シュレディンガーの箱
ろくろわ
私の罪は何か
閑静な住宅街の一画。古びた一軒家の庭先に、その鍵のかかった大きな箱はあった。少し小さなコンテナ位のサイズだが、人一人が入るには充分過ぎる大きさだ。
そんな箱の前で刑事の
そもそも原谷が八ヶ岳の家を訪れる事になったのは遡ること数時間前、消息が分からず行方不明の届けが出されていた八ヶ岳と交流のある
勿論令状なんてものは無いので任意調査なのだが、八ヶ岳はえらく協力的だった。むしろ協力的過ぎて違和感を覚える程であった。さっさっと終わらせてしまいたいかのようにここ数日の行動や一之木との関係、話の流れから敷地も見せてくれた。
そして冒頭の鍵のかかった大きな箱を発見するに至る。
「八ヶ岳さんこの箱はなんですか?」
「それは簡易の倉庫ですね。そこの畑で取れた玉ねぎとかを干したりする時に使います」
原谷は八ヶ岳が指差した畑を見た後、一通りそのコンテナのような箱を見回す。確かに変わった所はない。一つ気になる所と言えば、古い箱の鍵が真新しい大きな南京錠である事くらいか。
「八ヶ岳さん。新しい錠ですね」
「えぇ。古い錠が壊れてしまってね。ついでに中から開けられないくらい、丈夫で大きな物に変えました」
「中から開けられない?」
原谷の質問に八ヶ岳は「冗談ですよ」と笑いながら答えた。
原谷は改めて箱を見る。
確かに人が閉じ込められていたとしても充分に入る大きさだ。
「八ヶ岳さん。もし良ければこの箱の中を見せていただけませんか?」
原谷が尋ねた時だった。先程まで協力的だった八ヶ岳は言葉を濁しながら、鍵がないからとそれを断った。
先程、新しい錠に変えたと言っていたのに鍵を失くすだろうか。
原谷がそう思うと箱の中に一之木が閉じ込めれているビジョンが見えた。
「八ヶ岳さん。まさかこの中に一之木さんはいないですよね?」
何の駆け引きもないただの質問。だが、刑事である原谷はその返答内容や態度から事実を見抜く自信があった。
八ヶ岳はポカンとした顔をしたものの直ぐに笑いだし、そんなはずは無いですよと返事を返した。
八ヶ岳の返事や反応におかしな所はない。
だけど。
原谷が箱に近づくと微かに箱の中から人の気配がする。服の擦れる音や消えそうな息づかい。やはり誰かいる。
「おい八ヶ岳、お前何を隠している。この箱の中には一之木がいるんだろ」
先程とは違い、少し語尾を強めて原谷が問い詰める。
「本当に知りませんよ刑事さん。あっでも、もしかしたら」
八ヶ岳はずれた眼鏡をかけ直し、原谷に話を続ける。
「刑事さん。シュレディンガーの猫って話をご存知ですか?」
「なんだそれは?そんなことはどうでも良い。鍵を開けろ」
「刑事さん今日は令状なんてないでしょ?それは出来ません。それより先程の話です。シュレディンガーの猫。量子力学的記述が不完全である事を証明するための思考実験の事なんですけどね。まぁ平たく言えば毒ガスの発生する箱の中に猫を入れ、その猫が生きているか死んでいるかは見るまで二つの状態で存在していると言う話です」
八ヶ岳はニヤニヤしながら原谷の近づいていく。
「まぁ私も学のある方ではないので詳しくは知りません。色んな誤解された解釈も多くあります。でも私はその中の一つに『物事は観測されるまでどちらの状態でも存在し、観測されることで初めて存在が確定される』と言うことにとても興味を引かれます」
「お前は何が言いたいんだ」
原谷は先程から箱の中の音が小さくなっていく事に焦りを感じていた。
「つまりですよ。この箱の中には本当に一之木さんはいません。しかし刑事さんはいると考えている。この時点で、箱の中を確認するまでは一之木さんいない状態でもあり、いる状態でもあると言える。だって中を確認してみていないのだから」
原谷は箱の中から助けを求める声が聞こえた。
確かにこの中に人がいる。
「御託はいいから早く開けるんだ。一之木が助けを呼んでいる」
「刑事さんそんなことは無いんです。一之木さんはその中にはいません」
「お前も知っているんだろう?お前が閉じ込めたのだから。さっきから気配がする。これ以上罪を重ねるな!」
「刑事さん。それは何の気配でしょう?もし仮にその中に一之木さんが居るとすれば、この世界には一之木さんが二人いることになりますよ」
箱の中で這って動く音が聞こえる。きっと手足を縛られているのかもしれない。原谷がしびれを切らし応援を呼ぼうとしていた時だった。原谷のスマホが鳴った。相手は一之木を捜索していた別動隊の刑事からだった。
『原谷さん。一之木を無事発見しました。どうやら仕事で普段人通りの少ない別館の掃除中、ドアノブが壊れ閉じ込められていただけのようです』
そうか。と原谷はスマホ切った。
先程まで箱の中にいた一之木の気配がなくなった。
「おや刑事さん。どうやら一之木さんの姿が何処かで観測されたようですね。あっ刑事さん!錠の鍵がある場所を思い出しました。あの箱の近くの植木鉢の下に置いたんでした」
八ヶ岳はわざとらしく大袈裟な態度を取ると、植木鉢をどかし鍵を取り出し原谷に手渡した。
原谷は手にした鍵で錠を開け箱の中に入った。人の出入りされた形跡の無い床の上には、誰かが這って移動したような跡やさっきまで人がいたような温もりを感じた。
「刑事さん。もしこの箱を先に開けていたら、もしかしたら一之木さんはここにいたかもしれませんね。刑事さんが想像した手足を縛られた状態で。他の所で発見され存在が確定してしまったから、こちらの一之木さんは消えてしまったのかもしれません。この世の中に同じ人間は二人として存在しないのですから」
八ヶ岳は床のホコリをなぞり、原谷の方を向いた。
「ところで刑事さん。私の罪とは一体なんだったのでしょうか?」
原谷は何も言えず空虚となった箱の中を見ていた。
確かにこの中には一之木の気配がしていたような気がしていた。八ヶ岳が言っていたようにこの箱の中には一之木がいる状態でもあり、いない状態でもあった。
一之木のいない事象が確定した今、八ヶ岳の質問に答えることは出来なかった。
了
シュレディンガーの箱 ろくろわ @sakiyomiroku
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます