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 巴はガスマスクの中でゆっくり深呼吸する。

 臭くて暗い地下道からようやく外に出られたのだ。空は気持ち良い位の快晴だが、眼前に広がる東京はただの死んだ街だった。たかだかハタチそこそこの小娘である自分に取っては、初めて目の前にする絶望に満ちた景色かもしれない。


 西暦2031年6月1日、六本木で大爆発が起きた。

 首都高の一部が倒壊し、それはある年齢より上の人間に取ってはかつて関西で起きた大地震を思い出させるような大惨事であった。

 最初は巨大隕石の落下かガス爆発か、と報道された。

 それから数時間もせずにあらゆる規制が入り翌日の昼にはヒルズを中心とした東京都心の一部が政府と自衛隊によって完全封鎖された。

 範囲は概ね六本木駅を中心に半径約3キロ程度。西は渋谷駅の辺りまで、山手線が境界となる。東は溜池山王、赤坂周辺まで。ギリギリで国会議事堂、皇居、新宿御苑、代々木公園の辺りは封鎖を免れている。その規制は未だ解かれていない。


 落下したのは隕石ではなく、小型飛行機。その積み荷が毒性で適切な処理が必要で、飛行機の撤去作業にも時間が掛かる。それが政府の発表だった。

 人はずっと、パンデミックや放射能といった「見えない脅威」に対して神経質になっている。

 巴が生まれた頃から、下手をすれば生まれる前からそうだ。


 封鎖当時、六本木周辺にいた人々はほぼ全員早急に避難させられた。

 しかし全てではない。

 一部のビルやマンション居住区に取り残された人が少なからずいた。それなのに警察も消防も自衛隊も政府も逃げ遅れた僅かな人々を見捨てた。

 残された人々を早々に行方不明者として処理しようとしたのだった。

 少なくとも報道を見る限りではそう判断せざるを得なかった。飛行機に乗っていた人々もどこまで無事だったのか、何人死んだのか、そもそも何故東京のど真ん中で墜落事故が起きたのか。明確な発表は未だされていない。


 都心の機能が一部麻痺する事で、少しずつその外側にしわ寄せが行く。

 恐らく封鎖が続けば続く程周辺の治安はより悪化し、不況となり、近隣の高級住宅街の地価は下がり、政府の支持率は下がるだろう。歴史を辿ればわかる。社会が不安定になれば新たなる宗教が生まれ、反政府デモが激化する。既にその片鱗は見え始めている。10年程前の世界的パンデミックをなんとか乗り越えたとは言え、世の中は未だ不安で満ちていた。

 以前から六本木界隈で不穏な事件や事故は何度か起きていたし、封鎖をきっかけに社会は更に不安定になる。その可能性を孕んでいる。

 しかし巴達は宗教でもなければ反政府団体でもない。

 そんな大層な志は無い。

 我々の目的、それは封鎖された六本木に取り残された人を助け出す事。

 そのためになんとか封鎖ラインを越えて渋谷に潜入しなくてはならなかった。


 昭夫の同僚が行方不明になった。

 その人は六本木にある関連会社に出向していて、昭夫は心配していた。

 墜落事故の直後に安否確認は出来た。だが、その後間もなく連絡が途切れた。

 そして行方不明者となった。

 役所が急ぎで作成している行方不明者リストにまだその名前はないが、スマホのGPSは六本木を最後に示している。社用車も1台行方不明。

 その同僚には事故の前後に不審な動きがあった、らしい。

 会社の金を持ち逃げする可能性が捨てきれない。

 そこで会社を上げて捜索に行く事となったのだ。

 警察や自衛隊、本人からの連絡は待っていられなかった。昭夫の会社はインフラに関わる工事を担っているそれなりに大きな工務店で、社長はそれこそ自衛隊の幹部上がりという噂もあればヤクザ上がりという噂もあった。無論その真相を正しく知る者はいない。

 捜索隊として白羽の矢が立ったのは行方不明者のたったひとりの同期だった昭夫だ。そして巴は仕事をクビになったばかりの無職で、臨時アルバイトとして昭夫に同行することとなった。二人は従兄弟同士だ。

 日給は1日2万、法に触れかねない危険な仕事のため成功報酬としての臨時ボーナスも考えている、というのが社長からのお達しだ。何度も役所に掛け合ったが、なかなか中に入る許可が下りなかったので実力行使だ、と。

 実行は6月7日、朝8時に新宿アルタ前で待ち合わせ。

 早起きが出来ない巴は昭夫のアパートに泊まった。

 昭夫の婚約者である茜さんには悪い事をしているなあと思う事もあるが、茜さんの優しさについ甘えてしまう。昭夫と茜さんは中学の時からの付き合いで、巴も昔から妹のように扱われている。申し訳ない。

 昭夫はもしこの仕事が上手く行ったらうちで雇えるようにしてやるよと言った。お前無職だろ、と。その上成功報酬もお前の方が多めに貰えるように掛け合ってやる、と気を使ってくれていた。恐らく自堕落になりかけている巴にやる気を出させるためだろう。目の前に人参を吊るしてくれているのだ。

 巴とは違い昭夫は純粋に人探しのために封鎖地域を目指している。ボランティア感覚だ。

 変わった奴だと思うが、昭夫は昭夫で巴の事をおかしな女だと思っているのを知っている。幼い頃からずっとご近所さんとして付き合って来て、多分血縁じゃなければ全く接点がなかったであろう関係だ。

 今の巴には看護師として忙しく働く母と、近所に住む母の兄家族………昭夫達くらいしか頼れる身内がいない。父は運悪く離れて暮らしている。

 折角入った大学が合わずに直ぐ辞めてしまい、母にぶん殴られて、体力のある若い内にアルバイトでもいいから割の良い仕事を限界までやって少し小金が溜まったらまたどっかの学校に入り直して、と考えていたら糞みたいな理由でバイト先をクビになったのだった。そこで働いた期間はほんの2週間だ。

 それはキャバクラで酔っていた上客と喧嘩になり巴が相手を平手打ちした、という自業自得ではあったのだが、先に巴を怒らせたのはあちらだ。失礼を上手く受け流すのがキャバ嬢の仕事、という理屈はわかっていても我慢出来なかった。巴がまだまだ人として未熟で、現段階で水商売が向いていない事だけはわかった。馬鹿らしくなり髪の毛も金髪から黒髪に戻した。繋ぎの短期アルバイトを繰り返していたところ昭夫に声を掛けられたのだった。

「巴はギャルの癖に足が速いだろ。ギャルの癖にタバコも吸わないしギャルの癖に体力あるから役に立つかなと思って」

 この男はギャルをなんだと思っているのだろうか。


 巴と昭夫は千駄ヶ谷の方から徒歩で、地下水路を通って渋谷の方までやってきた。

 地上はずっと自衛隊によって封鎖されているが、地下にはどうにか抜け穴があったのだ。

 渋谷川と暗渠。

 その存在を巴は初めて知った。そもそも、あんきょ、という言葉を初めて知って、スマホで検索した。しかしそれでもイマイチよくわからず首を傾げていると、昭夫が本を1冊貸してくれた。

「地下水路とか下水道ってこと?」

 そう聞くと、昭夫は「元々あった川をコンクリで上から塞いだやつってこと」と答えた。

 その暗渠の中を歩き、出る場所さえ間違えなければ「封鎖地区の内側ギリギリのライン」に辿り着ける。

 封鎖地区ど真ん中に出られるルートもあるようたが、事故現場の近くになればなる程どうなっているかわからない。そう考えて出来るだけ事故現場と離れた場所から目視して目的地に向かう方が安全だと判断した。

 待ち合わせ場所に着くと社長と最古参の現場監督がミニバンで現れた。巴はその場で臨時アルバイトとしての書類にサインさせられ、昭夫と共に潜入のためのフル装備一式を支給された。

 そして彼らは水道局の検査のフリをしてマンホールを手際よく開けた。

「ここから降りて歩くんだ」

 マンホールの中に社長の声がこだまする。現場監督の滝さんは無言で2人に向かって親指を立てて見せた。

 もし封鎖区域内で自衛隊や警察や政府や役所の人間に会ったら可能なら逃げる、逃げられないなら「事故に伴う水質調査に呼ばれて来ています」と答えてこの身分証を見せろ、と社長にカードを手渡されていた。昭夫の会社は大手の工務店。水道工事も請け負っているので嘘はついていない。そしてこれから向かうのは清掃とゴミ処理を請け負う関連会社の六本木営業所だ。


「場所は六本木ヒルズの先、8階建てのビル」

 昭夫は紙の地図を広げてそう言った。目的地にサインペンで丸がつけてある。

 彼は180センチ以上ある巨体だ。それでガスマスクをしていると、まるでホラー映画に出て来る殺人鬼にしか見えない。

 スマホも持っているし、この閉鎖された地域内でも電波が全く届かないわけではない。少し微弱にはなっているようだが、地上を歩いている分には然程問題が無い。社長はそう言った。それでもバッテリーの事を考えると余り無理はしたくない。荷物は増えるが予備バッテリーとは別に紙の地図も持っていて損は無いはずだ、と昭夫は言い張った。

 巴も昭夫も千葉生まれ千葉育ちだが東京は決して遠い場所ではない。

 土地勘はそれなりにある。昭夫は以前短期間ではあるが新宿周辺で働いていたし、巴も女子高生の頃は山手線沿線の私立高校に通っていた。どうしようもなく頭の悪い女子校だ。

 例のトラブルを起こしたキャバクラも歌舞伎町だった。その頃は母と喧嘩していて近隣の漫画喫茶を転々として暮らしていた。

 しかし少し久しぶりにやって来た東京は人ひとり見当たらない。恐らくネズミしかいない。不気味だ。

「そこの道を真っ直ぐ進めばいいのかな」

 スタートが早かったからだろうか、まだ空は青い。

「真っ直ぐ行って適当なところで右かな」

 2人揃って重いリュックサックを背負い直す。緊急のための武器も持たされているせいか重い。サバゲ―用の銃を少し威力が強くなるように魔改造した程度の物ではあるのだが。どうであれ違法、だと思う。でも今は必要なのだから仕方ない。

「246………首都高沿いに歩くとわかりやすいだけど倒壊したまんまでかなり危ないから、かなり遠回りになるけど青山通りの方から行く方が良いな」

 昭夫は地図を右手に持ったままそう言った。飛行機の撤去もまだ完全に終わっていないと聞いている。

 生まれて初めてガスマスクを装着したのだが、案外性能が良い。思いの外会話には困らない。ヘルメットと一体化したタイプの大分いかつい物だ。

 不意に涼しい風が吹いて首筋を撫でた。

「まだ夏には少し早いね」

 なんとなくセンチメンタルになった巴は夕方の空を見上げる。防護服、とまでは行かないが、それなりの重装備でここまで来た。しかしそれでもほんのり背中が汗ばむ程度の陽気だ。これから梅雨を経て本格的な夏になる。

「夜にまた雨が降るはずだ、急ごう」

 流石にそこまでは掛からないはずだとたかをくくっているが、油断は禁物。

 大股で歩き出した昭夫に巴は早足で続く。下水道を歩くために履いてきた長靴………というより軍用ブーツとでも言うべき履物は地上でも役に立ちそうだ。

信号機は動いていない。


 目的地の場所はわかりやすい。

 六本木で最も有名な建物の近く、坂の下にあると言う。ここからは徒歩で少し掛かるが若い2人に歩けない距離ではない。恐らく順調に行けば1時間も掛からない。道が悪くなければ1時間も掛からない。帰り道の事さえ考えなければなんと簡単な任務だろう。

但し定期的に見回りをしている自衛隊を本当に騙せるのだろうか。封鎖していてもスローチューバー等の動画配信者、野良の自称ジャーナリスト、空き巣狙いの犯罪者まで隠れてこういう場所に忍び込む人間は少なくない。そしてそういう連中がその後どうなったのかは誰も知らない。


「細菌兵器とか毒ガスとか放射性物質が爆発したから封鎖、って話、あれ嘘なんじゃないかな」

 建物の影に身を潜めながら昭夫はそう呟く。

「なんで?」

 巴はもしもの時の武器のつもりで拾った鉄パイプを握り締めて聞き返す。

「少なくとも放射能なら封鎖区域が狭すぎるだろ」

 確かに。かつて東北で起きた地震の時は、原発事故の避難区域はもっともっと広かったと記憶している。これは義務教育で何度も出てくる話だ。

 あの時とは規模と内容の差はあるにせよ、半径3キロ弱というのは素人目には「狭い」と感じてしまう。都市部ということもあり、封鎖線外側には住宅もあり、そこには今でも普通に居住者がいる。ゲートの範囲は思いの外狭いのだ。

「ウイルスの封じ込めが大変なのはわかる、それなら長期間対象区域を封鎖するのはあり得るけど」

「うん、わかる。あのパンデミックの時うちの母さん病院に詰めっぱなしだったから。それでも六本木だけピンポイントで封鎖するのもよくわからない」

「飛行機の墜落にしても少し狭くないか?ヘリなら兎も角毒ガス積んでるとかいう噂の小型以上の飛行機が都心に墜落してこの程度の範囲で済むかなあ」

 そこで2人は息を潜める。見回りがすぐ近くを通ったからだ。幸いにも見つからずに済んだ。

 都心はブロックによっては雑居ビルが密集しているお陰で、意外と隠れる場所には困らない。

「なあ巴、あの見回り自衛隊じゃないぞ。消防でもなきゃ警察でもない」

「なんで?迷彩服じゃん」

 正直巴には全くその区別がつかない。しかし昭夫はむしろ迷彩服でわかる、と言う。

「………あいつら海外の軍人かもしれん」

 昭夫は更に声を絞る。

「………いや、どっからどう見ても日本人に見える、派手髪の日本人」

 双眼鏡はファッションのつもりで持ってきたのだが、ガスマスク越しだと使い辛い事に気付く。邪魔だし持って来なければ良かった。

「アジア系アメリカ人とかじゃないかな」

「いや、なんで米軍がここにいるの。協力に来てるなんて話、聞いてないんだけど」

「流石にそこまではわからん」

 首を捻る昭夫の影に隠れて巴は再び双眼鏡を覗き込む。意味がないのはわかっていてもファッションとしてついポーズを取ってしまう。

「………もし米軍じゃなければ米軍のコスプレをした奴だ。つまり俺達と同じ」

「侵入者かもしれないってことだね」

 大体本物の軍人が、あんな派手な髪色をしているだろうか。やはり偽物かもしれない。つまり「怪しい奴」だからより気を付けなくてはならない。


 静寂に満ちた東京。体を低くして駆け抜けて行く。広い通りでは兎に角早く走るしか無い。途中、墓地の中を走った。恐らく都内ではかなり有名な大きな墓地。非常事態とは言え、こんな場所を走り回って許されるのだろうか。罪悪感に体がひりつく。

「あそこから外に出るぞ」

 昭夫が指差した先に真っ直ぐ向かっていく。


 その時2人の目の前に現れたのは人間の形をした化け物だった。


それはどこからどう見ても「ゾンビ」だった。


 驚いた巴は勢いよく鉄パイプを振り回した。昭夫が持っていた銃を構えるよりも早く。


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