第29話 侯爵様の誕生日
ここのところのリディアは、とても忙しそうだった。
頻繁にエルロード邸に通っていて、帰ってくるのは遅い時間だった。
疲れて帰ってきているように見えるのに、その後さらに、ルイスと文字の勉強をしているようだ。
さすがに休ませてはどうか、と一度ルイスに提案してみたのだが、リディアの頼みだから、と珍しくルイスは首を縦にふらなかった。
指先には毎日少しずつ怪我が増えている、叔母上に何か教わっているのかもしれないが、心配だ。
そんなに根を詰めて一気にやらずとも、ゆっくりやればいいものを。
「今日もエルロード邸へ?」
「はいっ、その、今ママに教わっているのがおもしろくて……もうちょっとだけ、通うと思います」
「そうか、あまり無理はするなよ」
「はいっ!」
リディアは元気よく返事をすると、そのまま朝食のパンへとかぶりついた。
いつもながら本当においしそうに食べるな、とは思うがその表情にも少し疲れが見えるような気がする。
叔母上にしろ、ルイスにしろ、リディアに無理はさせないだろうとは思うが、心配だった。
***
ジーク様がすごく心配してくださっているのは、気づいている。
でも、時間があまりないのだ、さすがに今は無理せずに、なんて言ってられない。
今回はのんびり単語を教わっている暇がなかったため、ルイスさんと一緒におじ様に送りたい文章を考え、それをルイスさんにお手本として書いてもらった。
丁寧に書き写したつもりが、一気にやると間違いが多くて、ちょっとずつ、ちょっとずつ書き写すことにした。
それでも、今日にはなんとか仕上がって、お手紙を出してもらえるだろう。
ルイスさんも今日出せば、なんとか間に合うだろう、とおっしゃっていた。
そして、もう1つ並行で進めているのが、ママに相談して決めた、ジーク様へのプレゼントの準備。
こちらもなかなか進捗がよくなくて、毎日ママに付き合ってもらいながら、必死にがんばっているところ、なのだけど……
「うぅ……っ、また失敗……」
積みあがっていく失敗作たちを見て、私はちょうど頭を抱えたくなってしまっていた。
「あら、でも1つ前のものより、上達してるわよ?」
「本当?」
「ええ。だから、ほら、もう一度がんばりましょう?」
そう言うと、ママは新しいハンカチをくれた。
私が今、やろうとしているのは、ハンカチへの刺繍である。
当然ながら不器用な私が、ママがこの前くれたような素敵な刺繍ができるわけもなく。
そんな私にママが提案してくれたのが、ジーク様のイニシャルの刺繍だった。
アルファベットたった2つだけ、それならば、とママに教わりながら頑張っているのに、そのたった2つがとても大変だった。
何度刺繍しても刺繍しても、どこか歪んだアルファベットにしかならない。
パパとママが用意してくれた、上質で手触りのよいハンカチが、また一つまた一つと失敗作に加わってしまう。
それでも、失敗を重ねるごとに、少しずつきれいな形に近づいている、とママは言ってくれたのだけれど。
果たしてジーク様の誕生日までに間に合うのか、今のところ不安しかない状態だ。
「いたっ」
ぷすっと針が指に刺さった。
「あらあら、みせて」
血が出た指に、ママが絆創膏を貼ってくれる。
こんなやり取りも、もう何度目だろう。
私、本当に、上達できているのだろうか……
「大丈夫よ、リディア。ママだって、最初からできたわけじゃないわ」
ね?と励ますように、ママが頭を撫でてくれる。
止まって、悩んでいられるような時間はない、私は再びハンカチと格闘した。
「できた……っ!!」
それはもう、ジーク様のお誕生日を、翌日に控えた日のことだった。
焦ってはダメだというママの一言に従い、ゆっくりゆっくり針を進めて、ようやくなんとかアルファベットに見える刺繍ができあがった。
これでも、とても上手にできた、とは言えないかもしれないが、今の私の精一杯の刺繍である。
「ええ、これなら、大丈夫ね」
ママのお墨付きもなんとかもらえたみたいだ。
「よくがんばったわね、リディア。ちょうどいいわ、遅くなったから、今日は泊まっていきなさい?」
そう言われて外を見れば、真っ暗だった。
今日がラスト、と思っていたからとにかく必死で、時間を気にすることを忘れてしまっていた。
しかし、何がちょうどいいのだろう……
「明日はママが、しっかりおめかししてあげるわ。だから私たちと一緒に、ジークのお祝いに行きましょう?」
それも、悪くないかもしれない。
ミアさんも含め、お邸の皆さんはパーティーの準備に忙しいだろう。
私はなんとかプレゼントも準備できたし、おじ様にもお手紙はちゃんと届いた上に、必ず行くという心強い返事ももらえた。
明日はプレゼントを渡して、お祝いするだけである。
「うん、明日はパパとママとお祝いに行く!」
「じゃあ、ジークのところに使いを出してくるわ」
ママがそう言って、立ち去って、あらためて失敗作の山を見る。
きっとお高いハンカチなのに、こんなにたくさんダメにしてしまったなんて、申し訳ない。
1枚手に取ると、ふわふわで手触りがよくて、きもちいい。
刺繍糸を上手くはずせたら、普通のハンカチとして使えるだろうか。
でも、私がやると、ハンカチに穴があいてしまいそうだから、後でママに相談してみないと、そう考えているとサッと持っていたハンカチを奪われる。
「ママっ」
「大丈夫よリディア、これはこれで、ちゃんと有効活用する方法を考えているから」
「本当?」
「ええ、だからまずは、パパと一緒に食事して、それからこれをラッピングしちゃいましょう」
これ、とママが見せているのは、先ほどようやく完成したハンカチだった。
確かに、そのままお渡しするのは見栄えがよくないかも、と思う。
いろいろ考えてくれているようで、ママに相談して本当によかった、とそう思った。
***
「「「お誕生日おめでとうございます、旦那様」」」
使用人たちからそう声をかけられ、プレゼントを渡され、ああ今年も誕生日が来たのかと実感をした。
派手なパーティーを好まない俺のために、使用人たちが毎年ささやかに用意する小さなパーティー。
その日の仕事量はルイスに上手く調整され、俺の好物の料理ばかりがテーブルに並ぶ。
1日中祝われながら、ただただのんびりと過ごすその日は、決して嫌いではない。
しかし、今年はついリディアの姿を探し、そういえば今日に限っていなかったな、と少し残念な気持ちになった。
遅くなってしまったから泊まる、と連絡が来たのは、ちょうど暗くなっても戻らないリディアを心配しはじめた頃のことだった。
たまにはそれも悪くないだろうと昨日は思っていたのだが、今日が誕生日とわかっていれば泊まらせなかったかもしれないのに、などと思ってしまう自分がいる。
リディアはおそらく、俺の誕生日など知らないはずだ。
けれど、こうしてお祝いの場にいれば、きっと使用人たちとともに祝いの言葉くらいはくれただろう。
だが、叔母上たちは毎年わざわざ俺の誕生日を祝いに来てくれている、おそらくは祝いに来ない父上の代わりも兼ねて。
だから、もしかしたら、今年はリディアと3人で来るかもしれない、そんな淡い期待も少しだけある。
「やあジーク、お誕生日おめでとう」
「ちち、うえ……?」
最初に現れた来客は、淡い期待どころか、来るかもしれないと予想さえできなかった人物だった。
先日もここへ来たのだから、もう領地へ引きこもることは止めたのかもしれないが、それにしたってわざわざ俺の誕生日に訪れるとは意外だった。
「おや?リディアはいないのかな?」
父上も真っ先に探すのは、リディアの姿のようだ。
「昨日から叔母上のところに泊まっているのです」
「なるほどなるほど」
なぜか父上は、俺の言葉に意味ありげな笑みを見せる。
「寂しいのかな?」
「…っ!?そんなことは言ってません!」
つい声を荒げてしまう、だがそれが自分で図星だと明かしているような気がしていたたまれない。
顔を背け並べられた料理にでも逃げてしまおう、そう思った矢先、視界の端にふわりと揺れるハニーブロンドが見えた。
「ジーク様っ!!」
幻かと思ったが、続いて聞こえた声が現実であると教えてくれる。
一目散へ俺へと駆けてくるリディアの後方に、にやにやと笑っている叔母上と叔父上の姿がある。
「ジーク様っ、お誕生日おめでとうございますっ!!」
俺の目の前までやってきたリディアが、満面の笑みを浮かべてそう言った。
誕生日をそこまで特別に思うことも、祝われたいと強く願ったことも今まではなかったはずなのに、その一言は何よりも自分が欲していたものを、ようやく得られたかのような感覚をもたらした。
「ふふ、私の最高傑作よ、かわいいでしょう?」
「ジーク君にとって、一番のプレゼント、になるんじゃないかなぁ」
後からやってきた叔母上と叔父上に、気づけば左右をがっちりと固められていた。
騎士がここまで距離を詰められるまで気づかないとは、あまりにも情けない。
うちの娘は世界一かわいいだろう、としきりに叔母上たちが左右からアピールを重ねてきて、逃げ場がない。
そんな俺を正面から見上げるリディアは、髪型も雰囲気もいつもと違う、叔母上が着飾らせただろうその姿は、たしかにかわいらしいものだった。
「おじ様、いらしてくださったんですね、ありがとうございますっ!」
「他でもない、リディアのお願いだったからね」
「みんなでジーク様のお祝いができて、とっても嬉しいです」
父上とリディアの会話から、父上が今日ここに来たのはリディアに呼ばれたからだと察する。
リディアは事前に俺の誕生日を知って、父上を招いたということか。
しかも、まだ手紙なんてきちんと書けなかったはずである、だからルイスとあれほど……
「リディア、ほらっ」
「あ!そうだった!ジーク様、これプレゼントです、貰っていただけますか?」
叔母上に促され、リディアが小さな包みを差し出した。
祝いの言葉を貰い、さらに俺のために父上に慣れない手紙まで出して、もう十分すぎるものを貰った気がしたのだが。
叔母上によるものだろうか、今日のリディアの髪に巻かれたリボンと同じ色のリボンが、包みにも巻かれてあった。
「包装も、リディアががんばったんだよ」
耳元で、叔父上がそっと囁いた。
そんなことを言われてしまえば、もったいなくて開けられないではないか。
叔父上の言葉に、そんなことを思いながら、俺は差し出された包みを受け取った。
「ありがとう」
そう言うと、やはり、リディアの方が嬉しそうに笑った。
***
受け取ってもらえた、それだけで今までの努力が報われたような気がした。
まだ、開けられていないから、中身は知られていない。
もしかしたら、中身を見てがっかりさせてしまうかもしれないけれど、昨日ママと一緒にがんばってリボンをかけた包みが、ちゃんとジーク様の手に渡ったという事実だけで、本当に嬉しかった。
「リディアは、何を用意したんだい?」
「えっと、たいしたものではないんですが……そ、それよりおじ様は?」
「うん?私かい?私は事前に届くようにしておいたんだが……」
なんだか恥ずかしくなってしまって、誤魔化すようにおじ様に質問を返してしまった。
すると、先に送ったらしいおじ様はきょろきょろと辺りを見渡している。
「私たちのプレゼントも、さっき執事に預けたのよ。きっとお兄様のも、同じところにあるのではないかしら?」
みんな、せっかくこうして来たのに、プレゼントは手渡しでは渡さないみたいだ。
もしかして、私が直接お渡ししたのマナー違反とかで、ジーク様を困らせていたりするのだろうか。
いや、でもママが直接渡すように言ってくれたのだから、きっと大丈夫なはず。
そんなことをぐるぐる考えていると、がしっと腕を捕まれた。
「リディア?」
「へ?」
慌てて顔をあげると、腕を掴んだのはジーク様だった。
ママもパパもおじ様も、覗き込むようにこっちを見ている。
「あっちの部屋にジーク宛てのプレゼントが全てあるんですって、だから見に行ってみましょうって声をかけていたのに」
「あ、ごめんなさい、ママ」
「ぼーっとしていたようだが、気分でも悪くなかったか?」
「いえ、そういうわけではないんです、ちょっと考え事してて……」
「ならいいが」
大切なお誕生日に、主役であるジーク様を心配させてしまったみたいだ。
「ほら、見に行きましょう!」
「きっと、たくさんプレゼントが届いているよ」
ママとパパが楽しそうにそう誘ってくれるけど、ジーク様のプレゼントをそんな気軽に私たちが見に行っていいものなんだろうか。
私は伺うように、ジーク様を見上げる。
「どうした?」
「私たちが見ても、大丈夫なんでしょうか?」
「別に隠すようなものでもないし、かまわない」
そう言うと、ジーク様は私に手を差し出してくれる。
反対側の手には、しっかりと私が渡したプレゼントを持ってくれているのを見て、嬉しくなる。
一緒に見に行こう、と誘ってもらえたような気がして、私はドキドキしながら自分の手を重ねた。
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