黒い箱
黒猫夜
第1話 取材
待ち合わせ場所の喫茶店に取材源の男性が現れた時、私は本能的に帰りたい衝動に駆られた。
年のころは二十歳ほど、背丈は少し高い方だろうか。顔は少し疲れているが、どちらかと言えば整っているといってよい。着ているリクルートスーツは
「
どうして彼に危機感を感じたのか、違和感の正体を探っていると、彼は遅刻の非礼を詫びて名乗った。持っていたカバンを置くと懐から合成皮革の名刺入れを取り出す。それをいったんテーブルの上に置くとそこから名刺を取り出し、渡してくる。
「こちらこそ、申し遅れました、すいません。各務出版のKです。本日はよろしくお願いいたします」
「Kさん。こちらこそよろしくお願いいたします」
私は立ち上がって、彼の名刺を受け取り、名刺を渡した。Tさんは片手で名刺を受け取ると、ビジネスマナー通りに私の名前を確認する。彼の名刺には「A大学B学部 T ……」と所属大学、学部、氏名、フリーメールアドレス、携帯電話番号、そして、下宿らしき住所が書いてあった。こちらの眼を見て、笑顔を見せるTさんはごく普通の学生に見える。
私はTさんに奥のソファを勧めた。Tさんは頭を下げて、ソファの通路側に姿勢よく腰掛けると、私の名刺を名刺入れの上において、テーブルの私とTさんの間に置いた。私も腰掛けてTさんの名刺を前に置く。
「今日はお忙しいところをありがとうございます」
「いえ、それよりも、何かわかりましたら、よろしくお願いしますね」
私が頭を下げると、彼も頭を下げる。私が担当している『読者の奇妙な体験談』のコーナーに投稿をくれたのが彼だ。家と住所が近かったこともあり、私が直接取材を申し込むと、彼は快諾してくれた。ただその条件として、取材の過程でわかったことを教えてほしいというのが、彼の希望だった。雑誌の発売後、守秘義務に反しない範囲でなら、と、私はその条件を受け、今日がその取材の日である。
フロアスタッフを呼び、ブレンドコーヒーを2つ注文する。昼下がりの店内は静かなボサノバが流れている。客もまばらで、時折、新聞をめくる音だけが聞こえる。そのころには私の感じていた違和感もほとんどなくなっていた。
私たちのテーブルは窓際で、これが真冬であったなら、西日が眩しく彼は目を開けられないところであったろう。だが、春めきだしたこの季節においては、程よい日差しが私の右手を照らしていた。
簡単な自己紹介を済ませていると、コーヒーはすぐに届いた。Tさんに頼まれ、私は窓際の砂糖壺をとり、Tさんに渡す。Tさんはふたを置くと砂糖を1杯だけすくって入れた。お互い一口だけコーヒーをすする。私のコーヒーは冷めきっていた。
私はTさんに許可を取って、ICレコーダーのスイッチを入れた。
「では、お話の方、伺わせていただきますね」
「はい。私の出身はS県北部のU村というところなのですが……」
彼の話を聞くうち、申し訳ないが、今回の取材ははずれかな。と思い始めていた。
彼の話は、要約すると、こうだ。
Tさんは小学校高学年まで、S県のU村という地域で育った。
そこには入ってはいけない山があった。
Tさんはそこの山に入り、気が付けば黒い箱を持って下山していた。
それを知ったTさんの祖父はうろたえ、Tさんから黒い箱を取り上げると、Tさん親子を勘当すると、U村から追い出した。
正直、よくあるネット怪談である。箱はコトリバコ、祖父に追い出されたくだりは八尺様だろう。ただ、彼の眼は真剣で、冗談を言っているようでも、嘘をついているようでもなかった。それがむしろ不気味であった。
「それで、最近は、その箱をまた見るようになった、と」
興味がなくなっているのを悟られないよう、私は話を促した。
「はい。でも、Kさんと連絡を取り合うようになってからですかね。その箱が見えなくなってしまったんです」
「どうしてでしょうね。不気味ですね」
私は適当に返しつつ、この話をどう記事に起こそうか悩んでいた。友人にあらかじめ頼んで調査してもらっているU村のいわくでネタになりそうな話があればいいのだが。
「で、その箱って、どんな模様しているんですか?」
もうこれで質問は終わりにしようと思った。一刻も早く帰って、別のネタを探すか、記事をでっちあげなければならない。
「ええと、マットブラックとでもいうんでしょうか。本当に真っ黒なんです。模様も何もなく、真っ黒。そういう箱です」
「なるほど。真っ黒と。不思議ですね」
最近、話題になったあらゆる光を吸収する素材を頭に浮かべながら、これはちょっと面白いかもしれないな。と、私は思った。
「では、これぐらいですかね。ありがとうございました」
「え、ああ、そうですね。ありがとうございました」
Tさんはもう少し突っ込んだ話を聞かれるかと思っていたようだが、私は話を切り上げた。
「記事にする同意書にサインと、あと、お写真を一枚撮らせていただけますか」
「写真は記事には使いませんので」私は付け加えた。
情報提供者としてファイリングし、後日、何かあったときの保険として、1枚写真を撮っておくのが私の仕事の流儀である。もちろん、強制ではない。
「ええ、構いませんよ」
Tさんは同意書にサインすると、笑顔で答えた。
私たちは他の客が映りこまない位置に移動し、写真を撮る。喫茶店のマスターや常連とは顔なじみであり、私の行動を咎めることはない。
「コーヒー、ご馳走様でした。今日はありがとうございました」
「何かあったら、また、連絡しますね。こちらこそ、ありがとうございました」
私たちは会計を済ませ、喫茶店から出た。
私はどうして彼の話を取材しようと思ったのだろうか。と、後悔の念に駆られながら、私は事務所兼自宅へと歩き出した。日が暮れ始めていた。「今日の夕飯はどうしようか」とTさんの声が聞こえて、少し恨みがましい気持ちになった。
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