに再会した男の子は女の子の顔も名前も約束も忘れてしまいました。女の子は腹いせに彼女が作れないように男の子に嫌がらせをすることにしました。それは何故でしょうか?」

 やっと、思い出した。

 同時にスキンシップが多いのか、俺に対して何故あんなにも体が触れても嫌な顔をしなかったのか瞬時に理解できた。

 イギリスに行ったあの子がもう帰ってこないとずっと泣いていた日があったというのに。

「……リリちゃん、ごめん」

 なので当時の呼び方で自分からハグをした。

 今度は彼女の背中に腕を回して抱きしめるようにして。

「気づくの遅すぎよ、ばか」

 遠くで予鈴の音が響いていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

欲求と心、そして胃袋を捕まえる話 椎塚雫 @Rosenburg

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ