2-3
「私は化け物なの」
夕食を終え、ひと段落ついたところで、莉葉は約束通り自分のことを語り始めた。
「正確には、化け物の子ども」
「子ども?」
「ええ。比喩でもなく、そのままの意味」
一度言葉を止め、呼吸を整えるように息を吸うと、再びゆっくりと口を開く。
「私は人間の母とヒトデナシの父の間に生まれた子どもなの」
さも平然を装いながら、できるだけ落ち着いた口調で淡々と告げる。
彼女が自分の正体を他人に明かすのはこれが初めてだった。と言っても、他人との関わり自体がなかったのだから、当然と言えば当然である。ただ、それは彼女なりの大きな決断であったことは間違いない。
「そうか、だから鱗粉病にかからないのか……」
鱗粉病は基本的に人間にしか感染しない。加えて、ヒトデナシは非常に治癒力が高く、鱗粉病を始めとしたウイルスにも強い耐性を持っていた。その性質を受け継いでいるのだとすれば、彼女がマスクをせずとも平然と外界で過ごせていたことも頷けた。
「少しだけ、昔話に付き合ってくれる?」
莉葉は心の奥底にしまい込んでいた記憶を静かに掘り起こしていく。
今から約十八年前。莉葉の母・楓は近くの集落で花屋を営んでいた。両親を早くに亡くし、その頃は一人でひっそり慎ましく暮らしていたが、社交的で心優しく、誰とでも分け隔てなく接する彼女は集落の人気者だった。
そんな彼女の生活を変えたのは、ある男との出会いだった。
その日は天気が良く、絶好の採集日和だということで、彼女は花を摘みに集落から少し離れた森を訪れていた。本来は様々な危険が伴うということで、集落の外に出る際は正式な許可を得る必要があったが、彼女はいつもこうして誰にも見つからないようにこっそりと出かけた。
自然豊かな森に入ると、そこでしか出会えない植物にたくさん出会うことができる。そして、鳥や小動物たちの楽しげな歌声、川のせせらぎや木々の葉擦れに囲まれながら、静かにうたた寝をするのが彼女にとって最も幸せな時間だった。
いつものように木陰の切り株に腰かけて昼食を食べていると、右手の草むらからガサガサと物音が聞こえた。彼女は手に持っていたパンを一気に口に放り込み、警戒心を強めながら音がした方に注意を向ける。
これまでの経験上、この辺りは安全な地域のはずだった。しかし、森の勢力図は頻繁に変わるため、もしかするとどこかから追いやられてきた化け物がこの場所まで降りてきている可能性もあった。
しばらくそのままの体勢で動けずにいると、何やら草むらから吐息交じりに唸る声が聞こえる。それは化け物の鳴き声というよりも、人間が苦しんでいる声のようだった。
「誰かいるの?」
彼女は思い切って声をかけてみるが、向こうからの反応はない。
もしこれが人の声なら助けなければと考えて、少し迷った末に、彼女は恐る恐るその声のする方へと近付いていく。心臓の鼓動が早くなるのを全身で感じながら、拳をぎゅっと握り込んで必死に呼吸を整える。
戦闘力のない彼女がヒトデナシに出会ってしまえば、もはや生きて逃げられる希望はほとんどない。そんな命懸けの状況にもかかわらず、その声の主を置いて立ち去るという選択肢は浮かばなかった。
「あなた、大丈夫!?」
草むらをかき分けて覗き込んだ先に見えたのは、身体を丸めて倒れる大男の姿だった。男はあちこちに怪我をしているようで、ぼろぼろになった服が赤い血で滲んでいる。特に足にはざっくりと大きな傷が入っていて、裂けた肉の間からは白い骨が見えてしまっていた。
「誰か……水と、食べ物、を……」
掠れて空気しか出ていないくらいの小さな声で、うわごとのようにそう呟く。楓は慌てて昼食の残りと水筒を取ってくると、傷に障らないように優しく彼の身体を抱き起してそれを与えた。
「まずい、意識がない。とにかくまずは止血をしないと」
彼女は何とかその巨体を背負うと、応急処置のために自分の家まで連れて帰った。
「……ここは?」
男が目を覚ますと、そこは知らない部屋のベッドの上だった。温かな陽光が差し込む窓辺には、小さな鉢植えが綺麗に並べられていて、柔らかい花の香りが鼻腔をくすぐる。
「よかった! 目を覚ましたのね」
ちょうどそのタイミングで水差しを持った楓が部屋に入ってきた。
「あなたは? どうして僕はこんなところに……」
「傷だらけで倒れているあなたを見つけて運んできたの」
「そうだったのか……。ありがとう」
目も合わさずに礼を言うと、そのまま起き上がってベッドを降りる。
「迷惑をかけたね。もう大丈夫だから、すぐに出ていくよ」
しかし、苦しそうに浅い呼吸をする彼の姿は明らかに大丈夫ではなかった。丸一日目を覚まさないほどの重体だったのだから無理もない。傷は塞がって血は止まっていたものの、並の人間であれば立つことも困難な状態だった。
楓はよろけながら扉の方へ歩き出す彼の腕を取り、強引にベッドの上に引き戻す。
「まだ寝てなきゃダメ!」
まるで子どもを𠮟りつけるような口調で言う。
「いや、でもこれ以上迷惑をかけるわけには……」
「もう十分迷惑をかけられてるんだから、そんなこと気にしないの! それに、このまま帰してどこかで野垂れ死にされる方がよっぽど面倒」
自信なさげに口ごもりながらも反論しようとする男に対し、議論の余地もないと、一方的に上から言葉を被せて黙らせてしまう。彼もその圧に屈して、しばらくの間彼女の世話になることにした。
男の名前はサクロウと言った。森の奥にある小さな山小屋で暮らしていて、家族や友人もなく天涯孤独。人と会うことは稀で、この集落に来るのも初めてだった。それ以上のことは語ろうとせず、楓も敢えて追及することはしなかった。
「……信じられない。あの傷がもう完全治ってるなんて」
それから一週間が経過し、楓の献身的な看病のおかげもあって、サクロウはすっかり元気を取り戻した。骨が見えるほど肉がえぐれていた足も、その痕すらわからないほど綺麗に完治している。
「それじゃ、今度こそ僕は出ていくよ」
サクロウはごく簡単な別れの言葉を口にして、そのまますぐに立ち去ろうとする。それはこの一週間過ごしてきたことをなかったことにして、郵便物を届けに来ただけだというくらいの態度だった。
「……ねえ。またあの場所に行ったらあなたと会える?」
最後に投げかけられた問いに対し、彼は何も答えなかった。だから本来なら、そこで二人の関係は終わりになるはずだった。
しかし数日後、彼は初めて出会ったのと同じ場所で、楓に再会する。
「来てくれたのね!」
もう二度と合わないつもりだったのに、自分が何故この場所に来てしまったのかわからなかった。楓はとても嬉しそうに笑いかけると、弁当を持ってきたのだと言って、サクロウを座らせて手作りのサンドイッチを振舞った。
そんな関係が半年ほど続き、サクロウは徐々に自分の気持ちに気付き始めていた。それが決して許されないことだと理解しながらも、すでに自分でも心を抑え込むことができなくなっていた。
「あなたは、私のこと嫌い?」
それは楓も同じだった。そして、ほんの少しだけ早く、彼女の方が痺れを切らす。
「そうじゃない。でも……」
「でも?」
「……君を愛する資格がない」
逡巡する素振りを見せたあと、しばらくしてサクロウは重たい口を開いて自身のことを語り始める。
「僕は人間じゃない。化け物なんだ」
「化け物……?」
「ああ。君たちが『ヒトデナシ』と呼んでいる化け物。見た目は人間みたいに見えるかもしれないけど、僕は根本的に君たちとは違う存在なんだ」
ある日、彼は永い眠りから目が覚めるように突然自我が芽生えた。そのときからすでに自分が化け物であることを自覚していたが、その自意識の通り化け物として生きることを拒んだ。それからはひっそりと森の中で孤独に暮らしていた。
彼は自分の内にある野生を押し殺し、できる限り化け物であらぬように振る舞った。同族たちのように人を殺すことはなく、けれど化け物として人に殺されかけることはあった。見かけ上は人に見えるため、同族たちからも毛嫌いされ、彼はずっと自分の居場所がなかった。
楓と会った日も、食糧を探していたところを同族たちに邪魔されて、殺されかけながら命からがら逃げてきたのだった。
「化け物にもなり切れず、もちろん人間にもなれない。僕はこの世界に存在する価値のない生き物だ……」
そんな風に自嘲するサクロウに対し、楓は温かな涙を瞳に溜めながら言う。
「あなたが人間だろうと化け物だろうと関係ない。私はあなたが不器用で、引っ込み思案で、おっちょこちょいで、そして誰よりも心優しいことを知ってる。私は、そんなあなたが好きなの」
楓はそっとサクロウを抱きしめる。その甘い香りのする温もりは彼が初めて知るものだった。
「そうして少ししてから私が生まれた。まさか子どもができるなんて思っていなくて、とても驚いたみたい。でも二人は私を天が授けた奇跡だと喜んで、これ以上ないほどの愛情を注いで育ててくれた。穏やかで何もない日々だったし、それが一生続くんだと思ってた」
しかし、その生活は何の前触れもなく突如として崩れることとなる。
朝食を食べ終えて、いつものように庭の花に水をやっていると、突然家の扉が激しく叩かれる音が聞こえた。莉葉たちは集落から離れた森の中に住んでいて、ほとんど人との交流もなかった。そのため来訪者が来ることはなく、その音は明らかに異質だった。
楓が不審に思いながらそっと扉を開けると、集落の男たちが武器を持って彼女を出迎える。
「あんたが魔女か」
先頭にいた男はひどく憎しみのこもった目を向けながら、低い声で尋ねる。
その頃、集落では住人がヒトデナシに襲われて殺される事件が頻発していた。ろくな武器なども持たない彼らには為す術もなく、ただ殺される順番が来ないことを祈りながら怯えて過ごす日々を送っていた。
そんな中で、いつの間にか集落の中である根も葉もない噂が流れ始める。
――この騒動は森に住む魔女がすべての元凶。魔女は化け物を操る力を持っていて、人を殺して食べている。
社会に馴染まず森の中で暮らす女を、集落の人々はどこか畏怖していた。長い年月をかけて熟成されたその感情が、身の周りに振りかかった危機と歪に重なり、人々が納得するための噂となって流布していった。
家を訪ねてきた男たちはその噂を信じた過激派だった。本当に楓のことを魔女たと信じて、その魔女を処刑して化け物たちを抑え込もうとしていた。
「一緒に来てもらう」
両腕を羽交い絞めにされて、楓は抵抗することもなく悲しそうな顔で男たちに連れ去られる。
「こいつはどうしますか?」
「……子どもは放っておけ」
莉葉はまだ子どもだからという理由で見逃され、その場に取り残された。喧騒が去った静かな部屋の中で、床にへたり込んで呆然と宙を見つめる。
「一体何があったんだ!?」
しばらくして出かけていたサクロウが帰ってくると、泣きじゃくる彼女と荒らされた部屋を見てすぐに異変に気付く。
簡単に事情を聞くと、彼は見たこともないほど恐ろしい顔で、血が出るほど強く唇を噛み締めていた。そして莉葉にここで待っているよう告げると、飛び出すように楓を探しにいった。
その瞬間、莉葉は嫌な予感がした。このまま父を行かせてはいけないと直感的に悟った。そして腰が抜けてしまった身体を無理矢理起こすと、急いで彼の後を追いかける。
莉葉が父と母の足跡を辿っていくと、その先にはあまりに凄惨な光景が広がっていた。むせかえるような臭気が充満し、地面の至るところに赤黒い水溜まりができている。踏み出した足にぶつかったものを見下ろすと、ずたずたに切り裂かれた顔の断片が苦しそうな目を彼女に向けていた。
せり上がる吐き気を必死で堪えながら、地獄絵図の中を進んでいく。
「お母さん……!」
散らばった死体の間に母の姿を見つけて、慌てて駆け寄る。仰向けに倒れる彼女を優しく抱き起すと、その周囲にある血溜まりが彼女自身のものであることがわかった。
楓は左の脇腹を大きくえぐられ、溢れる湯水のように新鮮な血が流れ出してしまっていた。その傷は明らかに人間によるものではなく、獣の鋭い爪で刈り取られたように見えた。
「あなた……」
朦朧とした意識の中で、楓は縋るように言葉を絞り出す。色素を失った彼女の瞳が向く先には、美しい毛を全身に生やし、剥き出しになった牙の隙間から荒々しい息を吐く、狼のような姿に変わり果てたサクロウが立っていた。
「お父さん……!」
もはやほぼ人間の形を留めていない化け物だというのに、莉葉は一目でそれが自分の父であることを認識した。しかし、逆にサクロウの方はその声にぴくりとも反応しない。すでに彼の中に人間としての自我は残されていなかった。
サクロウはずっと自分の中に潜む化け物の影に怯えていた。そもそも彼という存在自体が、ヒトデナシという化け物の中に現れた突然変異のイレギュラーだった。だからこそ、いつ自分が元の化け物に吞み込まれてしまうかわからない。そういうことを本能的に悟っていたのだった。
そして、その不安はついに現実のものとなってしまった。本能と衝動に身を任せて人間を惨殺した末に、今はもう自らが愛した人間のこともわからなくなっている。えぐり取った腹の肉がべっとりと付いた腕をだらりと垂れ下げて勝ち誇ったような遠吠えをした。
「ごめんなさい。結局、あなたのことを、救えなかった……」
娘の腕の中にいることも気付かずに、楓は震える声で呟く。
「……あなたを殺してあげることもできなかった」
化け物になることを恐れていたサクロウは、常日頃から楓に告げていた。
――もし僕が化け物になってしまったら、そのときは迷わず僕を殺して欲しい。でなければ、きっと僕は君や莉葉を傷付けてしまうから。
そうやって陰気に落ち込む彼を楓はいつも明るく笑い飛ばしていた。それは彼を励ますためであると同時に、現実になってしまわないための願掛けでもあった。本当は楓もいつか彼が得体の知れない何かになり替わってしまうのではないかと恐れていた。そして今その悪い予感が現実のものとなってしまった。
息が浅くなっていく母を抱き締めながら、莉葉は目の前で起こった悲劇を必死に咀嚼しようとする。不思議と涙は出ない。それよりも今自分にすべきことは何かを考えた。
涼やかな金属音がして、楓の懐から真新しい短刀が地面に落ちる。
「……そうか」
莉葉は動かなくなった母を草の影に隠すように横たわらせると、その短刀を拾って強く握りしめる。そして覚悟を決めたように顔を上げ、一直線にサクロウに向かって駆け出した。
勢いのままに突き出したその小さな刃が、硬い毛に覆われたサクロウの身体に鈍く刺さる。
「私がお母さんの代わりに、お父さんを殺すよ」
全身の力を両手に込めて、ただ無心で肉の中に刀をめり込ませていく。
しかし、サクロウがまるで蚊を払うように腕を振ると、莉葉は抵抗する間もなく後ろに吹き飛ばされた。
「次に目が覚めると、母は死んで、父は姿を消していた」
莉葉は長い昔語りを終え、夢から戻ってくるようにゆっくりと目を開ける。
「それじゃあ、君が強くなる目的って……」
「そう。私は父を殺すために強くなりたい」
その瞳の奥には推し量れないほど複雑な感情が絡み合っている。それはどこまでも続く暗い海溝を覗いているようだった。
「……ズーッ」
一通り話が終わり、ちょうど会話が途切れたところで、いつの間にか二人に背を向けていたニシナが顔を伏せながら鼻をすすった。
「もしかして、泣いてるの?」
ミツネが少し驚いたように尋ねる。
「泣いてねえよ」
誤魔化すように顔を袖で拭って、慌ててこちらに向き直る。明らかに目の周りと鼻の頭が真っ赤になっていたが、ミツネもあえてそれ以上追及することはしなかった。
「自慢じゃないけれど、父は相当な化け物なの。だから私を化け物にするくらいの気持ちで稽古をつけてくれるとありがたい」
莉葉が冗談めかして言う。
「そういうことなら任せてくれ。俺たちは化け物退治の専門家みたいなもんだから」
「いや、教えるのは僕なんだけど……」
そうやってしばらくくだらないやり取りを繰り返したあと、その日は三人とも少しだけ早く眠りについた。
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