世界の終わりと声優ラジオ
@heynetsu
第1話
世界の終わりに祖父は声優ラジオを聴いている。
『みなさんこんばんはニシザキトモコです!』
『こんばんはぁ、キヨスミユーナです』
安っぽい打ち込みのテーマソングを背に、シャキシャキ喋る西崎さんとふにゃっとした声の清澄さんの挨拶で番組がはじまった。音量が大きく、祖父の寝室から襖を隔てた居間にあっても明瞭に聞き取ることができる。矍鑠たる祖父も、耳は遠くなった。七十七歳。喜寿のお祝いを用意しようと思ったら、バタークリームのケーキをリクエストされ、調達に苦労した。オーブンがあれば自分で焼いたが、築云十年の木造建築にそんなハイカラなものを置くスペースはない。
そのくせ、どうせ聞こえないだろうと高をくくって「バタークリームなんてきょうび流行らない」と小声でぼやいたら、
「俺は好きなんだよ」
とはっきり拾われてしまったのは、なんともばつが悪かった。
あはははは、と笑い声がスピーカーを揺らした。ユーナのアヒル口がむかつく、という毒を西崎さんが吐いて、清澄さんがお腹の底から笑っている。清澄さんはややもすれば媚びていると揶揄されるような甘ったるい声だが、笑い上戸がすべてを吹き飛ばしている。というか、媚びているのであればこの笑いで台無しだ。ただ、そのギャップが逆にそそるのかもしれない。祖父は特段表情を変えずに、しかしラジオに耳をそばだてていた。
声優さんがバカみたいに笑っていても、世界は終わるのだという。
世界の終わりがどんなものなのか、実を言うと、さっぱりだ。核戦争や大隕石衝突だったら分かりやすくてよかった。いっそすがすがしい。けれど実際は、真綿で首を絞めるような息苦しいものになるのだという。太陽活動がどうの、かっちりスーツを着込んだ学者先生たちがバラエティ枠のオカルト番組みたいな内容を話し込んでいたのを見て、吹き出してしまった。
大の大人がテーブルに前のめりになって、世界の存亡なんて議題を真剣な面持ちで、議論が白熱するにつれどこか喜色を浮かべているのだ。男の子のしょうもない悪巧みの顔だった。楽しそうで結構なことだ。
十代で死ぬのは正直かなり気恥ずかしいので、世界がせめて二年は持ちこたえられるよう彼らには是非とも頑張っていただきたい。欲張るなら、喜寿を迎えた祖父が傘寿を迎える三年後もお祝いがしたい。……これは祖父の健康管理の方が大事だな。ご飯はなるべく塩分控えめを心がけよう。
わたしのような当事者意識のない人間がいる一方で、目に見えないそれをちゃんと脅威と認識して、生き延びるために最善手を模索する人々も、それなりにいた。父と母と弟がそうだ。
彼らは一ヶ月前、長野の親戚を頼って逃れていった。
祖父は長旅はくたびれるだの家を放っておけないだのそれらしい理由をいくつもこしらえてこの家に残った。話し合いが物別れに終わった父が、こうなるんじゃないかと薄々思ってた、と漏らしていた。
それを聞いて、おじいちゃん一人残してはいけないよ、とわたしも言い出してみた。親の気持ちは分かっても子の気持ちは分からなかったのか、父は口を半開きにして言葉を失っていた。
長野が逃げ場所として適当なのか、これもわたしには分からない。砂浜のあるこの街から海無し県へ行ってどうなるのか。地理や物理や化学の勉強をしてこなかったから、世界を終わらせる自然現象に対して理にかなった行動なのか、判断する尺度を持っていなかった。あまり関心がなかったので調べようとも思わなかった。
そんなことより、祖父が女性声優のラジオ番組にすっかりはまってしまったこと。それこそが問題だ。
祖父はニシザキさんのこともキヨスミさんのこともまるで知らない。経歴も、名前はどういう字を書くのかも、どんな作品でどんなキャラクターをしていたかも。洋画の吹き替えや報道番組のナレーションとは無縁の若手だから、このラジオに出会うまで声を耳にすることすらなかったのではないか。しかもこの番組を放送しているのは地域限定のコミュニティFM局だ。放送エリアはほとんど市内に限られる。番組に行き会ったのはほとんど偶然と言っていい。
一方でわたしは「西崎智子といえば『ストーミングホーム』の尾瀬みさき」と代表作を挙げられる程度の知識はあった。オタクを自称できるほどではないが、嗜む程度に深夜アニメを観賞などしていたのだ。『ストーミングホーム』を放送していた時間帯、今ではどの局でも放送休止を示すカラーバーが延々と表示されている。
わたしから祖父にアニメや声優の話題を振ったことはない。だから、西崎智子と清澄優奈が、いかなる手練手管を使って祖父を引き込んだのか、不思議で仕方がない。
よりによってうちの人を。わたしのおじいちゃんはそんなんじゃないんだ。天然ゴムの加工工場を勤め上げた、将棋が趣味の、昭和の男なのだ。カブの浅漬けが好物で、祖母がよく作っていた。レシピを見て作っても微妙な塩梅なのだろう、慣れ親しんだ味が出せない。そういう苦労も知らないでよくもやってくれた。
「なにをむくれてんだ」
その声に顔を上げると、祖父がわたしの顔をじっと見つめていた。ラジオに没入していたんじゃないのか。目があって、顔を逸らした。
「音が大きい、って言い出しづらかったの」
「そうかい」
そうは言ってもボリュームを絞ることはしない。つまみをいじる素振りぐらいは見せてくれてもいいのに。男はそういうところが、分かっていない。
わたしはフリークではないから、ラジオは聞き流していただけだったが、意識を寝室の方に向けたので自然、内容が耳に入ってきた。清澄さんがヒロイン役をつとめたロボットアニメの話題だった。
『核ミサイルを使い切っちゃって慌てて新しい核を作り出すのが本当好きでさー』
『それ爆弾発言だよ!』
『だいじょぶだって誰も聴いてないから』
『ひでー! リスナーさんに謝れー!』
「核がどうのってどういう話なんだ?」
誰も聴いていないとパーソナリティが言い放ったラジオ、それを聴いていた祖父がわたしに訊ねた。
清澄さんが話していたのは、アニメ中盤のエピソード。宇宙から襲来した怪獣軍団に地球上のありったけの核兵器を打ち込み、一定の効果があったので世界を守るために核を増産するという展開だった。
「ロボットはどこに出てくるんだ」
「最初はひとつしかなくて、それを操縦するのが清澄さんが声を当てた女の子」
ヒロインの名前はアルデュールで、なんて話は蛇足だから省く。
「俺が見ても面白いかね」
「知りません。ブルーレイがあるから観る? 全部見ると映画より長いけど」
「後で頼む。俺はビデオの動かし方分からんから」
はいはいと安請け合いをした後、はたと失敗に気付いた。真剣な芝居の声を聴かせたら、祖父が清澄さんにますます惚れてしまうではないか。ラジオでは気の抜けた話し方をするのに、演技になるとひりつくような声を出すのだ。
そう言えば、このラジオの中で、彼女たちが演技をしているところを聴いたことがない。西崎さんなどは、以前全国放送の冠番組の中で五分くらいのミニドラマコーナーを持っていたくらいなのに。アニメの仕事がなくなったのなら、芝居に飢えていそうなものだと素人ながら思う。
一体この女性声優たちは、番組表に載らないラジオ番組をどういうつもりで続けているのだろうか。貨幣経済が実質的に破綻している中、零細ラジオ局が出演の対価を払っているのかどうか。
物質的な報酬が動機でないとすれば、こういうのはどうだろう。氷山にぶつかった豪華客船にまつわるエピソードで、沈みゆく最中も演奏を続けた楽団があったという。職業意識から来る使命感。楽団の演奏は殺到する乗客の恐慌を静めたというけれど、地域FMラジオの一時間番組では沈みゆく宇宙船地球号とはちょっと釣り合いがとれないな。
一番嫌なのは、祈りとか願いとか、途方もつかないもののためにラジオをしている場合だ。自分であれ他人であれ、慰めを短波にこめるようなことはしないでほしかった。他でもない祖父が聴いているのだ。もしこのラジオに祖父が癒され、慰められ、救われているとしたら。考えるだけで不愉快だった。
世界がまだ元気だった頃、祖母のお葬式があった。生まれてはじめて葬儀に参列して、全てが見様見真似、居心地の悪さといったらなかった。父や母は暗い顔をしていたけれど、あの表情は、祖母の死と同じくらいに、葬儀を取り仕切ることが重荷となっていたからではないかと思う。億劫さを隠し切れていない親戚などもいて、そうか、大人でも葬式はつまらないんだ、と得心が行ったのを覚えている。
とりわけ鮮明に覚えているのは、祖父もその親戚と似たような表情をしていたことだった。自分の妻の葬儀で、気を張る様子も涙ぐむこともなかったのだ。優しいおじいちゃんが、七十年の歳月を生きてきた全容の掴めない男性に変わったのは、あの頃からだ。
数年を経て、あの時の祖父は、祭礼に意味を見出せなかったのではないか、と思うようになった。確かめたことはない。なんとなくだ。わたしの中では、そういうことになっている。
祖父は七十七歳にして声優ファンとして目覚めた。もしくは、漫才のようなラジオに純粋なおかしさを見出して、エンターテイメントとして享受している。ただそれだけのことであってくれれば、それ以上は望まなかった。
『おたよりを読んでいきたい! いきたいのはやまやまなんですが!』
『が?』
冒頭からの長いフリートークが終わり、リスナーからのメールを読み上げるコーナーに入ったものの、はきはきとした喋りで歯切れの悪い西崎さん。
『届いてません! 一通も! ……ってユーナ真顔! めっちゃ真顔じゃん!』
『だってさあトモチ、先週来なかったから今週も来ないだろうなーって』
『なんだっけそれ? 帰納法? 演繹法?』
先週だけのことで帰納も演繹もあるものか、と口にせず突っ込む。先々週は何通か読んでいた覚えがあるので、まったく期待できないわけではないだろうに。なんて諦めの早さだ、清澄さん。
もっともこのご時勢、受信地域が限られたラジオということを考えると、それもむべなるかな。一ヶ月前に比べて、街の人影はまばらになっていた。来週も届かないようなら再来週も来ないことだろう。
こうやってじわじわと追いつめられて自然消滅していくのだろうか。そう思った矢先、
「送ったら読んでもらえるなあ。便箋どこにしまったっけな」
「送るの!?」
祖父が平然と言い出すものだから、はしたないことにわたしは口をあんぐりと開いたまま固まってしまった。
筆不精の祖父がメールが来ないことすら茶化しているラジオに手紙を送ると言い出した。そこまで好きか、声優ラジオが。何がそんなに好きなんだ!
叫びだしたくなるのをどうにかこらえる。
「そこの、引き出しの三段目。でも、メールでも送れるよ」
「いや、こういうのはきちんと書くもんだから」
「でも、郵便で届くかな。ていうか、ちゃんと集荷してるのかな」
「……」
わたしの言葉に黙って腕組みをはじめてしまった。余計なことを言った。何気ない一言で祖父のやる気をくじいてしまうのはわたしの悪い癖だった。祖父の気持ちが萎えてしまう前にフォローしなくては。
「いいよ、わたしが車出すって。直接ラジオ局まで行こうよ」
「免許持ってないだろ」
「取ったじゃん、この春に」
そうなのです、おじいちゃん。わたしは自動車を運転することが国から認められているのです。そういう年齢になったのです。
「その辺走って練習しといてくれな。おじいちゃん、事故は嫌だから」
「七十七歳の運転よりマシだよ。免許返納した人は助手席座ってなさい」
「……ネズミ捕りなんていないし、無免許でも構わないんじゃねえか?」
「孫を信用しなさい」
そう言ってわたしは便箋を卓袱台に出した。しぶしぶと言った様子で筆をとる祖父だったが、しかし目は笑っていた。一文書くたびにやにやしている。
声優の職業意識、おいしい浅漬けの作り方、世界がいつ終わるか、祖父がどうして声優のラジオを聴くのか。分からないことだらけだ。
祖父の手紙が読み上げられる回が待ち遠しかった。七十七歳からのおたよりに、西崎さんと清澄さんにはぜひとも首をかしげてもらいたいものだ。
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