第1話 ~冥王界~
――時は3年前に遡る。全てが始まったのは、あたしがまだ心臓病で入院していた、高校2年生の頃だった。
ここは、東京都にある染岡病院の病室。高校2年生のあたしは、この病院で入退院を繰り返している。
いつかここで、循環器内科の看護師として働くことが、幼い頃からのあたしの夢だった。
もうずっと、家には帰っていない。どうせ厄介払いのような形だったし、あんな生活に戻るなんて、こっちから願い下げしたいくらいだ。
あたしは継母と弟、妹との4人暮らしをしている。弟や妹も、もうだいぶ大きいから大丈夫だとは思うけど……ちゃんとした生活を送れているか、少し心配だ。
病室は個室で、入口の近くにトイレとお風呂がある。
ベッドは部屋の隅にあり、その横に置かれているのは木製の棚。この棚には日用品の他に、2種類くらいのお菓子を常備している。たまにお見舞いに来てくれる、弟と妹の為だ。
喉乾いたな……。
お茶を飲みに行こうと思い、ベッドから体を起こした。
ナースステーションに冷蔵庫があって、その中にお茶の入ったポットが置いてある。
ベッドから足を伸ばして、スリッパを履きかけたその
「あ……ッ!!」
足を踏み外してベッドから落ち、ベッドの傍らに置かれている棚に、思い切り頭を打つ。その拍子に、手にしていたコップを取り落としてしまった。
「い……ッた……!」
かなり強打したみたいで、立ち上がることさえままならない。
あたしは顔を歪め、打った場所を押さえる。おもむろに手を離すと、手にはベッタリと血糊が付いていた。
「……ッ」
額から流れ出た血が、床に日の丸を描く。
助けを呼ぶことすらできないまま、あたしは意識を手放した――。
う……眩しい……!
寝かされているの……?
「目が覚めましたか」
ん……?
ボンヤリとしていた視界が、だんだんハッキリとしてくる。
人? 誰か、居るの……?
あたしの顔を覗き込んでいたのは、着物を身にまとった美少女だった。ノースリーブの水色の着物に、紅白の
この人は……誰!? これは夢!? 現実!?
混乱する頭を押さえながら、ゆっくりと体を起こす。
「あ……あの……ッ」
麗しい顔に薄化粧を施し、長い黒髪をあたしと同じポニーテールのようにした美少女は、優しく微笑んだ。
「怖がらないで、味方です。ところで、名は何と?」
「え、えっと……織田原萌華……といいます」
「萌華殿……良き名ですね」
名前を名乗った時、彼女が一瞬だけ目を見張ったように見えたのは、気の
それに……萌華殿?
というか、名前教えちゃって良かったの!? この人は、一体……?
あたしは、土の壁と襖で四方を囲まれた狭い和室を見回した。けれど、和室に絶世の美少女が居るという情報以外は、何も掴めない。
「貴女は……ッ」
ガタンッ!! ドンドンッ!!
名前を聞こうとしたあたしの声は、突然の物音によって遮られた。
こ、今度は何……!?
「
音のした方に鋭い視線を送り、彼女は僅かに声のトーンを落としながら呟く。
「……実は僕、追手に追われているのです。ここに居れば巻き込まれるゆえ、萌華殿は逃げて」
――僕?
自分のことを「僕」と言ったその美少女は、あたしに背を向けて美しい金の刀を抜いた。
とにかくこの人の言ったように、逃げた方が良いよね? 彼女が言う「追手」は、あたしを狙っているわけじゃなさそうだけど……。
あたしは彼女に教えられ、引き戸を開けて外へ出る。裏口なのだろう――小さくて、あまり目立たない扉だ。
建物から出た所は、細い道だった。両端に和風の建物が並んでいて、道はコンクリートではなく、土だ。
あれ? ここってどこなんだろう?
自分が居る場所に違和感を覚えながらも、あたしは細い道を歩く。
こんな和風の建物に挟まれた道なんて、病院の近くにあっただろうか?
細い道を抜けてみると、映画村のような
「!!」
水干を着た少年達、刀を腰に差して袴を
一言で言えば、様々な時代の格好をした日本人が和風の町を行き来しているのだ。
え……? 何? 映画村?
病院に居たはずなのに……!
とにかく、ここがどこなのかを把握するべきだ。
あたしは近くに立っている、日本髪の若い女性の元に歩み寄った。知っている人が1人も居ないのだから、その辺に居る人に訊くしかない。
「すみません。ここって、映画村……ですか?」
女性は目を見張り、変なものでも見るような顔で、あたしを見つめてきた。
何故、そんな顔をするのだろう?
今のあたしが、モコモコのパーカーにスリッパという、外に居ながら部屋で寛ぐときのような格好をしているから? 否、むしろそうであってほしい。
返ってくる言葉を想像すると、怖かった。
「えいがむら……? 見たことも聞いたこともあらしまへんけど、どないな村なんどす?」
「……ッ!」
あたしは絶句する。
そんな江戸時代の町娘のような格好をしていながら、映画村を知らないなんてことがあるだろうか?
しかも、今時「どす」なんて使う京都の人居るの?
「映画村……ご存知ないですか? 失礼ですけど、その格好ってコスプレですよね?」
「こす、ぷれ?」
「え、えっと……あたし、東京の病院に居たんですけど、気が付いたらここに居て……今、本当に困ってるんです」
とにかく、今は位置情報だけでも知りたい。それなのに、あたしが喋れば喋るほど、女性は首を
「ホンマに堪忍な。
女性の顔立ちは日本人だし、かえって不自然なくらい流暢な京都弁を話している為、外国人観光客というわけではなさそうだ。幸い、お互いの日本語は通じている。
……こうなったらもう、単刀直入に訊こう。
「ここって……何なんですか?」
「嗚呼、ここはなァ」
顔を上げて、女性が町を見渡した。
何を言われるのだろうか?
少し緊張しながらも、彼女の言葉の続きを待つ。
「色んな時代の人々が暮らしたはる世界――
……冥王界?
京都はおろか、日本ですらないの?
「色んな時代の人々が暮らす世界……ですか?」
「うん、平安、戦国、江戸の世を生きる人々が、この世界には居たはんねん。ほんでこの世界を支配したはるお方が、
平安、戦国、江戸の人物が生活する世界を、織田信長が治めている!? じゃあどうして、令和を生きてるはずのあたしがここに居るの!?
意味が分からない。
ただ1つ分かるのは――異世界に来てしまったということ。
「この世界には2つの勢力があってな、1つは
神鬼狼と乱桜華か……。織田信長が支配しているこの世界には、2つの勢力があるということだろうか?
もう何でも良いから、今すぐ元の世界に帰りたい。今頃、看護師さんたちも心配しているだろうし、夢なら夢で早く覚めてほしい。
「あの、どうやったら病院に戻れますか!? あたし、早く病院に戻らないと……!」
「びょういん……?」
話が通じない。
彼女が現代を生きる女性ではないことは、もう明らかだった。
一体、誰に頼れば良いんだろう?
さっき出会った、あの可愛い女の子を頼ろうか? 歳も近そうだったし、あたしのことを助けてくれた。彼女なら、何か知っているかも。
「それともう1つ聞きたいんですけど……黒髪を……こう、あたしみたいに結い上げてる可愛い女の子の名前、知りませんか? 不思議な着物を着た、小柄な子なんですけど」
ポニーテールを結うジェスチャーをしながら尋ねると、女性は優しく微笑みながら頷いた。
知ってるんだ……!
「確かその子、
朝露の君……覚えとかなきゃ。
異世界に来たあたしに、優しく接してくれたナゾの美少女。でも、すぐに彼女を追っているという者たちが来たことで、名前も聞けていないまま別れてしまった。彼女は一体、何者なんだろう?
助けてもらったお礼を言いたいし、頼れそうなのは彼女しか居ない。
「教えていただき、本当にありがとうございました!」
あたしは女性と別れ、適当に歩いてあの美少女を捜す。
かなり目立つ着物だったから、比較的捜しやすいだろう。
それにしても、どうすれば良いんだろう?
お金は1円も持っていないし、当然知人も居ない。服装は、病院で着ているルームウェアとスリッパだ。
……そして、この頃のあたしは想像さえしていなかった。
この世界で1人の青年と恋に落ち、やがて哀しい運命の奔流に巻き込まれてしまうことを――。
満月が、藍色の空に輝いている。
あれから一体、どれだけ歩いただろう? 結局、彼女が見つかることはなかった。
疲れ果てたあたしは、真っ赤な橋の欄干にもたれかかりながら、ボンヤリと町を眺める。
川を挟んで左右に伸びる道には、
……会えるわけないよな。
全く知らない土地で、数分しか顔を合わせていない少女を捜すなんて、さすがに無謀だったかもしれない。
風が吹くたびに、桜吹雪が舞っている。
「ハァ……帰りたい……」
そういえば今週の日曜日は、弟と妹が月に1度のお見舞いに来てくれるんだったな……。継母は居るけど、実質2人だけで生活しているようなものだし、元気を出してもらう為のお菓子も用意しておいたのに、こんなことになってしまった。
不意に、誰かがこっちに向かって歩いてくるのに気付き、あたしは顔を上げた。
ピィー……ヒョロロ~……。
その人が吹いているのだろう――美しい笛の調べが聴こえる。
そっと覗き込むようにその人の顔を
――あの美少女だった。
「あの……ッ」
あたしは思いきって、彼女に声をかけた。
笛の音が止み、彼女が振り返る。長い睫毛に縁取られた、大きく美しい瞳があたしを捉えた。
「えっと……助けてくれてありがとう! 貴女の名前って……」
「嗚呼、申し遅れました――」
花も恥じらうほどに可憐な笑みを浮かべながら、少女が口を開く。
「僕の名は、
【第1話の用語解説】
❀歴史的用語❀
・
・
・水干…主に平安時代に着用された、男性の服装。
❀オリジナル用語❀
・神鬼狼…織田信長と彼に味方する者たちの組織。
・乱桜華…織田信長に反発する者たちの組織。
・冥王界…源平、戦国、幕末の歴史上人物が集う異世界で、本作の舞台。
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