この美しき箱庭の外

ひづきすい

本編

 彼女を初めて見かけたのは、この『箱庭』に来て二年目のとき、美術室の前を偶然通りかかったときだった。

 彼女はキャンバスめがけて、一心不乱に筆を叩きつけていた。絵の具を適当にばら撒いたような、意味不明な絵。彼女が何を描こうとしているのか、わたしにはさっぱり分からなかった。けれど、わたしは引力に吸い寄せられるように、美術室に入っていった。なんでそうしたのか、なんて、一生かけても分かりっこないだろう。

 ドアを閉めるとき、わたしは廊下を行く人々を見た。彼らが忙しく行き交う様は、まるで荷物運搬のロボットのよう。誰にも、わたしが心奪われたあの絵が見えていないようだ。

 わたしは足音を殺して、キャンバスの間近に迫った。見たこともない色で塗られた、異質な何か。そっと触れると、乾きかけの絵の具が指先に纏わり付いた。

「それは青色だよ。空の色、水の色。ああ、君の瞳の色でもあるね」

 彼女は不意にそう言ったので、わたしは思わず飛び退いた。その勢いで、イーゼルに足を引っかけて転んだことは、今でも忘れられない。

「ごめんよ。驚かせるつもりはなかったんだ」

 彼女はそう言って、絵の具まみれの手を差し伸べた。わたしは強打した腰をさすりながら、その手を見上げた。彼女の顔が視界に入ったとき、わたしは冷水と熱湯を同時に浴びるような、そんな衝撃が全身を迸るのを感じた。


「Q.この『箱庭』は何のための施設か」と問えば、全員が

「A.ハクスリー・センターから送られてきた十五歳の子供に適切な教育を施し、社会的生産活動に適応させるための教育・矯正機関である」という答えを返す。

 それはまさに百点満点の回答で、これ以上の情報は必要なければ、不必要な情報は一つも含まれていない。わたしたちはここで、大人になる準備をする。大人になるために必要なことを学び、大人になるために必要な身体的・精神的調整を受ける。その一環として、この『箱庭』には必要以上の色が無い。建物や庭は全て白色で構築されていて、わたしたちが使う教科書にも、白と黒以上の色は無い。全てが二色以内で塗られていて、わたしたちはそれにすら気づかない。

「現在の社会において、白と黒、及びその混合によって作られる色の他に、必要なものはありません。あなたたちの世界は、何から何まで白黒の世界なのです」

 毎日、授業が始まる前には、先生はわたしたちにそう言い聞かせる。多くの生徒にとっては、さっぱり意味の分からないことだ。彼らが認識できるのは白と黒だけ。それが世界の全てであるのだから、他の色なんてハナから存在しない。

 わたしはと言えば、大部分は他の生徒と大差ない。白い髪、白い肌。けれど、わたしの目だけは、それ以外の色があった。他の人はみんな、わたしの目は黒いと言うけれども、鏡を見つめるといつもそこにあるのは、何かしらの色がある瞳だった。わたしはそれが嫌で嫌で仕方がなかった。みんなが生きている世界の外に、わたしは生きているような気がしてならなかった。

 その目の色が『青色』であるということを、わたしは彼女から教えられた。あの日、美術室で、彼女は転んだわたしの手を引き上げようとはせずに、逆にわたしの上に覆い被さってきた。呼吸音がはっきりと聞こえるほどの近い距離に、彼女の瞳があった。わたしの目とは違う色だ。

「ああ、何て綺麗な青色なんだ。こんなに綺麗な色は見たことがない」

 彼女は覗き込むように、わたしの瞳を見ていた。

「『青色』って何ですか。水にも、空にも色は無いんじゃ…」

 荒ぶる呼吸を制して、私は彼女に問いかけた。水も、空も、わたしは知っていたから。毎朝飲んでいる水に色は無いし、庭から見上げる空は白かった。わたしの瞳の色と同じはずがなかった。

「それは、君が本当の色を知らないからだよ。水は確かに透明だけど、海の水は青色だ。空だって、ここの外の空は青いんだよ。君の瞳がそうであるように」

 わたしの目と同じ色の空、わたしの目と同じ色の水。まるで想像のつかない世界だ。けれど、なぜだろう。その景色を見てみたいと思ってしまうのは。

 彼女は立ち上がって、もう一度わたしの手を掴み、引っ張り上げた。わたしは彼女の瞳に夢中になっていて、礼を言うことを忘れていた。

「君は色が見えるんだね。私の瞳の色も、分かるのかな」

「わたしとは違う色です。でも、何ていう色なのかは分からないです」

 わたしは夢見心地で答えた。この色は何と呼べばいいのだろうか。そのことで、頭がいっぱいだった。

「私の瞳は『赤色』なんだ。燃えさかる炎の色、私達の身体を巡る血液の色でもある」

 彼女はそう言うと、軽やかな足取りで美術室から去ろうとした。

「待ってください。あなたの名前は何ですか。わたしは-」

 言いかけたところで、彼女は振り向いて、人差し指でわたしの口を塞いだ。

「名前なんて要らないわ。赤い瞳の私と、青い瞳のあなた。それだけで十分」

 彼女はそう言い置いて、目を白黒させているわたしをよそに、消えてしまった。


 それから、わたしは授業が終わるとすぐに、何かに誘われたように美術室へ行くようになった。わたしが美術室のドアを開けると、そこには決まったように赤い目の彼女がいて、何かを書いている。どこかの風景を描いているときもあれば、狂ったように絵の具をキャンバスにぶちまけているときもあった。いつでも同じだったのは、彼女は白と黒を頑なに使おうとせず、白いキャンバスの隅から隅までを、何かしらの色で塗りつぶしているということだけだった。

 わたしも彼女の真似をして、キャンバスの前に座ってみることにした。けれど、何を描けばいいのか、さっぱり分からなかった。授業でするデッサンは、白と黒の絵の具しか用意されていなかったから。そうなると、わたしは決まって赤色の絵の具をとって、適当にキャンバスを汚していた。

 彼女は絵筆を走らせながら、わたしが知らないことをよく話してくれた。例えば、どうしてわたしたちだけが、色を見ることができるのか、とか。

「私達は生まれた瞬間から、色を見ることができないようにされている。遺伝子の一部を書き換えて、色彩を認識できないようにしてしまうんだ。けれど、それでは不十分なんだ。子供の脳は賢くて、色を認識できなかったとしても、それを補おうとしてしまう。ここでやっていることは、色を補完できないように、白黒の世界に子供達を染め上げる作業なんだよ」

 わたしはその話を、疑念混じりに聞いていた。一度、その情報はどこから仕入れたのか、と訊いてみたが、彼女は微笑むばかりで、答えてくれる素振りは見せなかった。

「多くの子供は、人為的に色覚を阻害されている。だから、私達は特別なんだよ」

 特別、という言葉に、わたしは頬が緩むのを自覚した。今まで、自分の瞳を見ることが嫌で嫌で仕方がなかったけれど、今となっては、むしろ誇らしくあった。

 わたしから振る話題は、色の話ばかりだった。この色は何色で何の色なの。わたしは彼女のキャンバスを見る度に、そう尋ねた。彼女はひとつひとつ、丁寧に教えてくれた。

「これは緑色。木の葉っぱの色だね」

「これは黄色。夜の月の色だよ」

「これは紫色。夜の空は、私にはこの色に見えるね」

 新しい色を教えてもらう度に、わたしの世界が少しずつ色づいていくのが分かった。今まで、白一色にしか見えなかった庭や建物、空にも、彼女がキャンバスに描くような色彩が現れ始めた。その色彩は想像の産物に過ぎなかったが、わたしはそのとき初めて、この『箱庭』の景色が美しいと思えた。


 月日はまるで光のように過ぎ去っていった。わたしは退屈な授業を右から左へ聞き流し、彼女から聞かされる色の話だけを楽しみに、残りの年月を過ごした。わたしたちの世代が箱庭を出る頃には、わたしは極彩色の世界を体感することができるようになっていたが、それをひけらかすようなことはしなかった。この『箱庭』の中で色を感じることは、本来あってはならないことなのだから。

『箱庭』を出る日が来て、わたしたちは大きな門の前に集まっていた。わたしは辺りを隈なく見渡したが、彼女の姿は見えなかった。けれど、今のわたしにとって、そんなことはどうだってよかった。あの門が開けば、本物の色彩の世界がわたしを待っているのだから。想像で補う必要のない、本物の世界が。

 隣を見れば、そこにいるのは黒い目をした、色を見られない人々。本当の世界の色を知らないまま、人生を終えるであろう人々。外に出たら、わたしが彼らに本当の色を教えてあげよう。そうだ、それがいいに決まってる。

 やがて、ゆっくりと門が開いた。わたしは眩しい光に身構えたが、その必要はまるで無かったことを、すぐに思い知った。隊列に従って進んで行くと、そこにわたしが期待ていた青い空は無かった。空は鉛色の雲に覆われ、大地はどこまでも灰色のコンクリートが広がっていた。おかしい、こんなはずじゃないのに。わたしは彼女から聞いた、美しい青空を想像しようと努めた。それこそが、本来の空の色のはずだ。けれど、それは叶わなかった。空はいつまでも、鉛色のままだ。

 わたしは雑踏の中で膝をついた。黒い瞳の行軍は、わたしを避けて進んでいく。わたしの後で、門が無慈悲に閉まる。全てがわたしを置き去りにして過ぎ去っていく。取り残されたわたしは、遙か遠くの工場群の煙突から、彼女の瞳と同じ色の炎が立ちのぼるさまを見ていた。

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