魔王
春雷
第1話
高熱にうなされている息子を医者に診てもらうため、父親は車で先を急いでいた。今はもう日も暮れて、辺りはすっかり暗くなっている。月明かりと、わずかな街灯、そして車のヘッドライトだけが、道を照らしている。一本道で、左側は畑と家々、右側には森が広がっている。
「大丈夫だタカシ、すぐ着くからな」父親は息子に呼びかける。
「うん」と息子は応じるが、その声に力はない。
しばらくして、息子があああ、と叫んだ。
「どうした!?」父親は慌てる。
「お父さん、お、お父さん!」息子は震える声で、「魔王、魔王がいるよ!」
「魔王?」
息子の視界の先、正確に言えば、後部座席の左側の窓から見える景色、その中に、黒い外套を纏って、それは宙に浮いていた。宙に浮き、車を追いかけていた。猛スピードで動いているはずなのに、それはひどく緩慢に動いているように見えた。あるいは、動いていないようにも見えた。
「私は魔王だ」と、それは名乗った。「少年よ、私と共に暮らそう」
魔王は、鉤鼻が特徴的な、老人のような姿だった。耳が尖っていて、黒い髪の毛が逆立っている。
「いやだよお」と息子。
「私は世帯主に憧れていてね、魔界で世帯主になりたいのだ。わしの扶養家族となれ、少年よ。わしの家には信じられないくらい薄いテレビが5台あるぞ」
「いやだよお、少しくらい厚みがあるくらいが、安心するんだよお」
「そうか、ならば、わしの家には鍵盤ハーモニカがたくさんあるぞ。部屋いっぱいにあるぞ」
「こわいよお。お父さん、こわいよお」
「わしはレだけを弾くのだ。鍵盤ハーモニカのレだけをとにかく弾く。誰が何と言おうと、レだけを執拗に弾き続ける」
「こわいよお。目的がわからないよお。どうしてレなんだよお」
「絶対レだけを弾く。ミでもソでもない、レだけを弾く。幼少期から、レだけを弾き続けてきた。今後も絶対レだけを弾く。ただ、死ぬ間際だけは、ファを6回だけ弾こうと思っている」
「こわいよお、意味がわからないよお、お父さああん、僕、いったい何の話を聞かされているの?」
「ファを6回だけ弾く。毎年、書き初めでそう書いている。死ぬ間際にファを6回。絶対わしは、書き初めでそれを書く。寝室の壁いっぱいに、その書き初めが飾ってある」
「何でええ、どうしてそんなことをするの?」
「目的はない」
「こわいよお」
少年は身体を震わせ、涙を流している。お父さん、お父さん、と父親に助けを求め続ける。しかし、父親は、高熱ゆえに幻覚を見ているのだと息子を宥める。
「絶対レだけを弾く。県庁所在地だろうが、そうじゃなかろうが、関係なしにレを弾く。わしは弾くぞお? ずうっと、弾き続けるぞお? 主に県庁所在地で弾き続けるぞお? そうじゃない場所では月1くらいで弾くぞお?」
「こわああああい!」少年はわんわん泣いている。恐怖が、彼の身体全体に染み渡っている。今まで体感したことのない角度の恐怖だ。
「県庁所在地に住むぞお? 鍵盤ハーモニカ片手に、地域の行事にも参加するぞお? そこでもレを弾くぞお? 絶対レだけを弾き続けるぞお?」
「うわああああ、もうやめてよおお」
「でも死期が迫ってきたら、過疎地に引っ越すぞお? そして書き初めを眺めながら、ファを6回だけ弾くぞお? 過疎地でファを6回だけ弾くぞお?」
「うわああ、何でええええ? どういう意味なのお!?」
「わしが鍵盤ハーモニカで弾く音は、一生通して、レとファのみ。レとファのみなんだぞお? うははははは。少年よ、お前はレとファのみを弾く魔王の扶養家族になるのだ。笑え、笑え、うはははははは!」
「ああああああああ!」少年は狂ったように叫んだ。
「タカシ、大丈夫か、タカシいいい!」
父親は車を停めて、息子に駆け寄った。
息子は、宮沢賢治、宮沢賢治ぃ、と言って、気絶した。父親には、彼の言ったその言葉の意味が理解できなかった。
それは、魔王がギャルゲーをやるときのユーザーネームである。
魔王 春雷 @syunrai3333
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