【GL】Lily
祐里
1.『そういうこと』
三月の水曜日、午後七時五分前、
「ここで、いいんだよね……?」
スマートフォンのショートメールを確認すると確かにこの住所が書かれ、地図アプリで該当の住所を入力すると確かにこの店が指し示される。
焼き鳥屋や弁当屋、金物屋などの小さな店が多いためか、ぱっと目に付くだけで十以上もある店の入口の看板は派手な色合いや大きな文字で、狭い道の中、これでもかとひしめき合い各店舗の存在を主張している。しかしこの店の看板は、何の変哲もない白地に濃灰の文字で小さく『Lily』と書かれているだけなのだ。
そんなシンプルすぎる看板のおかげで、店名は確認できている。あとは店に入るだけだ。美紅は覚悟を決めて暗い階段を三階まで上った。行き着いた先には古びた木のドアがあり、貼り付けられた小さなプラスチックカードには『Lily』と小さく書かれている。
「いらっしゃいませ」
古びた木のドアを恐る恐る開けると、小さなレジスターが置かれたカウンターテーブルの向こうで軽やかな笑みの女性が出迎えてくれた。
「ご予約の方ですか?」
「……あっ、はい、小柳……です」
数秒は経っていただろうか、先に女性に話しかけられ、美紅は彼女の大きな目に見とれていたことに気付いた。不思議と惹きつけられるその目は黒々としており、白い部分の割合が少ない。店内が暗いから瞳孔が開いているのかな、などとおかしなことを考えてしまい、気恥ずかしさに視線を下に向ける。
「うちは会員カードみたいなものはないんです。このまま奥へどうぞ」
「……はい」
女性に案内されて一番奥の部屋へと歩を進める。狭い廊下の突き当りのドアを入り、部屋が意外と広いことにまず驚く。
暗めの照明の中、「そちらの椅子におかけください」との言葉に従い、そっと椅子に腰を下ろしてみる。まるでどこかの家庭のダイニングルームから持ってきたような木の椅子で、パステルカラーの水色がかわいらしい。
「何かお飲みになりますか? ええと、ペットボトルになっちゃうんですけど、緑茶とミネラルウォーターと梅ドリンクがありますよ」
「……梅?」
「はい。酸味が効いていておいしいんです。私、けっこう好きで」
いたずらっぽく笑う彼女の目が細められる。そんなに細くならないでほしい、と願ってみたが、叶わなかった。
それなら梅ドリンクがいいと希望を言い、小さな冷蔵庫から出してもらって蓋を開けてみると、甘酸っぱい匂いが鼻に届いた。一口飲んで、「あ、おいしい」とつぶやく。
「気に入っていただけてよかったです。……あの、これは皆さんにお聞きしているのですが……」
「はい?」
「目的は、何ですか?」
「……目的……」
「軽い説明でいいですよ」
美紅は迷った。ここで話していいのだろうか、と。確かに目的はある。美紅自身にとっては、大きな目的が。
少し迷って、正直に話すことにした。目の前の椅子に座りながら話す彼女の少し低めの柔らかい声が、美紅に安心感をもたらしたせいかもしれない。
「目的は、その……、
「まあ……」
「それで、その……、『言うこと』というのが……」
「なるほど。お義姉さんは、どちらがいいのかしら? ネコかな、あなた格好いいし」
聞き慣れた言葉を言われ、緊張が少々解けていくのがわかる。美紅はショートヘアで身長が高い細身体型、凹凸もそれほどないため、「格好いい」というセリフは言われ慣れているのだ。
「ちょっと、そこまでは……すみません。両方でもいいですか?」
「ええ、大丈夫ですよ。でも時間は?」
「あ、そうか、今日はあまり時間がないです」
「んー、じゃああなたがタチで、って言いたいところだけど、最初はたぶんネコから始めるのがいいと思いますよ。経験はないんですよね?」
「ないです」
「はい、ならネコからで決まり。ふふっ、よろしくお願いしますね」
女性の目がまた細くなる。その瞳をもっと見せてほしいのにと、美紅は彼女が笑うたびに思う。
女性は、普段は大学に通っていてここでアルバイトをしていると言った。そして、名前を『ちはる』と名乗った。着ている服はごく普通のアイボリーの襟付き前ボタンブラウスにロイヤルブルーのカーディガン、ライトグレーのプリーツスカートだ。事務作業を抜け出してきた言われても疑問を持たないような服装で、ピンクのパーカーとカーキのカーゴパンツという服装の美紅に「キス、初めて?」と尋ねる。
「初めてじゃないけど、あんまり、その……」
「ディープなのは経験ない?」
「は、はい」
「じゃ、そこからやってみようか」
「……はい」
梅ドリンクの後味が少し残っているけど大丈夫かな、と、軽く心配している間に簡易テーブルを挟んだだけのちはるの顔がどんどん近付いてきた。
「こ、ここで?」
「ネコは大人しくしているものよ」
唇が塞がれるほんの一秒前、かすかにグリーンノートも感じられる高貴で甘いフローラルノートが、美紅の鼻に残っていた梅ドリンクの香りを打ち消した。
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