第5話 バブルの話

1987年にゼネコンに入社した。建設業は他産業に遅れて景気動向が起こると言われているが、まさにバブルの入り口の時期だったと思う。当時は「飲んでよいから働け」という感じで、酒好きの私も恩恵に授かったものの、極めて地味だったと言える。所長たちがどういう贅沢をしていたのかは知らないが、ペーペーの私たちはせいぜい一人一回5000円くらいの店に通っていた。

始まりは職人さんに誘われたことだった。最初は立ち飲みでおごってもらっていたのだが、ある時カラオケスナックに行こうということになった。当時のカラオケスナックは客席が段状になっていて、基本1組に1人ホステスがついた。曲をリクエストすると、一番下に設置されたステージで歌うというものだった。当時のホステスは着飾らない普通の女の子で、仲良くなれば自宅の電話番号も教えてくれた。かけたこともあるが、本物だったことは言うまでもない。携帯電話が無かったころのことである。カラオケ初心者の私も色々とレパートリーを増やし、気持ちよく歌った。そしてさっちゃんという女の子をひいきするようになるのだが、多分店一番の人気者だった。美人ではないが実に気さくだった。

バブルなので職人さんも羽振りがよい。ある時ボトルを入れようということになった。二人の職人さんが「俺が入れる俺が入れる」と争いになった。折衷案として店で一番高いウイスキーのボトルを折半で入れることになったのだが、当時は平和でヘネシーなどより全然廉価な酒だったような記憶がある。名前は私の名前でのキープとなった。

その後、職人2人の内1人が現場に来なくなった。当時はこういうことがよくあったのだ。しばらく稼いで現金がたまったら全国の競輪周りをして、現金を使い切ったら仕事に戻るといった感じだ。結局ギャンブルは儲からないということなのだろう。そうして彼は現場に戻ってきた。私を見た彼は、大変申し訳なさそうに私の前で謝る。仕事に穴をあけたことに対する陳謝かと思ったら、全然違った。私名義で入れたボトルを一人で飲んでしまったというのだ。笑った。

当時はキャバクラという言葉が出来たころだった。スナックという言葉が東京から消え、キャバクラと名乗った。最初のキャバクラはショーパブだったと思う。キャバレーとクラブの中間がキャバクラという立ち位置だったので、私はキャバレーというところには一回しか言ったことは無いがショーパブが近いと思う。今ではいろいろなところがキャバクラと名乗っていて業態も千差万別になってしまった。

そんな庶民の時代に、上司に高級ステーキをご馳走になったことがあった。当時所長は天皇陛下で、我々と顔を合わせるのは月に一回であった。実務は副所長以下で行うのだが、次席の副所長と3席が近隣対応に行っていたことがあった。クレーム対応である。夕方皆帰っていくが、無人にして施錠するわけにもいかず私が残っていた。しばらくして二人は事務所に戻ってくるのだが、大変機嫌が悪い。内容は知らないが、こちらの納得のいかない内容でこっぴどく絞られたのだろう。その時副所長が「お前留守番してくれたのか、飯でも行こう」ということで新宿のステーキ屋に連れて行ってもらった。

ステーキ屋に行くのは初めてである。焼き加減はと聞かれて、良く焼いてくださいと答えた。それ以外に回答の仕方を知らなかったのである。そうするとお店の方が「ステーキはお好きではないですか」と聞く。「好きだけれど(実は食べたことは無い)…」と答えるとだまされたと思ってミディアムを食べてみなさいと言われた。結果、実においしかった。ビール2杯とステーキにガーリックライスだったか、一人分で3万円位だったのを覚えている。さすがにバブルだと思うが、私のバブルはこの一件だけだ。

当社に限らず、建設業のご年配の方には糖尿病の方が多い。察するにバブル期に贅沢をし過ぎた結果だと思う。上司に贔屓されなかった私は贅沢をしなかった(できなかった)ので、糖尿病を回避したのだと思う。何事も行き過ぎは厳禁という教訓だ。

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