ウィルソンの霧箱

古博かん

ウィルソンの霧箱

 目の前に、一つの実験器具が置いてある。


 手軽に身近なもので再現するならば、ドライアイスの冷却温度に耐えられる透明な容器はアクリルでも強化ガラスでも良い。底部は観察がしやすいよう黒いものを宛てがうと尚良い。


 容器の内部には、エチルアルコールをたっぷりと充満させておく。

 脱脂綿でもフェルトでもスポンジでも、アルコールがたっぷりと染み込むものなら何でも良い。


 少し待てば、ドライアイスによって底部が冷やされ、容器内部の上下に温度差が生じる。これを「温度勾配」と呼ぶ。


 注入したエチルアルコールは気化するものの、温度勾配により容器内は水分を過剰に含んだ不安定な気化状態(過飽和状態)となる層ができる。


 ここで、容器内にラドンやウラン鉱石、ユークセン石といった少量の放射線源を入れる。

 あるいは、集塵機から取り出した微量の塵芥や木灰でも良いし、極論を言うなら何も入れなくても良い。

 なぜなら、自然界には微量の放射線が常に存在しているからだ。その中には、いわゆる宇宙線も含まれる。


 そのまま観察を続ける。

 部屋は暗くし、実験器具内部に向けてだけ光源を当てると、より観察しやすい。


 すると程なく、容器内に飛行機雲のような白い線が不規則に、縦横無尽に走り始める。ひっきりなしに、瞬時に現れては消える様は、さながら線香花火が散る姿にも似ている。


 この細く小さな飛行機雲の正体は、放射線が走った飛跡。


 放射線は物質に当たると、物質を構成する原子から電子を弾き飛ばす性質がある(放射線の電離作用)。

 電子は、原子から弾き出されることで+電質を持つイオン(陽イオン)を発生させる。

 この陽イオンを核にして、過飽和状態のエチルアルコールが引き寄せられ凝結することで細かな液滴——霧となる。


 これが、容器の中に現れた飛行機雲の正体だ。


 人間の五感では察知することのできない物質の存在を可視化、証明することに成功し、のちの放射線物理学の発展に寄与、医療機器への応用にも多大な貢献をすることとなった、この至ってシンプルな構造原理を持つ実験器具を、発案者は自身の論文において「霧箱きりばこ(クラウド・チャンバー)」と称した。


 このタイプは放射線観察に特化した改良型であるため、後世「拡散霧箱」と呼び分けている。


 発案者、チャールズ・トムソン・リーズ=ウィルソン。


 イギリス、スコットランド出身の気象学者であり物理学者でもある彼が、そもそも霧箱を開発したのは「人工的に雲を作る」ためだった。

 幼少期、雲に魅せられ雲を追い求めた一人の男が、元々証明したかったのは「雲や霧が生成されるメカニズム」であった。


 拡散型に先立ち、ウィルソンは後世「膨張型」と区別される器具を使用している。


 密閉した容器に湿った空気を充満させ、容器内の空気を圧縮、その後急激に気圧を解放することで人工的に雲を発生させる実験を様々な環境下で繰り返し、容器内の水蒸気の純度を上げていった。

 このタイプの霧箱を後世では「膨張霧箱」と呼んでいる。


 その結果、ウィルソンは不純物のない水蒸気(気体)が雲ないし霧(液滴)となり凝結する際、容器内に発生したイオン(電荷原子)が核となることを突き止めた。


 これは、当時の物理学会において最も有力であった「気体は空気中に塵芥が無ければ凝結できない」という通説を覆す大発見となった。


 このイオンの可視化により、当時、すでにレントゲンによってX線は発見されていたものの、現在よりもずっと未知の物質であった放射線——特に、宇宙線を始めとする初期原子物理学の研究に、ウィルソンの霧箱は大いに役立てられた。


 彼本来の研究目的としては副産物に当たるものの、その功績が認められ、ウィルソンはノーベル物理学賞を受賞することになる。


 一九二七年、日本では昭和二年——放射線の飛跡をとらえ原子と電子の関係性を解いた霧箱の有用性が表彰されてから、宇宙線の(現時点では)最小単位であるとされる素粒子を捉えるスーパーカミオカンデの運用開始に至るまで、実はまだ、百年経っていない、ごくごく最近の出来事なのである。

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