短編のごった煮

@hori2

グラスベースボール!  

 熱い。


 額を流れる汗を手で拭う。照り付ける太陽が体全体を熱している。その感覚に奇妙な心地よさを感じていた。


 にいと彼女は笑った。野球帽をくいっと上げて、きらきらと大きな瞳で周りを見る。そして太陽に負けないくらいの笑顔で叫んだ。


「ワンナウトォー!」


 右手にはグローブ。反対には白い軟式ボール。


 小柄な彼女はピッチャーマウンドの上で大きく手を上げる。守備についているダイヤモンドを囲む内野も遠くにいる外野もそれぞれ返事をした。それに満足したのか彼女はバッターボックスに向き直った。


 大柄の男性がバッターボックスに入る。筋肉質、というよりビールで作ったようなお腹だったが、その両手は黒く焼けていてなかなか威圧感があった。ピッチャーの少女と同じように小柄なキャッチャーが座る。


 じりじりじりと焼けつくような感覚が好きだった。ピッチャーをやっていて、こんな瞬間が好きだった。ボールを握り、サインに頷く。


 足を上げて強く踏み込む。指ではじくようにボールを投げ込む。


 白いボールがまっすぐにキャッチャーミットにめがけて奔っていく。バッターは思い切りバットを振った。一瞬の間の後に審判が「ストラーィーク」と甲高い声で叫ぶ。相手のベンチも味方の守備もわあわあと騒めく。笑い声すら聞こえた。


「いよっし」


 ピッチャーが小さくガッツポーズ。キャッチャーが立ち上がって、返球する。


「向日葵。ナイスボール」


 かわいらしい声。キャッチャーマスクの下は見えないが、もしかしたら女の子かもしれない。向日葵と呼ばれたピッチャーがしゅっとグラブでボールを掴む。へへ、と言いながら唇をなめる。


 そして第2球、今度は外角に投げる。彼女は大きく振りかぶって足を踏み込む。最高の感覚、向日葵は手を離れるボールに確信を持って投げこんだ。


 しゅーと音を立ててボールが走っていく。キン、と金属バットの芯に当たってそれは強く打ち返された。


「うそっ!?」


 向日葵はあれ? っとした顔でボールを目で追う。レフト線に高く上がっている。


「光!」


 レフトにはわたわたと動く影があった。ぶかぶかの帽子が左右に揺れている。彼女も少女だった。光と呼ばれたショートカットの彼女は後ろにいったり前に行こうとしたり、遠くからでも慌てているのが分かった。


 ぽーんと光の後ろにボールが落ちる。あわてて彼女は取りに行って、弱々しく内野に返球する。


「どんまいどんまい!」


 そんな様子を見て向日葵は明るく言った。みたらファーストベースにさっきのバッターは止まっている。どことなくほほえましく彼女たちを見ている。本来であれば2,3塁には進めただろう。


 これは草野球。町はずれの球場で行われる、勝負といえば勝負。違うといえば違う、そんな世界。ただし彼の味方ベンチからは「かっこつけるな」とか「走れ」とかヤジが笑い声とともに飛んでいる。


ピッチャーの少女はへこまず、「いょーし」と次のバッターを待つ。


 次のバッターが打席に入る。大柄だった。引き締まった体に精悍な顔つき。そして手に持っているのは「木製バット」。


「たーいむ」


 キャッチャーがそういって向日葵に走っていく。彼女はキャッチャーマスクを外す。大きな額の印象的な赤い縁の眼鏡をつけた少女だった。


「燐ちゃんどうしたの?」

「あの人、大学野球の現役レギュラーだって」

「え! まじ!?」


 キラキラした目で期待する向日葵。燐はあきれた顔で言う。


「はー……。甘いボールはだめだからね。小6相手に本気なるかはわかんないけど」

「…………」


 燐はそれだけ言って離れていく。プレイがかかったとき向日葵は「ちょ、ちょっとタイム」と叫んだ。なんだなんだと皆の視線が集まる中、彼女は手に持ったボールをバッターに向けた。


「お兄ちゃん! 本気のしょーぶしようぜ!」

「…………」


 大学生は一瞬あっけにとられたような顔で自分のベンチを振りかえる。燐は天を仰いでいる。むしろ囃し立てたのは周りだった。おぉーっと周りが向日葵をたたえる。大学生は「よーし。こい!」とぎゅっとバットを握った。


 向日葵はセットアップポジションを取らない。大きく振りかぶって、全力で投球する。


 初球だった。大学生のバットの芯に当たってシューっと二遊間に飛んでいく。


「うおおお!」


 ショートが叫んだ。飛び込んでノーバウンドでキャッチする。歓声が上がった。ショートの帽子が取れて、金髪があらわになる。


「おらー! ファースト!」


 ショートがボールを投げる。


「やばい」


 ショートも十分な体勢ではなかったのだろう、バウンドする起動だった。だが、ファースト足を延ばしてショートバウンドした球を救うようにキャッチした。


それを見て向日葵ははじけるように叫んだ。


「やったー!」


 ☆


「ごめん、向日葵ちゃん」


 手を合わせて謝るのはレフトの光だった。癖の強い短い髪のかわいらしい少女だった。向日葵は何のことかわからず、スポーツドリンクを飲みながら「??」と固まった。


「だから、さっきのことでしょ」


 その頭を燐がチョップする。


「あー、いーよ。別に」


 やっとわかったのか向日葵は光の肩を叩いた。今は7回の裏の攻撃。点差は6-5。草野球である。打たれるし、打つ。そして9回までやらないことが多い。ちなみに負けている。


「それより応援しよ! かっとばせー」


 向日葵が応援するのは先ほどショートを守っていた青年であった。金髪の彼は「おっしゃー!」と叫ぶ。一見不良のような彼だが、バッターボックスに入るまえに「あ、おねがいします」と言ってはいる。


 相手ピッチャーは疲れていた。棒球になっているところ彼は強振してレフト前ヒットを放つ。そして次のバッターはファーストを守っていた青年だった。いや少年と言っていいだろう。


 向日葵たちのような小学生ではない。大人と子供のはざまのような顔つき、高校生の彼は黙ってバッターボックスに入る。


「悠くーん! 頑張れー」


 向日葵が「悠」と呼んだ。彼は振り向きもせず構える。相手のピッチャーがサインにうなづいてセットアップから投げ込む。


 きれいなフォームだった。悠は内から外へバットを繰り出した。キンと心地よい音がして白球が角度をつけて上がっていく。それは弧を描き、スタンドに入った。


 歓声が沸きがある。向日葵と光が互いの手を握って喜んでいる。ベンチは盛り上がり、かといって相手チームのベンチもすごいと声を上げる。


 打った当の本人は何もなかったかのように悠々とダイヤモンドを回って、ホームに帰ってくる。サヨナラホームランにチームの全員が彼をホームで迎える。悠は困ったよう顔で帰ってきて、愛想笑いのようなぎこちない笑顔で祝福を受け入れた。


 とにもかくにも試合には勝った。


 試合が終わった後は全員でグランドをトンボがけして、あとは好きに帰ることになる。


 向日葵は光と燐の3人でビニールシートの上で胡坐をかいて弁当を開いている。3人とも上半身のユニフォームを脱いでアンダーシャツになっている。日影になっているところで3人おにぎりを食べている。


「勝った勝った」


 おにぎりを頬張りながら嬉しそうに向日葵は言った。帽子を脱いでポニーテールにしている黒髪が肩にかかっている。


「でも6失点もしたね」


 燐は冷静に言う。うぐと向日葵は反応したが、あえて何も言わない。


 彼女たちのチーム「春日丘 ファイターズ」は比較的若いチームだった。若いというのは設立されてからの年数が若いというのもあるが、所属している人間も若い。彼女たちは近くの小学校に通う6年生だった。


 それ以外にも学生が数人。ただもちろん社会人も所属している。ある意味草野球というものを体現したようなチームだった。基本的に来るものは誰でも拒まない。年齢で明確に区分されたリーグとは趣が違った。


 向日葵は球場の駐輪場に人影を見つけて、立ち上がった。


「おーい! 悠君!」


 悠と言われる少年は振り返った。自転車に跨ろうとしていたところだったが、ふうと息を吐いて彼女たちのいる方に向かう。


 悠は高校生だった。


 向日葵はソックスのまま駆け出して、むしろ彼に近づく。


「悠君、悠君。今度変化球教えてよ」

「……小学生は肘とか負担があるから駄目だ」


 向日葵はちぇーと露骨に顔に出したが、悠は彼女のそんな様子にふっと笑った。彼はそれだけで踵を返した。その彼の服を引っ張るものがいた。光だった。


「あ、あの。フライとるやり方を教えてほしい……です」


 ☆


 外野の一角を借りてのノック練習。悠がバットをもって器用に高いフライを上げる。彼にボールを渡しているのは向日葵だった。燐はキャッチャーミットをつけて、返球を取るために立っている。


 キーンといい音がして悠の打球が青い空に上がっていく。蝉の声が響く中をまっすぐに上がって青い空の中の白い点になる。


 それをわたわたと光が追う。やはり距離感が分からないようでじぐざぐに走りながら、手を下にしたり上にしたりしている。そして空から降りてきた白球が彼女の後ろではねた。


 悠は気にしないようにと声をかけて2球目を打つ。


 そんな感じでゆるくフライ補給の練習が続く。向日葵も燐も頑張っている光のために大声を上げて応援する。捕れそうになったら嬉しそうに声をあげるし、とれなかったら残念そうにやはり大きな声を上げる。


 悠はその中で黙々とノックを続ける。


 それを横目で見ながら向日葵は何となく懐かしくなる。彼女に野球を教えたのも悠だった。投げ方も打ち方も守備もすべてにおいて彼女にとって悠は先生ともいえる。


 一年前に向日葵はこの野球チームに入った。父親が先にやっていたから始めたのだが、野球という競技自体はそれが初めての経験だった。


 最初はぼんやりと始めて試合ではエラーと三振の山。生来明るい彼女も落ち込んでいた。


 そんな時に加入したのが悠だった。彼が参加した日はよい天気で、明るい日だった。彼はバッターボックスに入って相手ピッチャーのボールを逆らわずに打った。


 放物線を描いてライト方向に飛んだ。青い空を白いボールが飛んでいく。


向日葵はその日のことが目に焼き付いて離れなかった。きれいに飛んでいく打球、心地よいバットの音。悠の姿。それを純粋に彼女はかっこいいと感じた。


 だから彼女はその日のうちに彼に弟子入りをした。弟子というよりは「教えて!」と迫った。悠も困った顔をしたが、仕方なく基礎から彼は教えてくれた。


 次の試合で向日葵はヒットを打った。ヒットと言っても内野ゴロを一生懸命に走ってヘッドスライディングもどきの飛び込みをファーストベースにしてなんとか間に合ったのだ。それでも、セーフという塁審の声を聴いたときに向日葵は心の底から喜んだ。


 彼女はバットの振り方から、当て方も悠に習った。ノックをしてくれて守備の練習もしてくれた。だが彼は決してボールを投げなかった。


「肩がさ、これ以上は上がらないんだ」


 寂しそうに言った悠の顔を向日葵は覚えている。それは彼が高校野球をせずに草野球をしている理由だと彼女にも分かった。事故だろうか、ケガだろうか、それは聞けなかった。


 それから向日葵が半ば強引に連れてきた燐、そしてなんとなく一緒に始めることになった光。彼女たちにも悠は自分の知っていることを惜しげもなく教えてくれた。野球を教えているときはいつも寡黙な彼でも楽しそうだった。


 今日も光の練習をしてくれる悠の横顔を見ながら向日葵は自然と口に出した。


「悠君はすごいね」


 いきなり言われて悠は「は?」と口を開けて驚く。


「何が?」

「なんとなく」


 向日葵は抜けた答えを満面の笑顔で返す。悠も近くにいた燐も「意味わかんない」と噴き出してしまう。向日葵も一緒に笑った。


 練習を続ける。光はなかなかフライがとることができなかった。彼女に対して悠は自分でボールを空に上げて、捕るという簡単な練習方法を教えた。


 光はよーしと言って空に向かってボールを投げる。すると角度をつけてしまい、ちょっと離れたところに投げてしまった。慌てて彼女は追っていく。


「わわ」


 ボールを追ってどこかに行ってしまう光を見ながらほかの3人も笑った。


 ☆


 悠のことが向日葵は好きだった。


 恋愛感情と言えるようなものではなかった。ただ、彼のことが純粋に「好き」なのだった。向日葵は彼といると単純に楽しいと感じる。野球も好きだった。だから今がずっと続けばいいのにと何となく考えていた。


 彼のことを見ていた。そのしぐさもあまり変わらない表情のほんの少しの違いも何となく分かる。


 だから帰り道でそれは分かった。


 4人はグラウンドから離れて、歩いて帰っていく。向日葵と悠は自転車を手で押して帰る。他の二人は親に送ってもらったのだが、悠たちに合わせて歩いて帰っていた。


 夏の盛りだった。夕方になっても熱い。向日葵はバッグに入れたぬるいスポーツドリンクを飲んで、うえーぬるいと口に出した。早く帰ってお風呂に入って冷たい麦茶でも飲みたかった。


 駅前の広場に差し掛かったところふと悠が立ち止まった。彼の視線は駅の建物に備え付けられた野外ディスプレイに注がれていた。


 高校野球がそこには映っていた。甲子園の映像だろう。悠と同じくらいの年の少年たちが写っている。泥だらけになりながら一生懸命に野球をする姿が流れている。


「あ」


 向日葵はその姿に気が付いた。悠の表情をいつも見ていた彼女だから、気が付いてしまったといった方がいいかもしれない。


 悠が視線を切って歩き出そうとしたとき、その背中に向日葵は言ってしまう。


「悠君。高校の野球部に入らないの?」


 ぎょっとした目で横で燐が見た。悠はぴくりと体を震わせて立ち止まる。彼は答えずに顔半分だけ振り返った。


 その目には憎悪があった。


 悠のそんな顔を見たことがなかった向日葵は悲鳴を上げそうなほど怖かったが、だが彼女はつづけた。


「悠君くらいうまかったら、甲子園でもなんでも行けるとおもうよ」

「…………僕は、肩が上がらないんだ」


 怒りを抑えた声で悠は絞り出すように言った。その彼の姿が過去にあった彼自身の葛藤を映していた。向日葵は体が震えそうだった。その恐れを振り払うように叫んだ。


「……でもさ! 悠君は野球やりたいんだよね!? だからうちのチームに入ったんだよね!」


 向日葵は自分でも何を言っているのかわからなくなりそうだった。だが、何かが彼女に言葉を紡がせた。


「逃げたらきっと後悔すると思う!」


 悠は振り返った。その顔には怒りをあらわにして真っすぐに向日葵をにらみつけていた。


「お前に」


 低い声だった。


「何が分かる」


 わかったから言っちゃったんだ。向日葵はそうやっと後悔した。純粋な敵意に唇を噛んで耐えながら彼の視線をまっすぐに受け止める。


「わかった。僕は……チームをやめる」


 向日葵はその瞬間に体中が冷たくなるのを感じた。自分で言っていて、その言葉だけは聞きたくなかったんだとわかった。離れるのは嫌だと思った。しかしもう止まらなかった。彼女はポケットに入れてた野球ボールを掴んで彼に向けて突き出した。


「いいよ」


 よくない。全然よくない。心の声を殺して向日葵は言う。


「辞めるなんて悠君の勝手だよ。でもさその前に……私と勝負しよ」

「……なに? いきなり意味が分からない」

「勝負。悠君がバッターで私がピッチャー。悠君が打ったらもちろん悠君の勝ち。三振したり打ち損じたりしたら私の勝ち!」


 蝉の声が響いている。悠は言う。


「そんなことをして僕に何の得があるんだよ? 君が勝ったらチームをやめないようでほしいってことか……?」

「ちがうよ」

「違う?」

「私が勝ったら悠君が一番やりたいことやってほしい。負けたら……私もチームをやめる」


 燐と光が「えっ」と声を出す。悠はただ無言で彼女を見た。


「…………いいさ。グラウンドでやるのか?」

「うん。3日後くらいにどうかな」

「いつでもいいよ。野球なんてこれきりだ」


 悠は吐き捨てるように言った。彼は踵を返して一人帰っていく。その姿を向日葵が固まったまま見ている。燐がやっと声を出した。いや向日葵につかみかかった。


「あんた! なんでいきなりなに言ってんの!? 馬鹿じゃないの?」

「…………」

「あんなこと言われたら傷つくにきまってんじゃん!!」

「…………」


 向日葵は最後の「これきり」という言葉が頭の中で反芻していた。でも分かってしまったのだった。ずっと見てきたのだから。向日葵はさっきまでの気丈さもいつもの明るさも消えて涙声になっていた。


「ゆうくんがさ……かなしそうだったから……だから、言っちゃったの」


 向日葵と燐が駅のモニターに映る高校野球を見る。


「あれ、あれをみててゆうくんのかお、すっごくかなしそうで……でも、なにを言えばいいかわからなかったから、あんなこといった……」


 燐はいつも明るいはずの向日葵の姿に何も言えなくなった。彼女を掴む手に自然と力が入る。頭が何を言えばいいのか探している。


 向日葵に誘われて野球なんて始めた燐だが、正直に言えば今が楽しかった。それは向日葵の底抜けの明るさがあったからだと燐は決して言わないが思っている。


 キッと燐は顔を上げた。怒ったように言う。


「あんたが言ったことじゃん! 勝負するなら勝たないといけないんでしょ! 私も手伝ってあげるから、シャキッとしなさいよ!」


 燐はじっと向日葵をみる、向日葵は涙を流しながらずびと鼻をすすって。


「燐ちゃん……こわ」

「今言うことじゃない! 明日から練習!」


 それだけ言うと二人は少しだけ笑う。


 その様子を困惑しながら光が見ていた。彼女は何も言えず、向日葵と燐に手を伸ばそうとしてできなかった。



 時間はすぐに過ぎていく。3日という時間は何をするにしても時間が足りなかった。それでも太陽は昇り朝は来た。


 響く蝉の声。今日も空は青かった。


 場所はあのグラウンドだった。向日葵と燐は先に来て、キャッチボールをして準備をしていた。そこに悠が無言でやってくる。彼は何も言わずにバットをもってグラウンドに入ってくる。彼は向日葵をにらみつけて短く言った。


「早く終わらせよう」

「……」


 向日葵は燐を見る。燐はキャッチャーの防具を身に着けている。彼女はうんと頷いた。


それを見てから向日葵は大きく息を吸った。野球帽のつばを掴んで彼女は目を閉じる。手に持った軟式の野球ボールを額に当てた。

 次に彼女が目を開いたときまっすぐに悠を見ていた。


「いいよ。勝負だ」


 彼らはグラウンドで対峙する。


 ピッチャーマウンドの上で向日葵は一度空を見る。どこまでも青い。そのくせ熱い。彼女は息を吐いた。それからバッターボックスで静かに向日葵をにらむ少年を見た。


 悠はゆっくりとバッターボックスに入る。ヘルメットなどは被っていない。静かにバットを構えた。向日葵は彼の打撃の力を知っている。知っているからこそ、その構えが恐ろしく感じた。


「向日葵!」


 燐がばんとキャッチャーミットを叩いて叫んだ。彼女の声で向日葵は一瞬気圧されていた自分に気が付いた。だから、一度だけグラブを外して脇に挟み、自分の頬っぺたを両手で叩いた。じーんとした痛みに目が覚めた気がする。


「よーし!」


 向日葵はいつもの明るい声をだす。プレートを踏み、構える。それをみて燐もうっすら笑い、キャッチャーとして座った。


 一打席勝負。それだけだった。


 向日葵はピッチャーとしてとびぬけているわけではない。小学生並みの球速しかない。それでも彼女は手に持ったボールに意識を集中させた。いや、それは正確ではないかもしれない。


 足を上げる。大きく振りかぶって第一球を向日葵は投げる――そのボールには彼女の気持ちがこもっていた。


 まっすぐに白球が奔り、燐のキャッチャーミットに収まる。パーンと心地よいキャッチャんぐ音が響いた。悠は見送った。彼は言う。


「ストライク……」


 燐はその言葉を聞いてむしろ怖くなった。わざと見逃された気がしたのだ。だが、この第一球が問題だった。一打席勝負。向日葵の持っている球種やコントロールから悠を抑えることができる方法は限られていた。


 ――いい? これは切り札だからね。


 燐はこの3日間で何度か向日葵に言ったことを思い出した。彼女はボールを向日葵に投げて。座る。第二球の前に彼女は手でサインを出す。


 向日葵は頷かない。反応してないのではない。悠を油断させるためだった。彼は向日葵が持っているのはストレートだけだと思っている。


 ピッチャーの足が上がる。向日葵また振りかぶって投げる。


 フォームが微妙に違う。球速が遅かった。ボールはゆるやかな弧を描いた。カーブ。基本的な変化球の一つ。しかし、向日葵がここ3日でにわかでも取得した球種だった。


 悠のバットが閃光のように走る。鋭い金属音。ミートされた音だった。その次の瞬間にガンっと何かに当たった音がした。悠が打った打球がグラウンドのベンチに当たって転がった。ファールであった。


 悠はちっと舌打ちをした。初めての球種だろうと所詮は遅く、変化量も脅威ではない。彼はそれを見てすぐにミートした。ファールになったのは向日葵たちのただ運がいいだけだった。


 向日葵はいつの間にか汗だくになっている自分に気が付いた。それなのに体が冷たく感じる。あと一球なのだった。それでもその一球が打たれるイメージがどうしてもちらつく。バッターボックスに悠が無言で入るのが怖かった。


「……はあ、はあ。あと一球」


 ボールを握る。あと一球。彼女はそう言った、ボール球を出すなどとは考えなかった。いや、考える余裕がない。初めて投げた変化球も打たれた、もともと彼女のストレートなど悠には通用しない。


「向日葵!」


 燐の声が今度は遠く感じた。代わりに蝉の声がうるさかった。向日葵は初めて逃げ出したいような気持になった。できれば悠と野球を続けたかった。なんであんなことを言ったのだろうと記憶がよみがえってくる。


 悠の悲しそうな顔を思い出した。


 向日葵は目を開く。


「そうだ」


 そうだった。ここに来た理由を彼女は思い出した。そうすると熱いという気持ちが戻ってきた気がした。照り付ける太陽が肌を焦がすような感覚に心地よさすら感じる。向日葵は息を吐いて、言った。


「悠君! 次の一球がしょーぶだ!」


 悠は答えなかった。しかし、向日葵はつづけた。


「これで私が勝ったら、悠君は野球を続けてよ! このチームじゃなくてもいいから!」

「……」


 悠は怒りにバットを握りしめた。彼の表情は変わらないようでいて静かな迫力があった。そんな彼に向日葵は笑った。


「野球楽しいって! 悠君が教えてくれたんだから!」

「うるさい……黙れ! 黙って投げろ!!」


 悠は叫んだ。言葉を吐いた瞬間に彼の脳裏に様々なことが一瞬だけ思い起こされた。怪我でボールをまともに投げられなくなったことも、泣いたことも誰にも言わずに押し殺してきた。それをこじ開けようとしてくる彼女に心底怒りを持った。


 なのに一瞬だけ最初に向日葵に野球を教えたときのことを思い出してしまった。彼の記憶の中でも彼女は笑っていた。


「…………打つ」


 唇を噛んで一瞬の映像を断ち切る。足場を固めて構えなおす。それを見て向日葵も構えた。ボールにありったけの思いを込めるように一度だけぎゅううと握る。


 燐がカーブのサインを出す。それにゆっくりと向日葵は首を振った。それだけで燐もわかったように真ん中に構える。向日葵は笑った。


(ありがとう燐ちゃん。私は、ただ全力で投げる――)


 足を上げる。


 振りかぶって。


 向日葵は投げた。


 白球が奔る。最高の感触が彼女にはあった。


 悠は前に踏み込む。バットを最短距離でボールを捉える。その一瞬に向日葵は叫んだ。何を叫んだかは自分でもわからない。


 澄明な金属音とともに空にボールが打ち上げられる。高く上がったボールは外野に飛んでいく。それを見て向日葵は「あ」と言って膝から無意識に崩れていた。打った悠も笑わなかった。


 青い空に一つのボール。


 外野に一人の影。ファールグランドから飛び出してきた小柄な少女。手にはグラブをはめていた。


「光!?」


 光だった。彼女は走りながら言った。


「まだだよ! 捕ったらアウトだもん!」


 向日葵が驚く。向日葵はまっすぐにボールに向かっていく。彼女の足で間に合うかわからない。だから向日葵と燐は大声を出した。


「光! 捕って!」

「お願い!」


 光は  必死に走る。3日間彼女はただただ悠に教えてもらったボールのとり方をずっと練習していた。もしも自分が役に立つならと思ってここまで来たが、今まで見守るしかできなかった。


それでも彼女は今、白球を追いかける。落ちてくるボールに手を伸ばす。


 体勢を崩した。それでも光はボールに手を伸ばす。転ぶように落ちてきたボールを巻き込んで彼女は倒れた。


 一瞬の静寂があった。


 外野でむくりと体を起こした光はグラブを掲げる。その中にはボールが入っている。


「あ、ああ。やったー!」


 向日葵がその場でガッツポーズをして空に向かって叫ぶ。燐も向日葵に走っていていって飛びついた。二人の少女は笑いながら泣いて喜んだ。


 その様子を悠は見ていた。呆然とバットを片手に持ってたたずんでいる。蝉の声がうるさいとだけ感じた。きらきらと太陽の下で笑う3人の少女がまぶしすぎた。彼はそれに耐えきれなくなって踵を返した。


「悠君! 待って!」


 向日葵の声がした。悠は振り向かず走っていく。



 あれから数日が過ぎた。もちろん草野球に悠は顔を出さなかった。


「はあ」


 学校の帰り道で向日葵はため息をつきながら歩いていた。ランドセルを背負って歩く彼女は年相応といった姿だった。彼女は悠を心配しつつ、やっぱり余計なことをしたのかなと悩んでいた。


 ふと立ち止まってみると夕日が見えた。その道の先に一人の少年が立っていた。誰かは分からない。学生服に野球帽子を深くかぶっている。もみ上げが切りそろえられているのは帽子の中が坊主なのだろう。


「……向日葵」


 少年が話しかけてきた。その声で彼が悠だと向日葵にはわかった。


「え? 悠君?」

「…………一応、勝負だったから、野球部に入った。最初はマネージャーとしてだけど」


 帽子のつばをつまんで恥ずかしそうにする悠を見て、向日葵はぱあと花が咲いたように笑顔になる。それを悠は直視せずにポケットに手を入れる。そこから取り出したのは軟式のボールだった。


「高校野球は硬式だから、これやるよ」


 そう言って悠は利き手とは「逆の手で投げた」。しゅっと弧を描いて向日葵の胸元にボールが行く。彼女はそれを両手でつかんで、驚いた顔で悠を見る。


「……投げれるように練習して、頑張ってみる」


 悠は短く言って、踵を返す。小さく「ありがとう」と言った。


 その後ろ姿を見ながら向日葵は両手で胸元のボールをぎゅっと抱いた。彼女の表情を夕日が照らしている。

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