ライムグリーンのある風景

「あれ? おまえ、今日は乗ってこなかったのか?」


 病院の職員入り口で遭遇した蓼原先生が、不思議そうに俺を見る。


「…お言葉ですが蓼原先生。今日は蓼原先生の歓迎会ですけど。」


 酒を飲む前提なのに、バイクに乗ってくるわけがない。飲酒運転で捕まれば、それはすなわち俺の放射線技師としての命が終わるってことだ。医療業界の免許って結構厳しい。飲酒運転で捕まれば、それだけで資格が剥奪される。だから、飲むときは乗らない。これ基本。


「そうだな。」


 なのに、そう返事した当の蓼原先生は、ライダージャケットに、メットを持って真顔でいる。


「バイク、どうする気ですか。」


 呆れてため息をつけば、蓼原先生が首をかしげる。


「乗って帰るだろ。」

「あの、そう言う話するのは誰もいそうにない二人きりの空間でしてくださいね。私は楽しいんですけど、他の人に聞かれちゃいますよ。」


 俺らの会話に割り込んできたのは、葉山だった。これまたものすごく真面目な顔で。いらんところばっかりかいつまむな! 乗るってお前が思ってるやつじゃ絶対ないから!


「葉山、それ完全なる勘違いだから。」

「やだ木下。否定しなくていいから。私は大丈夫よ。」

「そうだな。木下、この話はまた後で。」


 は? とあっけに取られる俺の横で、葉山が勢いよく両手を組んだ。


「蓼原先生! 私は2人のこと応援してますから!」

「ありがとう。」


 蓼原先生は本当に葉山が言ってること理解してるのかよ、と言いたくなるような爽やかな笑顔でお礼を言った。

 いや、間違ってるから!


「葉山、誤解すんなって!」

「木下。…そんなこと言ったら、蓼原先生が哀しむよ。」


 ものすごーく真剣な顔してるんですけど、この人。マジで俺らがそう言う関係だと信じ込んでる! 迷惑な!


「ほら、蓼原先生哀しそう! 木下、いい? まだ始業時間には1時間もあるし、私が掃除はあんたの分までやってあげるから、人目につかない方法で蓼原先生を慰めるのよ!」


 葉山は蓼原先生にぺこりとお辞儀をすると、俺らを置いて更衣室に向かっていく。

 葉山が離れると、とたんに蓼原先生がクククと笑い出す。


「笑い出すくらいなら、葉山の誤解を更に深めるの辞めてくださいよ!」

「ほら、人目につかない方法で俺を慰めて見ろよ。」


 ニヤリと笑うその顔が、ものすごく憎たらしい。


「何であんな葉山の勘違いに乗ってやるんですか!」

「いや、変な女に付きまとわれなくて済むなって思ったんだよな。それでもいいって女もいるけど、大抵はそれだけで恋愛対象外にするだろ。今はさ、お前とツーリングする方が楽しいし?」


 確かに2度ほどツーリングはしたけど! 蓼原先生が来た初日とその次の日曜日に。


「…いや、蓼原先生、俺のせいで婚活上手くいかなくなったって嘆いてましたよね。」


 再会した初日、俺はそう言って蓼原先生に腕をつかまれたはずだ。


「何て言うか、医者狙いの女はもういいかなーって。」

「…いや、それとこれとは別問題でしょ。蓼原先生は別にいいかもしれないですけど、俺はこの噂のせいで、狙ってたナースに避けられるようになったんですよ!」


 あの後、葉山とそれ以外の人間の口からまことしやかにささやかれた俺と蓼原先生の怪しい関係は、ひそやかに病院内に広がった…。

 この哀しみ、この絶望、モテモテの蓼原先生にわかるか?! 俺は身長でハンデがあるんだからな!


「そんな噂で避けるような女、どうでもいいだろ。本質が分からないってことなんだから。」


 いや、そうかもしれないけど…いや、それ違うだろ!


「蓼原先生が一言、俺はノーマルだって言ってくれれば問題解決する話じゃないですか!」

「えー。嫌だよ。この病院に来て、変なアプローチ掛けられることなくて平和だし。」

「平和でいいのは蓼原先生だけでしょ! 俺の平和は全く守られてません! …俺この間、外科の先生からアプローチされましたよ…。」


 それは大っぴらにはされていないが、たぶんあの先生そうだよな、ってみんな思ってる先生がいて、その先生とエレベーターでたまたま二人きりになったら…口説かれた。この絶望、誰に訴えればいいんだ! 誰にも訴えられないだろ?! あの先生が受けだとか知りたくなかったよ! どう考えたって攻めだろ!


「はぁ?」


 ものすごく不機嫌そうな蓼原先生に、え? と思う。なぜ、不機嫌?


「何でそんな反応なんですか?」

「俺のおもちゃに手出そうとするからだろ。」

「…おもちゃにしないでください。俺の人権どこに行きましたか?」

「俺の手の中だよ。」


 そこ、ニヤリと笑わない! おかしいから!


「だったら、俺の貞操が守られるように、あの噂消してくださいよ!」

「…ま、いいだろ。実害それくらいだろ。それにお前受けじゃなくて攻め設定だろ。襲われるか?」


 ニヤニヤ笑う蓼原先生は、完全に俺で楽しんでいる。


「それくらいって、俺はどノーマルなんですけど! 実害ありまくりですよ! 俺はどこで発散すればいいんですか!」


 俺だって彼女が欲しい!


「バイクに乗ればいいだろ?」

「…ひどい。」


 もうこの人、バイクに乗る事しか頭にない。だから蓼原先生の歓迎会だっていうのに今日もバイクで来たんだ。


「…自分の歓迎会でお酒飲まないってナシですよね?」

「え? 俺下戸だから、そもそも飲めない。」


 予想外の答えに、俺はきょとんとしてしまう。


「え? 飲めそうなのに?」

「見た目で人を判断するんじゃない。」


 呆れた様子の蓼原先生に、確かにそうかと思う。


「いや、すいません。勝手に蓼原先生はざるだと思ってました。」

「間違ってないけどな。」


 その答えに混乱する。え? どういうこと?


「この病院での俺は下戸だ。わかったな?」


 ニヤリと笑う蓼原先生の意図を知る。

 リピートアフターミー。この病院での蓼原先生は下戸です。

 いや、間違ってる!


「完全に嘘じゃないですか!」

「騒ぐと唇塞ぐぞ。」


 ぺろりと自分の唇を舐める蓼原先生に、俺は慌てて口を手で覆って首を小刻みに横に振った。


「研修医時代はなー、よく飲んだら男同士でキスさせられてたんだよなー。」


 ハハ、って笑ってるけど蓼原先生、笑える話じゃないから!


「よく拒否しなかったですね!」

「上の先生にノリで言われれば、ハイって言うしかないよなー。まあ、キスぐらいなら平気でできるぞ。」

「俺は無理ですから、他当たって下さい。」

「ひどい。俺の純情を返せ。あんなに気持ちのいい体験は初めてだったのに。」

「え?」


 それまで誰も通らなかった通路に響いた俺の感情をそのまま出したようなその声に振り向けば、俺が狙っていたナースがいた。職員用の通路は二つあって、バイク置き場に近いこの通路は使う人が一握りだから、今の今まで人通りがなかったわけだけど。よりにもよって、この人選。神様を恨むね。確かにこのナースは同じ通路を使うから仲良くなったったこともあったけど、今はいて欲しくなかった。


「お、はようございます。」


 ものすごくぎこちない挨拶に、俺は取り繕った笑顔を浮かべる。


「おはようございます。」

「おはよう。」


 ニコリ、と蓼原先生が笑いかければ、彼女は困った顔をしてペコリとお辞儀をすると小走りで先を急いでいく。

 …あれ、何の話してたんだっけ。


「あれ、完全に誤解されたな。俺ら痴話げんかしてたことになるだろうなー。」


 楽しそうにニヤリと笑う蓼原先生に、俺は直前に交わした会話を思い出す。


「あんな気持ちのいい体験ってなんですか!?」


 俺には全く身に覚えがないんだけど!


「え? タンデムで走ったことだろ。何? 俺ら他に何かあったか? それとも願望?」

「願望なわけないでしょ! あんな紛らわしい言い方辞めてください!」


 …もうだめだ。俺に逆転のチャンスなどきっと来ない。


「で、俺は飲まないから、バイクでOKなの。じゃーな。」


 ひらっ、と手を振ると、呆然としている俺を置いて、蓼原先生が通路を進んでいく。

 何だろう。まだ仕事も始まってないのに、この疲労感。この絶望感。

 …俺、歓迎会で飲んだら泥酔しそうだな。飲むの辞めとこ。

 朝から葉山のせいでえらい目にあった。そうだ、これは葉山のせいに違いない。飲み会の時葉山に報復してやる。…まだ報復の方法については思いつかないけど。





 飲み会のざわざわした雰囲気の中、やさぐれた俺ははじっこでぽつねんと一人杯を重ねていた。

 何のアルコールも入ってない烏龍茶を。酒なんか飲んだ日には泥酔コースで目も当てられねー。幸い飲酒を無理強いするメンバーもいない。


「あの、木下先輩」


 真面目な顔した後輩がコップ片手に俺のとなりに座った。こいつは本当に真面目。勉強熱心で俺も後輩ながら尊敬するほど。それに仕事中の話で、葉山みたいな下世話な話もしないし、季節の話か仕事の話かみたいな、本当に真面目な後輩だ。


「何だ? 仕事の話か?」

「いえ。」


 首をふる後輩に、悩みかと思う。何せ真面目な顔をしている。


「いつ、お知り合いになったんですか?」


 後輩の質問の意図がわからなくて、俺らの周りだけ沈黙が落ちる。


「ゴメンナサイ。大切な思い出を人に簡単に話したくないですよね。いいです! 答えなくて大丈夫です!」


 大切な思い出?


「悪い。何の話かさっぱりわかんないんだけど?」

「先輩まさかの鈍感子犬攻め!?」


 小さく叫び目を見開いた後輩に、俺の方が驚愕する。

 まさかこいつがこんなキャラだとはこの1年一緒に働いてても気付いてなかった!


「隠れ腐女子か!」

「いいえ先輩。私は葉山先輩とは違って謹み深い腐女子なだけです。」


 俺はがっくりと肩を落とす。結局腐女子じゃねーか!


「それ、完全なる勘違いだから!」

「…葉山先輩が言ってました。木下先輩が気持ちを認めようとしなくて、蓼原先生が可愛そうだって。」


 葉山! 出てこい! 何が人目につかないようにだよ! 今朝の話、絶賛拡散してるじゃねーか!

 文句を言おうとキョロキョロと見回すと、葉山は楽しそうに女子で固まっていた。上は40代から下は20代の女子だ。女子と言わねば俺の命はない。…俺にあそこに割り込む勇気はねー。


「ちっ」

「すいません。お2人のなれそめを少し聞ければいいなー、と思っただけなんです。」

「なれそめも何もねーよ。」


 俺と蓼原先生は付き合ってないから!


「私、あれは二次元だけが許されるって思っていたんです。でも、お2人がお揃いの色のバイクで走っていくのを見たら、ああ、このお2人なら三次元も許されるなーって。」


 どいつもこいつも腐女子ってやつは人の話を聞いてねー!


「…単にツーリング行っただけじゃねーか。お前らの想像するような下世話な話は何にもねーよ。」


 たぶん後輩が見たのは蓼原先生が来た初日、たまたま帰りの時間が一緒になってちょっとツーリング行こうか、という話になったときのことだろう。


「下世話な話じゃありませんよ! 私、あのバイクのグリーンが2つ残像になって、今も脳裏に焼き付いています。くっつきたいのにくっつけない。そんなもどかしい距離感を互いに追いかけあう…。完全に純愛にふさわしいシチュエーションじゃないですか!」


 おいちょっと待てそこの腐女子!


「まさかおまえがそんな残念なやつだと思ってなかったぞ。ミズタマリめ!」

「先輩それはパワハラですか? 私の名前は確かに水田万里ですが、水溜まりというアクセントではありません!」

「お前こそ俺の精神をゴリゴリ削るセクハラしてんじゃねーか! 何で俺と蓼原先生をカップルに設定すんだよ!」

「いいえ先輩。私が尋ねたのは単なるいつ知り合ったかの話でしたよ? 普通の日常会話によくある話です。それともあれですか、出合いが朝チュンだったから、出合いを尋ねられるとセクハラになるって理解でいいですか? それなら聞きませんから。」

「俺が蓼原先生のバイクに見惚れてたら、蓼原先生に声かけられただけだよ!」


 何だよ朝チュンって! 女としてーよ!


「え? 蓼原先生に見惚れてたら蓼原先生から声かけてきたんですか?」


 パアア、とまるで明かりが灯るように明るくなった水田の表情に、俺は脱力する。

 もう俺、腐女子と会話しねー。

 何でバイクって単語が抜けて蓼原先生が声かけてきたのが、まるで運命の出合いみたいな言い方に変えられるんだよ!

 頭を抱えてテーブルに突っ伏す。

 水田の話なんてもう聞くかよ!


「どうした? 酔ったか?」


 頭上から聞こえた声にギクリとする。このタイミングで声かけてくんなよ!


「あ、蓼原先生。木下先輩さっきからガンガン烏龍ハイ飲んじゃってるんです。」


 おい水田、なに言い出すんだよ。


「こいつ考えナシにガンガン飲みそうだもんな。」

「飲んでねーよ!」


 反論すれば、蓼原先生が呆れた目で俺を見ていた。


「酔っ払いは皆そう言うんだよな。」


 本当に酔ってないって! オール烏龍茶! オールノンアルコール!


「蓼原先生、木下先輩送って行ってもらえませんか?」

「水田何言ってんだよ! 酔ってないって!」

「ああいいぞ。ほら、行くぞ。」

「俺は素面だって!」

「木下先輩、蓼原先生のご厚意に甘えてください。」

「水田!」

「ほら帰るぞ。」


 蓼原先生が俺の体の脇を抱えて抱き起こす。おおー! じゃないわ葉山! 軽くてチビで悪かったな!


「主役が居なくなったら困るだろ!」


 俺は水田にまだ諦めることなく訴える。


「大丈夫です先輩。立川先輩の許可は出てます。」


 立川先輩とは、40代女史…女子の先輩で実質的な放射線科のボス…ブレーンってやつだ。


「何だよ許可って!」

「木下先輩と蓼原先生のこと、放射線科女子一堂応援してますから!」

 何だよ一堂って!

「ほら、帰るぞ。」


 蓼原先生に腕を捕まれて、力強さに逆らうこともできず俺はドナドナされてゆく。

 女子一堂の面々が訳知り顔で頷いてんの、完全に間違ってるから!

 って言うか水田!

 おまえが俺の注文受けてたんだから、全部普通の烏龍茶ってわかってんだろ! 大きく頷くな! 

 って言うか葉山! 今日飲みでは絡んできてないけど、元はと言えば全部お前のせいだろ! ニヤニヤするんじゃねぇ!


「俺、本当に酔ってないんですけど!」


 店を出た背中に向かって訴えれば、蓼原先生が振り返る。


「知ってる。伊達に医者はやってない。」

「知ってるなら、水田の嘘に付き合う必要ないですよね!」

「えー。酒の席よりツーリングのが楽しいし。」


 そう言うと、蓼原先生はまた歩き出す。…あなたの歓迎会ですけどね! まあ、もうすでに歓迎会というより普通の飲み会に化してましたけど!


「ツーリングって、俺のバイクはないですけど!」

「大丈夫。タンデムすればいいだろ。お前の分のメットは用意してある。」


 は?

 蓼原先生、何で親指立ててんですか。


「何ですかその最初からそのつもりだった的なやつ。」

「早々に飲み会抜けてツーリング行くつもりだった。立川にもそう言ってある。だから手伝ってくれたんだろ。」


 いや確かに放射線科の物事をスムーズに動かそうとすると立川先輩に話を通しておけばすんなりいくはずだけど。だけど!


「あれ、俺ら益々勘違いされてますけど!」

「何か問題あるか?」


 何か問題あるか?


「ありまくりじゃないですか! 問題が更に悪化してますけど!」


 愛車にたどり着いた蓼原先生は、振り返ってニヤリと笑う。


「俺は大丈夫。」


 俺はがっくりと項垂れる。

 俺は、大丈夫じゃねー。でも、きっと蓼原先生には聞いてもらえる気がしねー。



 渡された初めて蓼原先生のバイクに乗せてもらった時とは違うメットに、俺は首をかしげる。


「メット、買い換えたんですか?」

「ああ、引っ越すときに捨てたんだよ。お前用に買った。」

「…それはどうも。」


 俺限定発言が、嬉しいような嬉しくないような。複雑な心境に陥るのは、俺の関知しないところで、俺と蓼原先生の関係がさもあるように形作られていくのを止めることができないというこの虚無感からくるものだろうか。


「もっと嬉しそうにしろよ。」

「蓼原先生も俺の立場になれば、素直に喜べませんよ。」


 ため息をつくと、俺の頭がぐしゃぐしゃとかき回される。


「女に邪魔されずに、好きなだけバイクに乗れるって思えばいいだろ!」

「全然慰めになってませんけど! 俺、彼女欲しいんですけど!」

「お前、彼女がバイク乗るなって言ったら、乗らずにいられるのか?」

「え? …それは、無理ですけど。」


 せっかく買ったNinjaにもう乗るなとか、どんな拷問だよ。


「だけどな、世の中の女は、バイクに乗るくらいなら車の助手席に乗りたいって思うんだよ。本当に面倒だぞ。」

「何でバイクの良さが分かんないんですかねー。」


 絶対バイクだろ!


「そうだろ? お前彼女にお前のバイク生活邪魔されたいのか?」

「…いやでも、バイクの良さをわかってくれる彼女もいるはずです!」


 俺の力説に、蓼原先生はため息をつきながら首を振った。


「それは幻想だ。目を覚ませ。」

「幻想…。」


 モテモテだったはずの蓼原先生がそう言い切るのだ。付き合った経験も多くない俺に反論の余地があるわけもない。


「ほら、行くぞ。メットかぶれよ。」


 俺はコクンと頷くと、神妙な気持ちでメットをかぶる。

 俺の理想の彼女像は、幻想。

 信じたくないけど、信じなきゃいけないのかと思うと、切なくなる。


「泣きそうな顔するなよ。バイクに乗ればそんなの吹き飛ぶだろ。」


 まだ自分のメットをバイクに置いたままの蓼原先生がメットを持ち上げてシートを叩く。

 そうだ。俺にはバイクがある。Ninjaがある!


「いい顔だな。よしよし、お前もバイクバカになって婚期遅れろ。俺はお前のせいで女とタンデムできなくなったんだからな!」


 …あれ? 何かおかしくないか?


「蓼原先生、まさかとは思うんですけど、八つ当たりで俺に彼女ができるの阻止しようとかしてませんよね?」

「そんなわけ…。」


 目を伏せる蓼原先生が、ニヤリと口元を緩めた。


「あるだろうな。」

「まじかよ! 俺八つ当たりされてただけかよ!」

「今頃気づいたのかよ。」


 ククク、と笑う蓼原先生は、間違いなく今までで一番悪い顔をしていた。

 俺、この人に命預けて本当に大丈夫かなー。

 ま、大丈夫なのは経験済みだけどな。…俺にあるのはタンデムの経験だけだから!



 久しぶりのタンデムに、ぎこちなかったのは最初のうちだけだった。あっという間に体が覚えている蓼原先生のタイミングに慣れる。

 もう嗅ぎなれた排気ガスのにおいに、流れる夜景、聞こえるエンジン音。

 スピードに乗る感覚は、自分のマシンに乗っているのと全然違う。

 勿論マシンの性能もあるんだけど、やっぱりテクニックの差か。悔しいけど、その腕は賞賛すべきものだろう。


「悔しいですけど、俺あんたの運転するやつ乗るの好きですよ。」


 騒音で聞こえないとわかっているけど、俺は背中にそう呟く。

 既に俺の身は蓼原先生にゆだねてあるから、感覚的には一体化しているみたいだ。

 一体どこに行くのかはわからないけど、もう完全に気分はお任せだ。




「着いたぞ。」

「えー。着きましたね。」


 どこに行くんだろうとワクワクしてたのに、大分遠回りしてたどり着いたのは、俺の家だった。


「疲れた。家に上げろ。」

「…あ、ありがとうございました。まあ、コーヒーでもどうですか。」


 何だか順番逆じゃないか、と思いつつ、これが蓼原先生か、と俺は素直に家に上げることにする。


「やけに素直だな。何かあったか?」


 メットを外した蓼原先生は、またわけのわからないことを言っている。


「上げろって言ったの自分じゃないですか。」

「反抗するかと思ったんだよ。まあ、説き伏せるけどな。」

「どっちにしろ一緒の結果じゃないですか。…上がって下さい。バイクはそこでいいですよ。このアパート、バイク置き場広いんで、住人以外が置いといても文句言われませんから。」


 バイクは好きなところに置いておいて大丈夫、と言われたのがこの部屋に決めた理由だ。

 バイク置き場があるアパートはあんまり多くない。

 外階段をカンカンと小さな音を鳴らしながら上がると、俺は一番手前の部屋の鍵を開けた。


「どうぞ。」

「おー。狭い部屋だな。」


 あっけらかんと言い放つ蓼原先生に、俺はため息をつく。


「蓼原先生。収入差を考えてください。俺の収入は先生の何分の1とかですよ。どうぞ、好きなとこ座って下さい。」


 俺の言葉に、蓼原先生はローテーブルの前に陣取る。


「俺のマンションはいいぞ? 今借りてる部屋、2LDKだぞ。部屋も広いしな。」

「自慢辞めてください。医者に自慢されて勝てる医療関係者他に居ませんから!」

「お前同居する? 一部屋空いてるんだよ。部屋代は格安にするし、バイクももっとセキュリティあるところに止められるぞ。」


 …何でそんな話になったんだ?


「何で俺同居すすめられてるんですか?」


 インスタントコーヒーをカップに入れてあっという間に沸いたお湯を注ぐと、蓼原先生の前に出す。


「おう、ありがとう。お前が自慢辞めろって言うからだろ。」

「いや、そのまんまの意味ですよね?」

「それに、ツーリング行くのに、予定合せるの楽でいいなって思ったんだよな。」


 出た、バイクバカ。


「…それだけを理由に同居しようとするとか、本物のバイクバカですよ。」

「え? 他にも理由が必要? まー、お前から好きって告白されたし、OKしてもいいかもな。」


 ニヤリと笑う蓼原先生は、どうやら俺が背中に呟いた言葉が聞こえたらしい。


「笑ってる感じからして、全部聞き取れてるのに、余計なところだけ抜き出さなくていいですよ!」

「えー。俺には、あんたと好きしか聞こえなかった!」


 ニヤニヤしながら言うなよ! 絶対聞こえてただろ!


「その話、葉山の前で絶対しないでくださいね! 水田の前でも!」

「あの2人、俺たちが2人でいると、ものすごくキラキラした目で見るよなー。」


 ククク、と笑う蓼原先生は、既に水田の嗜好に気付いていたらしい。


「もう、俺に八つ当たりするの辞めてくださいよ。本気で困ります。」

「え? 八つ当たりじゃなくて本気ならいいわけ?」


 蓼原先生が真剣な顔で俺を見るから、ちょっとドキリとする。


「なーんてな。お前が女だったらって本気で思うわ。バイクの趣味は合うし、タンデムしても楽しいし。何でお前女じゃねーの。」


 ため息つきながら俺が女だったらとか言うなよな!


「それ言うなら俺もですよ! 何で蓼原先生女じゃないんですかねー。絶対女だったら美人ですよ。」

「美人とか言うな。年功序列だろ。俺が男。お前が女。」

「何が年功序列ですか。意味わかりませんから!」


 完全に不毛な言い争いだな―と思ったのは、俺だけじゃないらしい。

 蓼原先生もコーヒーを飲むと、一息ついた。


「疲れたな。寝るか。」

「あの先生。寝るかって何ですか。先生はその豪邸にお帰り下さい。」

「明日、ツーリング行くだろ?」


 さも予定していたように蓼原先生は言ってるけど、約束もしてなきゃ、そんな話初めて聞いたんだけど!


「何ですかそのもう決まってた感。俺初めて聞きましたけど。」


 俺の言葉に蓼原先生がニヤリと笑う。


「俺も初めて言った。奇遇だな。」

「それ、言ってないって言うんです!」

「じゃ、行けないのか?」

「…行けますけど! 彼女もいないですしね!」


 蓼原先生の八つ当たりのせいで、職場では絶対彼女はできないだろう。


「じゃ、いいだろ。朝早く行くつもりだから、泊めろ。」

「泊めろって…寝るところないですけど!」

「いいよ雑魚寝で。医者は結構どこでも眠れるから。」

「良くないですよ雑魚寝とか。…嫌ですけど、一緒のベッドに寝ましょう。」


 ヤロー2人でシングルのベッド。しかもお互いノーマル。あり得ん…。


「いいのか?」

「アリかナシかで言えばナシですよ! でも、仕方ないじゃないですか。」

「じゃ、シャワー借りるわ。」

「蓼原先生。遠慮なさすぎですけど。着替えあるんですか?」


 ため息をつきつつ、俺は蓼原先生用にバスタオルを出す。だけど、他のは明らかにサイズ違うから躊躇する。


「おう。急に当直頼まれた時用に一通りは持ってるから、安心しろ。お前のサイズ絶対に入んないからな。」

「じゃ、シャワー先にどうぞ。」

「俺、お前のそのお人好しなところ、結構好きだぞ。」

「…巻き込んどいて何言ってるんですか…。さっさと入って下さい。明日早いんでしょ。俺も入って寝たいんで!」


 もう蓼原先生のペースに巻き込まれたら抜け出せないって理解はしている。

 …何でこんなことに、とは思いつつも、明日のツーリングは素直に楽しみだ。




 ****




 翌朝、朝日に照らされる2台のライムグリーンの車体に、俺は何だか言葉を忘れる。

 何だかこの2台が神々しく見える。


「きれいだな。」


 同じように何かを感じたらしい蓼原先生の声に、俺は頷く。


「やっぱり、Ninjaのある風景っていいですね。」

「だろ。」


 そこに余計な言葉はいらない。


「で、いつから同居する?」


 感動的な場面だったはずの場の空気をバッサリと切り捨てたのは、蓼原先生だった。 


「それ、本気だったんですか!?」


 見れば蓼原先生は真面目な顔で頷いた。


「冗談なわけないだろ。俺はお前のせいで婚期を逃してるんだからな!」

「ますます婚期を逃すようなこと考えないでください! ついでに俺を八つ当たりに巻き込むの辞めてください!」

「知るか。」


 …この先生。本気で言ってそうだからたちが悪い。

 絶対同居は回避してやる!


 完

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