第17話 ホンモノとニセモノ
ミアさんは、すぐに氷をタオルに包んで持ってきてくれた。
いつも、どんなときも、私を最優先に考えてお世話をしてくれている気がする。
お嬢様、と呼ばれて差し出されたそのタオルを、私は受け取る気になれなかった。
だって、私は本当のお嬢様ではない。
本物のお嬢様が目の前で見ている。
私はそんな風に、お世話をしてもらえる資格がないような気がして、思わず後ずさってしまった。
すると、侯爵様がミアさんからタオルを受け取って、私の頬にあててくれた。
冷たくて、とても気持ちがよくて、痛みがスッと引いていくような気がした。
でも、ずっと侯爵様に持たせておくわけにはいかないので、私はおそるおそるタオルに手をあてて自分で支える。
すると、侯爵様の手がタオルからゆっくりと離れていった。
それから、侯爵様は本物のお嬢様の方を振り返る。
「ラルセン伯爵令嬢、これはいったいどういうことだ?」
今までに感じたこともないような恐ろしい怒りを含んだ、侯爵様のとてもとても低い声が聞こえた。
「わ、わたくしは、ただ……」
さっきまで凛としていたお嬢様は言葉を震わせている。
ちがう、お嬢様じゃなくて、その怒りが向けられるべきは、きっと私なのだ。
私はそっと侯爵様の服の袖を掴んだ。
「どうした?」
「ちがうんです、わたしが……」
「そ、そうですわ!その小娘が、わたくしに生意気な態度を取るからいけないのですわ!わたくしはただ、伯爵家の令嬢として…………ひぃっ」
侯爵様は何も言わない、けれどものすごく怒気を感じる。
それはきっと、お嬢様も同じだったのだろう、小さく悲鳴をあげて一歩後ずさった。
「ごめんなさい、わたし……」
「おまえに対して怒ってるわけではない、だからそんなに怯えなくていい」
「ちがう、ちがうんです……」
私のせいで侯爵様が悪く言われて、私のせいで侯爵様にご迷惑がかかってしまう。
ニセモノの私を、侯爵様がここに置いてくれたから。
「泣くな、おまえを泣かせたいわけではない」
そう言われて、私はいつの間にか涙を流していたことに気づく。
侯爵様がハンカチを出して、涙を拭いてくれている。
早く止めないと、ますますご迷惑がかかってしまう、そう思うのに止まってくれない。
「困ったな……」
ああ、どうしよう、困らせてしまっている。
侯爵様の言葉に、びくびくしてしまう。
でも、早く早くと思えば思うほど、涙が止まってくれない。
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
「謝らなくていい、おまえは何も悪くない」
すごく怒っていらっしゃるはずなのに、私がたくさん困らせているはずなのに、侯爵様が私に向ける言葉はどこまでも優しいものだった。
***
リディアは涙を流しながら、首を必死に左右にふっている。
おまえは悪くないという俺の言葉を、どうしても否定したいらしい。
頬にあてていたはずの氷を包んだタオルは、いつの間にかリディアの手とともに下がり、リディアの頬を冷やしてはいなかった。
赤く腫れたままの頬が痛々しい。
「だ、騙されていらっしゃるんですわ、その小娘に……っ!!」
先ほど睨みをきかせて黙らせたはずの伯爵令嬢が、また喋り出した。
俺がリディアに構っている間に、先ほどの恐怖心を忘れてしまったようだ。
何とも愚かな……
「ルイス、いるか」
「はい、こちらに」
呼べばすぐに現れた。
騒ぎを聞きつけ、待機していたのだろう。
「その女をつまみ出せ、手段は問わない」
「かしこまりました」
「お、お待ちください、わたくしは……っ!」
何か言おうとする伯爵令嬢を、数人の使用人が取り囲んだ。
抗おうと必死なようだが、まぁ無理だろう。
それなりの訓練を積んである執事たちばかりだ。
「は、放しなさいっ!!」
「ラルセン伯爵家には、後ほど正式に抗議をさせてもらう」
もはや睨みつけることも面倒になって、伯爵令嬢の方を振り返ることもやめた。
どうせこれ以上話していたところで、この令嬢からはろくなことが聞けないだろうし、反省しリディアに謝罪することも期待できないだろう。
今も使用人たちに引きずられながら、何かわめいているようだが、ろくな内容ではなさそうだ。
何があったかは数人のメイドが見ていたようだし、あとで聞けば済む。
今はそれより、リディアを落ち着かせたい。
「ちゃんと冷やしていろ」
リディアの手を取り、タオルを腫れている頬にあてさせる。
それからとりあえず移動しようと手を引いてみたが、足取りが重そうだったので、抱き上げて移動することにした。
おそらくリディアは、俺が部屋へ連れていくと思ったのであろう。
リディアの部屋を通り過ぎ、俺の部屋に連れてきた事に驚いている。
だが、驚きが勝ったおかげか、涙はしっかり止まったようだ。
ソファに座らせると、所在なさげに目をきょろきょろとさせている。
俺は救急箱を取り出し、それを持ってリディアの隣に座った。
「とりあえず、手当てをしよう」
「え、あ……自分で、やります……」
「見えないとやりにくいだろう。いいから任せておけ」
これでも手当ては慣れている、と伝えるとリディアはおとなしくなった。
なるべく痛まないよう、気をつけながら湿布を貼ってやる。
「これでいいだろう」
「ありがとう、ございます……迷惑かけて、ごめんなさい……」
「迷惑ではない」
俺はくしゃっとリディアの頭を撫でる。
「悪いのは向こうだ。おまえはただ、叩かれただけの被害者だろう」
迷惑をかけた、というならこの元凶を作った伯爵令嬢だ。
突然現れ、妻にしろと言い出し、あげくの果てにリディアに平手打ちまでして。
それなのに、あちらはまるでリディアが悪いかのような騒ぎっぷりだ。
呆れて物も言えない。
「でも、私が、怒らせてしまったから……」
「どうせ、向こうが勝手に気分を害しただけだろう。そもそも、俺に結婚を断られた時点で、不機嫌だったしな」
「けっこん……?」
結婚を知らないのか?
リディアのいた世界では、まさか存在しないのだろうか。
今まで会話の中で結婚という言葉を使ったかどうか、思い返してみてもよくわからない。
だが、父親と母親がいたようだし、両親はやはり結婚をしていたのではないだろうか。
なぜか理解していなさそうなリディアを不思議に思いつつも、俺は救急箱を片づけに立ち上がる。
そして救急箱を片づけ、ふとある事を思いついて準備をはじめた時だった。
「えええええ!?結婚!?」
ようやく、結婚を理解したらしい。
随分と時間を要したな……
「そんな大切な方、あんな風に帰してしまって……」
「断ったと言っているだろう」
どうもぼんやりとしているせいか、理解が遅いようだ。
結婚の申し込みを断っただけでしかない相手の、どこが大切な人だと思ったのか。
「で、でも、結婚のお話なんて、よほど仲の良い方としかしないのでは?」
「残念ながら、あの伯爵令嬢とは今日が初対面だ」
もしかしたら、どこかのパーティーですれ違っていた可能性も否定はできないが、まともに会話したことはないはずだ。
「え!?初対面で、結婚のお話をするのですか?」
「貴族の間では、そう珍しい話でもない。家格のつり合いが取れて、両家にメリットがあれば、本人の意思に関係なく婚約や結婚をすることもある」
「そう、なんですか……」
リディアには、どうやら馴染みのない話らしい。
ただ、そういう結婚もあれば、もちろん双方の意思を尊重した結婚もある。
とはいえ、ある程度は家格のつり合いが取れていることは、前提にはなるだろうが。
「侯爵様も、初対面の方とご結婚するんですか?」
「どうだろうな。人となりはそれなりにわかっている相手がいい、とは思っているが」
結婚自体、まだあまり考えてはいないため、正直その時を迎えてみないことにはわからないが。
よほどのことがない限りは、家のためだけの結婚、ということはないだろう。
「私がいた世界では、とっても大好きな人同士が、ずっと一緒に幸せでいられるようにするのが結婚だったんです」
「そうか、だからおまえもそうしたいと?」
だから、貴族同士の結婚があまり好ましく聞こえないとか、そういう話だろうと思った。
貴族であっても、そういう考えのものもいないわけではないから、リディアがそう考えても無理はない。
「いえ、だから、その……侯爵様のご結婚も、そういう幸せなものだったらいいなぁと」
お家のためだけだと、寂しいから、とリディアは小さく呟いた。
まさか爵位を継いで当主という立場にいる俺の結婚に対して、そのように言うとは驚きだった。
もちろん、好きな相手と結婚できるのが一番いいとは誰しも思っているものの、それだけではままならない事も、貴族であれば当然理解しているのだから。
俺の結婚であれば、多くの人間が最優先で考慮すべきは、侯爵夫人という立場に相応しい人間かどうか、だと言うだろう。
「まさか結婚について、心配されるとはな」
「あ、いえ、決してそのようなつもりではなく……」
「別に不快に思ったわけではない」
俺はそう言いながら、準備したものを持ってリディアの隣へと戻る。
そして、それをリディアに差し出した。
「これは……?」
「ホットチョコレートという飲み物だそうだ」
「これも、チョコレート……」
リディアは不思議そうに、まじまじと俺が渡したカップを眺めている。
「たまたま見つけて、取り寄せてみたんだ」
リディアは当初、菓子はチョコレート、またはチョコレート味のものを好んでよく食べたため、そういったものを自然と調べて取り寄せたり、シェフに作らせたりしていた。
このホットチョコレートについても、その過程で見つけたものである。
本来はチョコを刻んで溶かして作る手間のかかるものらしいが、これは温めたミルクかお湯を注ぐだけで作れるようにしてあるお手軽品らしい。
甘ったるい匂いだけで、俺はすっかり飲む気が失せたが、リディアは好きかもしれないと思ったのだ。
「本当はミルクを使って作る方がいいらしいんだが、この部屋にはさすがにないからお湯で作ったが」
「お湯、はあったんですか?というか、侯爵様がこれを?」
「ああ、水は常に常備してある。水の温度を魔力であげれば、お湯くらいは簡単に作れるからな」
「すごい」
難しい魔法ではないはずだが、リディアはそういう魔法は使わないようだ。
「好みではなかったか?なら、無理はしなくていい」
「いえ、おいしいです、とても……」
リディアは一口飲んだが、どうも表情がさえない。
どこか雲った表情は、とてもおいしそうに見えない。
だが、おいしい、と言ってさらにもう一口、二口と飲んでいく。
表情と、言葉、行動がどうもあっていない。
数口飲んで、リディアはようやくカップを置いた。
やはり、口にはあわなったかもしれない、そう思っていたのだが。
「侯爵様、私をここで働かせてください」
普段のリディアは非常にわかりやすいと思っていたが、何がどうなってそんな事を言い出したか、さすがにこればかりはさっぱりわからない。
「それについては、以前話がついているはずだ」
働かせる気など、全くない。
ただでさえ小さい上に、疲れやすい身体だということまでわかった。
そんな無理をする必要はない、邸の人手も十分に足りている。
「でもっ、私、ここに居たいんですっ!」
なぜかわからないが、どうもリディアの中で、ここには居られないような話になっているようだ。
今日のリディアは本当にわからない。
だが、こんな風に自らの希望をまっすぐ伝えて来るのは、非常に珍しい。
普段はちょっとした希望を言わせることも、なかなか大変だったりするのだから。
そんなリディアが両手を震わせ、今にも泣きそうな表情で、こんなにも必死に望んでいることが、この邸にいることだというのは悪い気はしない、しないのだが……
「なぜ、そんなに切羽詰まっているんだ?働かないと、俺に追い出されるとでも、思っているのか?」
そんな気は全くない、そもそもこの家にいるように最初に提案したのも、働かないように言ったのも俺なのだから。
本人が嫌がらない限りは、ここから追い出すつもりなど微塵もないのだが。
「私が働かないと、侯爵様が悪く言われてしまいます。私はニセモノだから……」
「何の話だ?」
全くもって話が見えない。
だが、リディアはとても真剣なようだ。
「ニセモノとはどういうことだ?」
俺がどこかで悪く言われていようが、正直なところどうでもいい。
今までも立場上、ある事ない事、好き勝手に言われてきている。
だが、リディアがニセモノだというのは、何のことだかわからないが非常に気になる。
「私には、この世界で家名も爵位も何もないですから……」
ああ、さっきの伯爵令嬢か。
ようやく合点がいった。
まさか、リディアにそんなことまで問いただしていたとは。
「あの伯爵令嬢の言葉なら、全て忘れろ。気にする必要はない」
「ですが、それでは侯爵様が……」
「俺は気にしていない、だからおまえも気にするな」
「でも……っ」
リディアはぎゅっとスカートを握りしめ、とうとう泣きだしてしまった。
やっと涙が止まったばっかりだったというのに、本当に忙しいやつだ。
不思議と、不快に感じるわけではなかった。
貴族令嬢の涙を見ると、それはそれで面倒で鬱陶しいと思ったものだが。
しかしながら、ずっと泣かせているのもさすがにかわいそうである。
「ごめんなさい、泣くつもりじゃなくて……っ、侯爵様に迷惑かけてるのも、困らせてるのも、わかってるのに……」
「迷惑だとは思っていない」
泣き止ませる方法を思いつかなくて、困っているのは残念ながら否定できないけれど。
「今のままでは、嫌か?」
そう問えば、リディアは泣きながら必死に首を左右にふった。
「なら、いいじゃないか。あんな令嬢の言葉は、もう気にするな。この邸の誰も、おまえがニセモノかホンモノかなんて気にしていない」
泣いているリディアは、見た目通りの幼い少女にしか見えない。
ついつい幼い子をあやすように、頭や背中を叩いてしまう。
「でも、皆さんを騙しているようなものなのに、私ばっかり甘えてて、幸せで……」
申し訳ない、とリディアが小さく小さく呟く。
「俺だって使用人に全てを明かしているわけではない、使用人たちもそれは同じだ。だから、誰も、おまえが騙しているとは思っていない。皆、そういうものだと理解して仕事している。それに、事実を隠しているのは俺の指示によるものだ。おまえのせいではない」
だから何も心配ない、大丈夫だ、と伝わるように、何度もリディアの頭を撫でた。
早く、泣き止んでもらえることを祈って。
しかしながら、そう上手くはいかないようだ。
「異世界から来たという事実は、おそらく広まっていい事は何一つない。だから今後も簡単には明かせないだろう」
リディアは好奇の目にさらされるだろう。
それだけではなく、珍しい存在だからと手に入れようとするものまで現れるかもしれない。
そうなれば、リディアの安全を保証できなくなる可能性も高い。
邸で働く者たちが、不必要に話を広めると疑っているわけではないが、事実を知るものは少ない方が安全である。
また、そういった秘密を知っていることにより、邸で働く者たちにも危険が及ぶことだってあるのだ。
「それでも、幸せだと思ってくれているなら何よりだ」
俺がそう言うと、なぜかリディアは泣き止むどころか、より一層、涙が止まらなくなってしまったようだ。
結局、リディアは泣き疲れて眠ってしまうまで、涙を流し続けていた。
「お嬢様、眠ってしまわれたのですね」
俺の膝に頭を置いた状態ですっかり眠り込んでいるリディアを見て、ルイスがそっとブランケットをかける。
「ああ、すまない、あとでリディアの部屋に運ぼうと思ってはいたんだが」
「魘されてはいらっしゃいませんでした?」
「いや、さっき、ちょっとな……」
だから、今は魔法で眠らせている状態だ、というのは言わなくてもルイスには伝わったようだ。
今も夜は、毎日俺が魔法で眠らせているというのを、ルイスは知っている。
「私がお部屋へお連れしましょうか?」
魔法で眠らせているのなら、簡単には起きない。
動かしても問題ない、と思ったのだろう。
「いや、いい。もう少ししたら、俺が連れて行く」
「かしこまりました」
そう言うとルイスは俺に茶を入れ、そして先ほどのホットチョコレートの残りに気づいたようだ。
「こちらは、旦那様が……?」
「ああ、だが、あまり口にはあわなかったようだ」
おいしい、とは言っていたけれど、表情はさえず、結局数口飲んで終わってしまった。
チョコレートならなんでも、とはいかなかったようだ。
「意外ですね、お嬢様なら喜んでお飲みになりそうなのに……」
確かにな、過去には温かいだけでおいしいとまで言っていたくらいだ。
だが、こうして好き嫌いが出てくるのも、悪いことではないだろう。
なんでもおいしいと言う必要もない。
無理せず好きではない、と言えるようになればいいのだが、そう思いながらリディアの髪をそっとなでる。
「家名と、爵位か……」
「お嬢様のですか?」
つい、呟いてしまっていたことに、ルイスの問いかけで気づく。
「いや、まぁ……」
隠しても、無駄だろうな。
リディアにせめて堂々と名乗れる家名や実家の爵位があれば、とふと考えてしまったのだ。
最初に思いついたのは、皇太子であるアレクに頼んで、適当な途絶えた貴族の系譜の最後にでもしれっと付け加えて貰うことだ。
アレクなら、快く応じてくれそうな気もするが、結局今はない貴族の家系だし、どことなく後ろ盾とするには弱い気がした。
それでも無いよりずっといいだろうが、せっかくなら……と考えて、あることが浮かぶ。
「ルイス、手紙を書くから、封筒と便箋を持ってきてくれ」
ついでにラルセン伯爵家への抗議文も、嫌味たっぷりに書いてやろう。
そう思いながら、俺はすぐに取りに行ったルイスを見送った。
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