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 カサネは目を閉じて静かに息を吸う。

 緊張している。心臓が痛い。

 今までやってきたどんな仕事より緊張している。

 17歳で立ったアイドルとしての初ステージよりも、初めてのテレビ出演よりも、初めての武道館よりも、今が一番緊張している。


 しかし今、自分はやらなくてはいけない仕事がある。


 意を決して目を開ける。骨ばった手首を飾るボロボロの腕時計は、きちんと1秒単位で合わせてある。

 10秒前。

 目の前のカメラを睨み付けるようにして顔を上げる。そしてその向こうにいる北沢に合図を出す。彼も緊張している。カメラの傍で膝に置いたノートパソコンに触れている手が震えているのがこの距離でもわかった。

 先月23歳になったばかりのカサネの倍近くは生きているライブハウスの店長に取っても、この異常事態は受け入れがたい物なのだ。そして自分のせいでこのおかしな配信に付き合わせてしまっている事に罪悪感さえ感じる。結婚が早かったという彼にはそれこそカサネとそう年齢が変わらないであろう娘がいるはずだ。


「20時になりました、カサネです。外の皆は今日も元気にしてるかな。コメント欄は後で読ませて貰います。今日は本当はラジオの仕事があったんだけど、流石にこの状況なのでキャンセル。代わりにここでゆっくり話したい、と思います」


 ステージ中央でスツールに腰掛けているカサネの全身をカメラが捕らえる。彼は数秒の沈黙の後「先ず言わなきゃいけないことがありますね」と微かに震える声を絞り出した。


「うちのグループの他のメンバーの正確な安否はわからない、だから俺1人でここにいる。皆不安だと思うけどメンバーがどういう状況なのか俺にはわからないんだ、ごめん。憶測で話は出来ない。今わかっていることだけを皆に伝えたい。タレントは勿論スタッフさえ事務所内にはほとんど残っていないんだ。むしろ皆の方が知ってたりするのかな?」

 テレビなら、今までの仕事なら嘘でも「大丈夫だよ」と言っていただろう。むしろ事務所にそう言わされていた。

 外で何が起きているのか、実はカサネも北沢も正確には把握していない。

 ネットニュースは見られるが正確でない憶測記事も多く混じっているし、Wi-Fiは繋がらないわけではないがやはり安定していない。

 地下なのでラジオは途切れ途切れにしか聴こえないしテレビも映る時と映らない時がある。何より事務所がこのような状態のため、現時点で公式にまともな発信が出来ない。

 恐らくこの事務所に関する最新情報は今、カサネの配信だけが頼りなのであった。


 自分は死なない、死んでいない、生きる。そのために無数の証人が欲しい。


「でも幾つかわかっている事があって、ファンの皆も知ってるマネージャーの鹿島さんは俺の目の前で死んだ。ごめん。リーダーのジンも多分大怪我をしてるはず。ごめん。キリヤとユウジさんはどうなったかわからない。逃げたかもしれないし逃げてないかもしれない。兎に角俺が自分の目で最後に見たのはそれ。俺だけが事務所の地下に逃げて隠れる事が出来た。その事で俺を叩く人も沢山いると思う。本当に申し訳なく思ってる。でも、その時はそうしないといけないくらいの異常事態だったのも知っておいて欲しいんだ、ごめんなさい」


 自分の言葉の語尾が震えているのがよくわかる。しかし言葉を止められない。声が裏返らないように意識して丁寧に喋っているつもりだが、うまくいかない。つい早口になってしまう。


「………俺はずっと神奈川の海の近くで生まれ育って、中学生の時から先輩に誘われてバンドとかやって、高校の時に出演した地元のイベントで事務所の人にスカウトされて、それからずっと親と離れて東京で暮らしてる。でもいつもメンバーやスタッフさんがいたから、心細くなんて無かった。だけど今、突然の異常事態で事務所の中にひとり取り残されてしまった。北沢さんはそこにいてくれるけど、それでも今、凄く不安なんだ。怖い」

 

 何か話していないと心が押し潰される。その一心でカメラを見つめ口を開き続ける。


 アイドルだから常に笑顔であらなければならない。

 社長にもマネージャーにもスタッフにもファンにも家族にも友達にもずっとずっとずっとそう言われ続けて来て、そうする努力をずっとずっとずっとしてきたつもりだ。

 しかし今のカサネには笑顔を作るだけの気力と体力が無かった。口角を少し上げるだけで精一杯。目元に力が入らないのだ。笑顔を作る努力はしているつもり。だけれど作れていない自信がある。

 何度も何度も向こう側にいる不特定多数に向かって「ごめんね」と繰り返している事にふと気付く。

 今日はもう駄目だ。予定より少し早いがもうこれ以上は喋ってはいけない。喋りたい気持ちは無限にあるが、言ってはいけない事まで全部言ってしまいそうだから。不安と高揚。両方が今カサネを突き動かしている。

「今日はここまで。また明日、Wi-Fiさえ駄目にならなければだけど、8時頃に配信を始める予定です」

 北沢さんがカメラをオフにした事を確認すると同時にカサネは大きく息を吸って吐いた。汗がステージの上に落ちる。涙はまだ出ない。


 ドリンクカウンターの真下の棚にカロリーメイトと日持ちする食料が多少ではあるがストックされていた。

「大きい地震が起きた時お客さんとか残された社員がここで一晩位は過ごせるように、多少の備蓄はしてあったんだよ。建物自体は頑健だし設備も整ってるし、外に出られなくなる事を想定してね。自治体の要請で災害に備えての最低限の準備はしてあった」

北 沢さんは水のペットボトルとカロリーメイトをワンセットカサネの前に置く。

「………カサネ君、ビール飲む?」

 唐突にそう問い掛けられ、カサネは数秒考える。

「………飲みたいけどそんなに沢山は飲めないかも」

 呑めないわけではない。年齢的にも違法ではない。ただ自分はそれ程アルコールに強くはないのだ。

 事務所からはデビュー前から散々プライベートを律するように言われ続けていて、特に酒とクスリと色恋関係に関しては常に注意が必要とされていた。

 何人もの先輩、後輩、仲間、同業者がそれで社会的に制裁され堕ちて行く姿を見て来た。しかしこの仕事をしていて堕ちてしまう人間の気持ちも少しはわかるのだった。それが怖いなと思って、ギリギリのラインに立っている自覚がある。

 そもそも余り呑めない体質である、というだけでカサネはアイドルとしては運が良かったのかもしれない。お蔭で酒のトラブルだけは他の同業者に比べて少なく済んでいるはずだ。なんとか事務所が揉み消せるレベルの、些細なトラブルが片手で足りる程の回数あっただけだ。

 数ヶ月前、マネージャーからしばらくの禁酒を言い渡されていたのも事実だが、今は構わないだろう。

「じゃあ2人で半分こにしよう」

 プラスチックコップに半分だけ注がれたビールは生温かったが、気を紛らわすには十分なクスリだった。すぐに眠気が襲って来る。兎に角今は休みたい。頭を冷やしたい。


 カサネは楽屋のソファで寝る。北沢さんはPA卓に置いている椅子がとても良い椅子なのでそこで寝ている。泊まりの仕事も少なくなかったので寝袋や着替えもあるのだと笑っていた。

 このライブハウスはたった2人で居るには余りに広すぎる。怖い。広い場所は怖い。

 いつも大きなハコでライブをやる時は足が震えた。

 何度やっても慣れなくて、メンバーにはよく笑われた。メンバーだって皆緊張していたはずなのだが、いつもカサネの手の震えが酷かったから。いざ始まってしまえば無我夢中で歌う事が出来るのだけど。


 十代の頃にやっていたバンド活動は面白かった。高校では歴史と実績のある軽音部に入部し、地元に小さなライブハウスもあり、環境には恵まれていたと思う。

 しかしそれでも何故アイドルになったのか。

 歌う事はとても好きだった。それでも自分は作詞作曲の才能が無い、それがとっくにわかっていたから。幸か不幸か周りには早熟の天才が何人もいて、自分にはそこそこの歌唱力とずば抜けたルックスがある、という事を高校1年生の時点で悟ってしまっていたのだ。

 自分が彼らに勝てる事があるとすれば「顔面偏差値」だったのだ。

 それならばアイドルとしてトップを目指してもいい。この顔にどれだけの価値があるのか知りたかった。


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