ザイロンの箱(サークファガス)

帝国妖異対策局

洞窟の蜘蛛

 遥か昔、ゴンドワルナの深き森、大スピシディアの奥に、ひとりの青年猟師が住んでおりました。名はエイドリアス。勇敢で優しき心を持つ、誠実なエルフの若者でした。


 ある日のこと。狩りの途中、エイドリアスは道に迷ってしまいました。陽がその顔を隠し、闇が森を支配し始める中、ひとつの光を見出した彼は導かれるように、灯火のある洞窟へと足を向けました。


 洞窟に入ったエイドリアスが目にしたのは、ひとりの美しい女性でした。


 彼女こそは半身半蜘蛛の妖怪アラクネだったのですが、彼女は不思議な魔法によって、今は人間の姿をとっておりました。


 アラクネはエルフの言葉を使ってエイドリアスに声を掛けます。


「あなたは……もしや道に迷われたのでしょうか?」


 アラクネの聖樹の葉鈴が鳴るような美しい声と美貌に、エイドリアスは一瞬言葉を失なってしまいました。


「は、はい……私はエイドリアス。獲物を追っているうちに、森の奥深くにまで足を踏み入れてしまいました」


「それは大変でしたね。わたくしエレナと申します。この森の夜はとても危険ですから、どうぞ今晩はここでお過ごしください」


 そう言うとアラクネは微笑んで、エイドリアスを洞窟へと招き入れました。かくして二人の出会いは、蜘蛛の糸によって紡がれたのです。


 この日以降、エイドリアスはエレナに会うために頻繁に洞窟を訪れるようになりました。一緒に食事をしたり、狩りをしたり、二人で楽しい時を過ごすほどに、エイドリアンはエレナに惹かれていきました。エレナもまた、やさしいエイドリアスに心を通わせていくのでした。


 けれどもエレナの心には、ひとつの秘密が重くのしかかっていました。


 妖怪の自分が人間の姿でいられるのは、古の魔法使いザイロンが創りし禁断の箱サークファガスによる魔法のおかげだということ。もし箱が開かれてしまったら、そこに封じている自分の本当の姿が露わになってしまうこと。もし箱が開かれることがなかったとしても、いつかはその魔力が消えて、アラクネの姿に戻ってしまうこと。


 エイドリアスに自分の本当の姿を知られたら……。そんな不安が、エレナの胸を締めつけるのでした。


 それでもエイドリアスとエレナは、洞窟での穏やかな日々を過ごしていました。


 朝日が洞窟に差し込むと、エレナは目を覚まし、愛しい人の為に朝食の支度を始めます。


「おはよう、エレナ! 今日も朝食をありがとう!」


 そう言ってエイドリアスが微笑みかけると、エレナもまた優しい笑顔を返すのでした。


 お昼になると二人は森へ狩りに出かけます。


 大スピシディアの森深くには危険な魔物に溢れています。しかし不思議なことにエレナがいると、そうした魔物と遭遇することもありませんでした。


「エレナは私の女神さまのようだ。君のおかげで、狩りがずっと楽になったよ」


「そんな……エイドリアスの腕前が日に日に上達しているからですよ」


 お互いを讃え合う二人は、山菜を摘んだり、清らかな泉で水浴びをしたりと、自然の恵みを存分に楽しんだ後、洞窟へと戻るのでした。


 夜になると、今度はエイドリアスがエレナの為に、狩りで得た獲物を調理します。


「今日の夕食は、キジ肉のロースト。山菜と一緒に召し上がれ」


「まあ、なんて美味しそうなの! エイドリアス、あなたは狩りだけではなく、料理までお上手なのですね」


 そう言ってテーブルを囲んで楽しげに語らう二人。そんな何気ない日常、かけがえのない幸せな時間を、二人は積み重ねていきました。


 食事の後は、洞窟の外に出て、満天の星空を眺めます。


「エレナ、君と一緒にいると、毎日のように、これまでの人生で味わったことのない幸福を感じるんだよ」


「わたしもよ、エイドリアス。あなたと過ごす毎日は、まるで夢のよう!」


 見つめ合うまなざしと重なり合う唇には、お互いの深い愛情が込められていました。


 かくしてエイドリアスとエレナは、深い絆で結ばれていったのです。


 けれど絆が深まるにつれて、エレナの胸に秘めた不安も、日に日に大きくなっていくのでした。


 いつかは、エイドリアスに真実を告げねばならない。そう、たとえ二人の関係が壊れてしまうことになろうとも。


 ある日のこと、エレナは森の奥深くへと薬草を取りに出かけていました。そのときエイドリアスは洞窟の中で、エレナが大事にしている箱をしまい忘れていることに気が付きます。


「この箱、エレナにとって大切なものなのかな?」


 ちょっとした好奇心から、エイドリアスはその箱を手に取り、つい開けてしまいました。すると、箱の中から不思議な光が溢れ出して、洞窟内を照らし始めます。


 そのとき、薬草を取って戻ってきたエレナが洞窟へと入ってきました。


「エイドリアス、ただいま戻りました……って、あなたその箱を!」


 エレナは驚愕します。その瞬間、エレナはアラクネ本来の姿に戻ってしまいました。


 上半身こそエレナそのままであるものの、下半身は巨大な蜘蛛の化け物となっています。エレナは羞恥心から自分の顔を手で覆い隠して、泣き出してしまいました。


「エレナ、君は……一体?」


 エイドリアスもまた、目の前の光景を信じられない様子でした。


「ごめんなさい、エイドリアス。私は本当は、半身半蜘蛛の妖怪なの。でもあなたを愛しているという気持ちは、本当に、本当だったの!」


 エレナは涙を浮かべながら、自分の正体を明かしました。今まで隠し続けてきた秘密が、ついに露呈してしまったのです。


「私のような者と一緒にいては、あなたの人生を台無しにしてしまう。だからお願い、私のことは忘れて……」


 そう言うと、エレナは洞窟の外へと駆け出していきます。自分が妖怪だと知られてしまった以上、エイドリアスのそばにいることはできないと思ったのです。


 しかしエイドリアスは、一瞬もためらうことなくエレナの後を追いました。


「エレナ、待ってくれ!」


 森の中で、エイドリアスはエレナに追いつき、半身半蜘蛛の姿になったエレナを、エイドリアスは真剣な眼差しで見つめます。


「エレナ、君が妖怪だろうと、俺の気持ちは変わらない。俺は、君のすべてを愛しているんだ」


 そう言って、エイドリアスはエレナを優しく抱きしめました。


「本当に……? あなたは、この姿の私を受け入れてくれるの?」


 エレナは信じられないという表情で、エイドリアスを見つめ返します。


「もちろん! 君は君のままでいい! 俺たちは一緒にいよう。これからもずっと!」


 エイドリアスの言葉に込められた愛情の大きさに、エレナの心から不安が消えていきました。


 彼女はエイドリアスの胸に飛び込み、泣き崩れます。エイドリアスは巨大なアラクネの体当たりを受けて、多少の眩暈を感じたものの、しっかりとエレナを抱擁するのでした。


 こうして二人は、お互いの存在をありのままに受け入れて結ばれたのでした。


 その後、洞窟に戻った二人は箱を閉じて、元の場所に戻しました。


 もちろんエイドリアスはアラクネの本来の姿も愛してはいるのですが――


「アラクネの姿も魅力的だけど、人の姿じゃないとベッドが壊れちゃうからね……」


 耳元で囁いてくるエイドリアスを、エレナは蜘蛛のように四本の手足でしっかりと大好きホールドするのでした。



~ おしまい ~


 

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ザイロンの箱(サークファガス) 帝国妖異対策局 @teikokuyouitaisakukyoku

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