もえの未来予想図

古居ケイ

もえの未来予想図

とある恒星のまわりを周るひとつの惑星アルタⅦ。

大気の状態が不安定なその惑星では、地表上で人類が細々と暮らしている。

アルタⅦは大気の状態が非常に不安定になりやすい傾向がある。

それゆえ大地には木々はおろか花の一輪すら生えることはない。

しかし人類はそんな環境の中でも細々と生き延び、荒廃した大地のあちらこちらにシェルターを立て、その中で天候の激しい揺らぎに耐えていた。

そう大仰に言ってはみても、実情悪天候時以外の生活は気安いもので、女子高校生であるもえもごく普通に学生生活を送っている。

退屈しがちな女子高校生にとってこの惑星の悪天候など日常茶飯事で、むしろなにかもっと大きなスペクタクルが起こらないかと非現実的な期待をしているくらいだ。

今日もどこか気怠い空気の中、友人四人同士で机をくっつけあい、昼食である配給されたランチプレートの中の赤いビタミンペーストをつっつく。

惰性でペーストを口に運びながら、友人のひとりである澪がもえの幼馴染みであるのぞみに問いかける。

「ねえ、のぞみは昨日のデートどうだったの」

するとのぞみは「えー」と恥ずかしがるように言ってから、思い返すように右上へ目を遣った。

「そうだなあ。彼と一緒にショッピングモールでホログラムの新作ワンピースをダウンロードしてきたり、ミドリムシスムージー飲んだり……」

のぞみは今度は照れたように長いまつ毛の目を伏せる。

「それから……ちょっと肌寒いねって言ったら彼の上着かけてくれた」

くっつけあった机の着席者すべてから「えーっ」と声があがる。

澪が、持っているスプーンからペーストがこぼれ落ちているのにも気づかず目を見開いている。

「とんでもなくラブラブじゃん!」

四人組のうちのひとりである千代が額を抑えて天井を仰ぐ。

「めっちゃエンジョイしてるうえに極めつけに上着って……」

もえだって澪や千代のようにオーバーリアクションしたいくらいショックだった。

でもそうすることはできない。

素直にリアクションなどしてしまっては本音がばれてしまう。

それは絶対に避けなければならなかった。

なぜなら、もえはのぞみのことが好きだからだ。

もちろん友愛としての好きではなくて、恋慕としての好きだ。

もえとのぞみは小学生の頃からの友人だった。

学舎シェルターが増設されて澪と千代が編入してくるまで、いちばん且つたったひとりの友人だったのだ。

シェルターⅢ内で唯一存在する巨大な小中高エスカレーター式の教育機関の中で、ずっとのぞみとばかりつるんでいたのは、友情だけを理由にするには内実下心がありすぎる。

もえはのぞみのことが世界でいちばん可愛いと思うし、抱きしめたいし、あわよくばそれ以上の関係になりたい。

でもそんな本心を伝えてもし友情が壊れたらと思うと、もえは現状維持に専念するしかなかった。

しかしそんな大切なのぞみを、何処の馬の骨ともわからない男に一ヶ月前唐突にかっさらわれたのだ。

男の気持ちもわかる。のぞみは可愛いからだ。

栗色のやわらかな巻き毛、世界のきれいなものだけを映しているかのような潤んだ瞳、繊細でどこか憂いを帯びたようなまつ毛、どこをとってものぞみは可愛い。

だからこそ心のどこかで危惧していた出来事が本当に起こってしまったのだが、むしろまあそんなこともあるだろうという諦めがもえの心の表層を覆っていた。

そんなわけでもえは、たかが学生の恋愛だ、さっさと破局してしまえと内心思っている。

「ちょっともえ、リアクション薄くない?」

何も言わないもえを不審がって、澪がもえの顔を覗き込んでくる。

「ああ、ごめん。あまりにもラブラブで驚きすぎちゃって」

惚気話に嫌気がさして頬杖をついていたもえは、いかにも会話に参加しているていで両手のひらを卓上につけた。

すると澪は満足したように椅子に寄りかかり、かと思えば何か思いついたように口角を上げた。

「のぞみの彼氏って同学年の六組の人だよね。今度教室まで覗きに行っちゃおうかな」

「あ、それ賛成」

澪と千代がニヤニヤしながら視線を合わせて結託していると、のぞみが慌てたように身を乗り出した。

「ちょっと、彼は私の彼氏なんだからね」

のぞみのその言葉に、もえの心は、鈍器で叩き潰されるようにずしりと痛んだ。

想い人の恋心を聞かされることほどつらいものはない。

それを身をもって思い知ったもえは、相槌代わりの乾いた笑いにこっそりとため息を混ぜた。

こんな現実に直面すると、自分はもしかして幸せになることができないのだろうかと思ってしまう。

しかし、そもそも幸せとはなんなのだろうか。

それはもえにとって、男と付き合ってイチャつくようなことでは決してない。

もえにとっての幸せとは、例えばのぞみと、あるいは他の運命の女性と添い遂げることだ。

いつか来たるべきそんな日を夢見て、思い描いて、支えにして、もえはこれからも生きていくのだ。

そんなことを自身に言い聞かせていると、教室の四隅にあるアクリルバーが赤く点滅しはじめた。

教室内が赤く染まると同時に拡声器からアナウンスが流れてくる。

「気候変動Aクラス。気候変動Aクラス。三十分後に到達です。速やかに地下保護シェルターへ避難してください」

教室内の生徒たちは、慌てる様子もなく立ち上がり、手荷物をまとめはじめた。

惑星の大きな気候変動が感知された際、都市を構成しているシェルター内にも被害が及びそうな場合には、念の為地下に設置されたシェルターへと避難することになっている。

ひと月に幾度となく訪れる自然の災厄を幾度も経験し、けたたましいアラートが鳴っても生徒たちは手慣れたものだった。

もえたちも例外ではなく、無駄のない動きで机を片付け荷物をまとめる。

「あーあ、せっかく恋バナがいいところだったのに」

「彼氏の話の続き、また聞かせてよ?」

澪と千代は手を動かしながらのぞみに呼びかける。

「しょうがないなあ。いま来てる嵐が落ち着いたらね」

のぞみもまんざらでもなさそうに応える。

きっとこの気候変動がおさまったら、また教室で机を寄せて恋愛話に花を咲かせるのだろう。

そう考えるとやりきれなくなって、もえは無性に博士に会いたくなった。

博士とはもえの叔父で、もえと似ていて男性に恋する男性だ。

彼は初老の博士で、工学、物理学、哲学に長けている多趣味なひとだ。

視野の広いあのひとと会うといつも、もえはもえのままでいられるような気がする。

決めた。今日は学校のシェルターではなくて博士のシェルターに避難しよう。

無断下校にあたるが、たった一度の青春なのだ、そんな日もあっていいだろう。

避難の準備を終えてシェルターに向かおうとする友人たちに声をかける。

「みんな、ちょっと先行ってて。トイレ寄っていくから」

友人三人が振り向き、澪が不思議そうな顔をする。

「え。トイレなら地下シェルターにもあるじゃん」

「緊急事態なの。だからあとでね」

そう言うと、のぞみがもえのことをなにもかもわかっていると言うかのように笑って頷いた。

「わかった。気をつけてね、もえ」

「うん」

のぞみに微笑み返して、もえは友人たちの反対方向へと駆け出した。



「博士、こんにちは」

「やあ、いらっしゃい」

博士は、いつものように悠々ともえを出迎えてくれた。

博士の家はもともと地下シェルターとして造られていて、気候変動があっても慌てて避難する必要がない。

もえはこの地下シェルターの最上層にある居住空間にだけしか入ったことがないので詳しくは知らないが、地下何階にもわたってラボがあるらしい。

博士が応接スペースの重厚且つとてもふかふかなカウチを手で指し示した。

「さあ座ってくれ。紅茶でいいかね」

「いいですけど、どうしてこんな時にここへ来たのか聞かないんですか」

「私に会いたかったからだろう?」

「自信満々ですね、博士は」

博士は、アンティーク家具が揃えられた室内に似つかわしくない、メカニカルなハンドサイズの飲料調合機を左右に軽く振る。

「アッサムがいいかね、それともダージリン?」

「ダージリンでお願いします。というか本当に便利ですよね、それ」

もえはカウチに腰掛けながら、博士が持つ飲料調合機を見遣る。

博士は飲料調合機の上蓋を開け、水を注いだ。

「これは我ながらいい物を造ったと思うよ。君をもてなすのに非常に役立つ」

「毎度お気遣いどうもです。でもまさか、わたしへのおもてなしが特許を取ることになるとは思いませんでしたけど」

「そうだね。私の不精もこんなに素晴らしい子を生んでくれて、たくさんの人々に使ってもらえているのだから、開発者冥利に尽きるよ」

博士は飲料調合機を幾度か回すように振ると、上蓋を開けて中身を優雅にアンティークカップに注いだ。

ただの水が温かなダージリン紅茶へと姿を変えたものが、もえの目前のテーブルに置かれた。

「いただきます」

もえはカップを手に取って、紅茶をひと口飲み下した。

身体の内側がほんのりと暖まって、水中でもがいているような現実から離れてようやくひと息つけたような気がした。

博士がもえの正面に座ってあくまで自然に問いかけてくる。

「それで、今日はどうしたんだい」

「ああ……ちょっと、わからなくなって」

「何についてわからなくなったんだい?」

「うーん、幸せについてでしょうか」

「幸せか。それはいいテーマだね」

哲学士の血が騒ぐのか、博士の瞳がらんらんと輝いた。

「君にとっての幸せとはなんだい」

「……言わなきゃだめですか」

「強要はしないさ。ただ、対話を先に進めるなら教えてもらわないといけないね」

「ですよね……博士はもうなんとなく気づいてるかもしれませんけど、わたしにとっての幸せは、わたしの愛する女性と添い遂げることです」

「そうか。君らしい、実に君らしい幸せだね」

博士は、自分のぶんのコーヒーを調合してカップに注いだ。

博士がコーヒーを飲むのにつられて、もえも紅茶をまたひと口飲んだ。

その温かさが、またひとつもえの心の澱を混ぜ起こす。

「……わたし、幸せになれるのかな」

博士がカップをテーブルに置いて微笑む。

「きっとなれるさ」

博士の無責任な励ましともとれる返答に、もえは無性に反骨心を抱いた。

「そんな確証、どこにもないじゃないですか。わたしが未来でどうなってるかなんてわからないですよ」

もえが急くように言うと、博士はすっと真面目な表情になる。

「……君は君の未来を見てみたいかい?」

「え」

もえは、博士の真剣なまなざしに言い知れない説得力を感じた。

「……見られるんですか、未来を」

「ああ、私なら出来る」

あまりにも突飛な言葉に、もえは深く息を吐いた。

「いつの間にそんな研究を……」

「ちょっとした時間さえあれば、なんでもやってみたくなるものさ」

「そんなの博士だけですよ。で、どうやって見るんですか」

「説明しよう。この資料を見てほしい」

博士は手首に巻いたウェアラブル端末を起動し、ポップアップしてきたホログラムスクリーンを部屋の壁いっぱいに拡大した。

ホログラムスクリーンにはゆっくりと回転する母星アルタⅦの映像が表示されている。

「私たちが住んでいる惑星は中心核がない、いわゆるコア無し惑星だということは知っているね」

「はい」

「物質というのは引き合う性質がある。その力は大きい物体ほど強くなる。惑星の外殻同士なんてどれほどの力になるだろうね」

「さあ」

「惑星の中心部には空洞であるがゆえに物質が引き合う膨大なエネルギーが内包されているに違いない。私はそこに目をつけた」

博士がホログラムスクリーンをスライドさせると、見たことのない大きな機械が映し出された。

機械は、巨大な切削機に潜水艇をくっつけたような形をしている。

「このマシーンには惑星中心部のエネルギー活動と共振する機器を搭載している。惑星中心部のエネルギーを時空を操作するためのエネルギーへと変換し、その力によって未来を見ることができるんだ。まあ、見られるのはリビングひとつ分程の観測室に繋げられる範囲の未来だけなんだけどね」

「そんな荒唐無稽なやりかたがあるんですか」

「エレガントなやりかただと思うがね。迷惑をかけるのは風穴を開けてしまう惑星に対してだけだ」

「そういう意味ではなくて……まあいいですけど」

博士はホログラムスクリーンをピンチアウトして、マシーンの切削機の部分を拡大した。

「このマシーンの切削機能を用いて惑星の中心部まで向かう。十数分で着くよ。気候変動によって吹き荒れている風を推進力として利用するんだ。だから、行くならチャンスは今だ」

テンポのいい説明のあとで重要なことをさらりと言われて、もえは戸惑う。

「え、今ですか」

「そうだよ。行ってみるかい?」

「そんなこと、簡単には決められないですよ」

「そうか。まあ、気候変動はあと二時間は続くだろう。その間に答えを出してくれればいいよ」

博士はそう言うと、優雅にカップを持ち上げ、コーヒーを啜る。

博士ののんきな態度に、すべてを見透かされているような気がして居心地が悪くなる。

「……ずるいですよね、博士は。わたしの答えなんか決まりきってるのに」

もえは、片手を胸の前でぎゅっと握った。

「わたし、見に行きます。未来で幸せになってる自分の姿を」

もえが告げると、博士は微笑んで頷いてみせた。

「君ならそう言うだろうと思ったよ。それじゃあ、行こうか」

博士はカップをテーブルに置くとカウチから立ち上がり、本棚のほうへ歩いていく。

もえも博士のあとを追ってその背の後ろに立つと、博士は本棚に収まっている一冊の本を奥へと押し込んだ。

すると本棚が奥へと移動して横へとスライドした。

「博士はまた古典的なギミックを……」

「様式美と呼んでほしいな。使い古された王道は愛されるがゆえに美しい」

満足げな博士は隠し部屋の中へと進む。

もえも隠し部屋の中に入ってみると、狭い空間に鉄製の扉だけが佇んでいて、その側にピカピカ光っている押しボタン式のスイッチがあった。

「これ、押しちゃダメなボタンですよね」

「ああ、押したら駄目だ」

博士はそう言いながら、煌々と光るそのボタンを手のひらで思い切り押した。

鉄の扉が軋む音を立てながら開き、配線が剥き出しの武骨なエレベーターが現れた。

エレベーターに乗り込む博士に続いて、もえも足を踏み入れる。

博士がエレベーター内部のスイッチを押すと、扉が閉まって下方向へ動き出した。

時折何かにひっかかるように軋む音をたてるエレベーターにしばらく揺られていると、いきなりガコンと地に着いたような感覚が全身に伝わってきた。

エレベーターの扉がひとりでに開くと、そこは広大な発着場だった。

発着場の中心には、敷かれているレールの上に、先ほどスクリーンで見たマシーンが乗っかっていた。

もえは不本意ながらも感嘆しつつ発着場を見回した。

「地下にこんなのを隠してたんですか」

「心躍るだろう。私がいま最も興味のある研究のメインステージだ」

「もしかして、この研究って開発途中だったりしませんか」

「ああ。実証実験は今回が初めてだ」

「その被検体がわたしというわけですか」

「そういうことになるね。なに、心配はいらないさ。このマシーン……仮に時間航行マシンと呼ぼうか。これは二人乗りなんだ」

「つまり博士も来てくれるってことですね」

「当然だよ。私の研究成果と君の未来、どちらも見届けようじゃないか」

「心強いというか、なんというか……」

もえが呆れてため息をついていると、博士は時間航行マシンのハッチを回し始めた。

マシンの扉が開くと、博士が中に入ってから外へ顔だけ覗かせた。

「さあ、君も来るといい。発進は今すぐにでもできるからね」

もえは今更ながら躊躇したが、あとは博士を信じて乗り込むだけだと思い直してマシンへと歩み寄った。

もえはこれから自分の幸せな未来を見に行くのだ。

時間航行マシンに一歩踏み込みながら、もえの心は未来への期待が満ちはじめていた。

博士がコックピットの操縦席に座ったので、もえも助手席に腰掛ける。

博士はわくわくしきって少年のようにきらめく瞳で操縦板のあちこちをいじくり回している。

「機器系統問題なし、動力百十三パーセント、システムオールグリーン」

ひととおりマシンの設定を終えたらしい博士が手を止めると、普段のように落ち着きはらって話しかけてくる。

「さて。もう出発できる状態だが、心の準備はいいかい?」

「はい。わたしの未来を見せてください」

「もちろんさ。それじゃあ発進だ」

博士が身体の脇にあるレバーを引くと、マシンは軽快に前へと滑り出した。

レールの上を走っている感覚と、地中へと開いていく発着場の巨大なゲート。

これから剥き出しの土塊に向かって突進していくのかと思うと少し不安だったが、博士の技術力を信じる、というテイのいい思考停止をした。

レールも端まで来て、掘削部が土へとめり込んでいく。

掘削部は驚くほど高性能で、高速で土を掘り進んでいくのみならず、掻き出した土が邪魔にならないよう後方へ回していく。

おかげで、コックピットから見えるのは掘削部が回転しながら役割を果たしている光景だった。

マシンは順調に進んでいるようで、もえは安心した。

「このまま進めば、未来が見られるんですね」

「そうだよ。どうだい、自分の未来の姿を見に行く気分は」

「楽しみです、とても。未来のわたしはきっと幸せだから」

「おや。さっきは幸せかどうかわからないと言っていたじゃないか」

「それは相変わらずわからないです。ただ、本当に未来が見られるのなら、わたしは幸せになってるんだって無責任に思ってもいいような気がしたんです」

「そうか。それはいいことだね」

博士はかすかに嬉しそうにはにかんだ。

もえは、これから見られるという未来の自分の姿に想いを馳せて胸を高鳴らせた。

未来のもえはいったいどんなヘアスタイルで、どんなファッションで、どんなメイクで、なにをやっているのだろう。

もしかしたら運命の女性と連れ添っているかもしれない。

何よりも望むもえの幸せが果たされている未来までをも夢見てしまう。

今の自分と地続きであるはずの未来だけれど、今よりもずっといいものになっているような気がしてならない。

そうだ、今の自分よりは、どうにもならない現実に雁字搦めになっている今の自分よりはよっぽどいいはずだ。

もえはそう確信して、助手席にさらに体重をあずけた。

十数分が経った頃、時間航行マシンはゆっくりと動きを止めた。

「博士、これって」

「うん。惑星の中心に着いたね。もう立ち上がってくれて大丈夫だよ」

博士は操縦席を立ち上がると、マシンの後方にあるドアのほうへ歩いていった。

「あ、待ってください博士」

もえは慌てて助手席を立ち、博士の背へ駆け寄った。

博士はドアの横にある透明なパネルの下のボタン群を操作している。

「繋げる未来への条件設定はしておいた。あとは君の生体情報をスキャンするだけだ。そこのパネルに手のひらをかざしてくれ」

「はい……」

もえは少し緊張しながら、パネルに手をかざす。

するとパネルが横向きの光のバーがもえの手をなぞって読み取っていく。

光に照らされながら、もえは心に宿った期待が色づいてざわめいているのを感じた。

これから見られるのは、どんなに幸せで華やかな場面だろう。

今の自分よりもずっと自由で、軽やかに日々を過ごしているはずだ。

そのひと場面を垣間見られると思うだけで夢見心地になるようだった。

博士がドアのほうを手のひらで指し示す。

「さあ、未来を見てごらん」

もえはドアの前に立ち、小さく深呼吸をする。

期待に満ち溢れた手でドアノブを押し込み、ドアを開いた。



そこは、青く静かな一室だった。

深い夜空を切り取るような窓辺で、月光に照らされたカーテンがはためいている。

チェア型のベッドに誰かが横たわっている。

その横に立てられた背丈ほどの柱から、小さく規則正しい電子音が聞こえてくる。

「ここは……」

もえはおずおずとベッドに歩み寄る。

そこには、顔にたくさんの皺が刻まれている老いた女性が横になっていた。

「え……」

その女性を視認したとたん、聞こえてくる電子音がかすかに乱れ、女性の身体が引き攣るように軽く跳ねた。

そして、電子音はピーと平坦な音だけを鳴らし続けるようになった。

もえはただひたすら、生命活動を終えた女性の閉じられた瞼のあいだにある眉間のあたりをぼんやりと見つめた。

どれくらいの時間が経ったかわからないその後、もえは揺れるカーテンの衣擦れの音で我に返った。

「……これ、わたしなの? わたし、今死んだの?」

背後から足音がして、博士がもえの横に並び立った。

「そうだね。これは君の未来だ」

もえは目の前の現実に一瞬で打ちのめされて、頭の中が一気に混線した。

「なんでわたし死んでるの。未来のわたしは幸せなんじゃないの。どうして死んでるの。死んでる場合じゃないでしょ!」

もえは感情のまま両の拳を握りしめた。

「それに何? 今際の際だっていうのに誰も傍にいないじゃない。恋人は? 恋人はどうしたの」

もえの瞳はかっと熱くなり、ぼろぼろと涙がこぼれてきた。

「わたしの未来、全然幸せじゃないよ……」

次から次へと溢れてくる涙を拭いながらしゃくりあげる。

わたしは、未来でも幸せじゃなかった。

これから先、何を求めて生きていけばいいのだろう。

溶けて崩れるような絶望に飲み込まれて、潤んだ視界で足元すら見えなくなる。

「未来の君はほんとうに幸せではないのかな」

もえの絶望に似つかわしくない博士の言葉に、もえは反射的に応える。

「幸せなわけないでしょう。博士も見てたでしょ。わたしひとりぼっちで死んだんだよ」

「そうだね。ただ、果たしてその最期を不幸だと決めつけてしまえるのだろうかという話だよ」

「え……どういうこと」

博士は、ベッドの中の老いたもえを慈しむように見た。

「ここに横たわっている未来の君はこれまでにどんな経験をしてきたと思う?」

「それは……今のわたしの知るところではないです」

「そうだろうね。ここにいる未来の君は、きっと今の君が思いもよらないような経験をしてきて、たくさんの思い出を携えているのだろう」

「……未来のわたしが持っている思い出……」

「持ちきれないほど沢山の思い出を抱えて眠りについた未来の君は、不幸に見えるかい?」

もえは、再び老いたもえを見遣る。

よく見ればその表情はどこか晴れやかで、口もとは微笑んでいるかのようだった。

「……わたし、幸せそう、かもしれない」

もえの頬には、新たに温かな涙がつたって流れた。

もえの頭に、さまざまな未来のビジョンが浮かんでは消えていく。

「わたし、ずっと独りだったのかもしれない。でも、もしかしたら最愛の恋人と添い遂げて、先立たれたのかもしれない。それとも、もっと、ぜんぜん違うのかも」

何も喋らない年老いたもえの最期の安らかな顔を見て、もえは気づけば同じように微笑んでいた。

「今のわたしにはこの先何があるのかわからない。幸せになれるのかどうかもわからない。だけど、私は思いっきり生きるよ。いつか未来のわたしになれるまで」

もえはベッドに背を向けて、ドアのほうへ歩き出す。

「行こう、博士」

「もういいのかい?」

「うん」

博士とともにドアの外まで出て、最後にもう一度ベッドを見つめる。

「ゆっくりおやすみなさい、わたし。わたしもいつかきっとあなたに追いつくから」

ドアを閉めたときには、もえの瞳から涙は消え去っていた。



翌日の教室では、昨日の気候変動など意にも介していない学生たちがわいわいと昼休みを過ごしていた。

もえも例に漏れず、いつものメンバーで机を寄せ合ってランチプレートをつついていた。

「ねえ、のぞみ。昨日シェルターで彼と一緒にいたでしょ。どうだったの」

澪が好奇心丸出しでのぞみに問いかける。

「えっとー……怖くないかって抱き寄せてくれた……」

のぞみの返答に、澪と千代がかあーっと声をあげる。

「これだから初々しいカップルは!」

「テンプレートみたいなイチャつき方だな」

澪と千代は各々盛り上がっているが、もえの胸中はそれどころではない。

のぞみがどこの馬の骨ともわからない男に肩を抱かれていた。

その事実にやるせなくなって、人目もはばからず胸を押さえたくなる。

けれど、そのときふと昨日会った未来の自分の姿が頭をよぎった。

もえの人生のすべてを知っている状態で永遠に確定された未来の自分。

その穏やかな死に顔を思うと、今の自分のどうしようもない思いも、いつかはひとつの思い出に変容していくのかもしれないと思えた。

「……のぞみもそういうのにときめくの?」

もえがつぶやくように言うと、澪と千代が目をまん丸くしてもえの方を向いた。

「あれ。今日はもえが恋バナにリアクションした」

「今までノーコメントを貫いてたのに」

きょとんとした二人の表情に、もえはやけに面白くなって笑った。

「わたしって意外とウブなんだよ。身内の恋バナには耐性がなかったんだよ」

そう言うと、澪と千代、そしてのぞみまで笑い始めた。

「たしかに身内の恋バナは刺激が強いよな」

「今までうちらに色恋沙汰なんてなかったしね」

澪と千代が頷いている横で、のぞみがもえの内心を見透かしたように微笑みかけてきた。

「もえ、無理してるときの顔してる。恋愛話が苦手だったら聞かなくてもいいんだよ」

「ううん。恋愛話が無理ってわけじゃないの。ただ……」

もえは次の言葉を言い淀んで飲み込む。

「なんでもない。ほら、恋バナへの耐性つけたいからもっと話してよ、彼との話」

のぞみはもえには言えないことがあるのだと察したように小さく頷いてから、話を続ける。

「実はね、そのとき彼が気候変動が落ち着いたら丘まで星を見に行こうって言ってくれたの」

のぞみの恋愛エピソードに、澪と千代がまた沸き立った。

のぞみの彼氏との話を聞くたびに、わたしはちくちくと針で刺されるように幾度も傷つく。

けれどその傷は未来のわたしの顔の皺となって、わたしが生きた道筋を刻んでくれるのだろう。

気怠い教室の中で気怠い会話を聞きながら、もえはもえ自身の未来を想った。

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