1-4
「まさかこんな清潔なベッドで寝られる日が来るなんて……」
ミツネは皺ひとつないベッドに勢いよく倒れ込む。顔を埋めると、柔らかくて肌触りのよい布に包み込まれ、優しい洗剤の香りで鼻腔が満たされた。
「まったく吞気な奴だな……」
嬉しそうな顔で真っ白いシーツに頬擦りをするミツネを見て、ニシナは呆れたように溜め息を吐く。彼はベッド一つでこんなに喜ぶミツネに共感できなかった。長い間外の世界で旅を続けてきた彼にとって、どこで眠ろうがさほど差異はないと考えていた。
「でも部外者にこんなにも優しくしてくれるなんて、ここはいいところだね」
笹川は一通りマチの中を案内したあと、その流れで宿を斡旋してくれた。ここは旅人が来たときに使うための場所になっていて、一週間は無償で泊まることができる。ベッドと机があるだけの簡素な部屋ではあるが、丁寧に手入れがされていて、居心地の良さは十分すぎるほどだった。
「情報や物資、あるいは遺伝的な多様性の意味でも、外部の人間を取り入れることはメリットが多いからな。こんな世界じゃそうポンポンと人が来ることもないだろうし、多少親切にするくらい、費用対効果を考えたらプラスの方が大きいんだろ」
このマチにはおよそ三千人が暮らしている。基本的に外部との交流はなく、壁の外に出られるのは特別な許可を得た人間だけだった。
逆に外から来る人間は基本的に拒まず、ミツネたちが受けたような歓迎を受ける。望めば面談と書面上の手続きだけで、簡単にこのマチの住人になることができた。
「これからどうする?」
「とりあえず現金を手に入れないとな」
外でしか得られない資源などはマチにとっては貴重なので、非常に高値で買い手が付く。それを売買することを商売として、外と中を行き来する商人のような人間も存在していた。そのことを笹川から聞いていたため、まずはミツネたちもマチの道具屋に出かけて資金を工面することにした。
「よし、これで当面の日銭は何とかなりそうだな」
旅の途中で手に入れていた機械部品や動物の皮などを売って、無事にこのマチでの滞在費用を作ることができた。宿は無料だが、食事や買い物などには当然お金がかかる。あえて宿だけを融通するのは、ある程度滞在させつつ、こうして外から持ってきたものを売らせるという目論見もあるように思われた。
「とりあえず飯でも食いに行くか」
すっかり腹が減っていたミツネは、待ちに待ったその言葉に思わずガッツポーズする。行く先々で流れてくる飲食店の香りがたまらないもので、実は途中から他のことが考えられなくなるほどに心を奪われていたのだった。
二人はちょうど手近にあった小さな食堂に入ることにした。外観はあの均一的な建物だったが、店内はかなりレトロな雰囲気に驚かされる。薄暗い店内は全体が木目調に統一されていて、こげ茶色の落ち着いた色味の机と椅子が少し窮屈なくらいの間隔で並べられている。
まだ食事をするには早い時間だったこともあってか、さほど広くない店内にはカウンターにお客が一人いるだけだった。店員も厨房に立っている店主しかおらず、暇そうに天井を見つめている。
「おう、いらっしゃい。好きなところに掛けてくれ」
店主はミツネたちに気付くと、温かみのある深い声で言う。
「あんたら旅人か。外からのお客さんを見るのは数年ぶりだ」
席につくと、すぐに店主が近づいて話しかけてきた。よい暇つぶしの相手だとでも思ったのか、どことなく楽しそうに見える。
「文字は読めるか?」
「ええ、一応……」
「そりゃよかった。こいつがメニューだ。こっちが食事で、後ろがドリンクな。今日のおすすめはこれと、これ、あとはこの辺かね」
メニューの料理はミツネたちがよく知っているものもあれば、聞いたことのないものも少なくなかった。ハコニワで作られている独自の人工食材を使っているため、特に素材名には見覚えがないものが多い。
メニューとにらめっこをした散々迷った挙句、結局諦めて二人とも直観的に美味そうなものを選んで注文する。一つ一つどんな料理かと尋ねるのも面倒だったし、とにかく早く食事にありつきたかった。
「へい、お待ち」
少しして運ばれてきた食事は、どれも宝石のように輝いて見えた。
ミツネの前には、色とりどりの具材が入った焼き飯が置かれる。その上に照りのある大きなブロック肉が豪快に乗せられていて、油とタレがドロリと滴り、焼き飯を汚していく様はまさに芸術だった。
一方、ニシナが頼んだのはとろみのあるシチューで、身体が温まりそうなトマトとスパイスの混ざった香りと、付け合わせのパンから立ち上る焼き立ての匂いが合わさって、鼻腔から脳を直撃して一気に食欲が掻き立てられる。
他にも焼き魚や唐揚げといった見慣れたものから、黒い餃子や紫色のお米といった見たことのない食べ物まで、次々と様々な料理が到着し、およそ二人で食べるとは思えない量でテーブルが隙間なく埋め尽くされていった。
外では野生動物の肉を焼いて塩をかけるくらいが精々で、大半が途中で拾ったいつのものかわからないレーションや栄養剤ばかり。こんなまともな料理を食べるのは、記憶にないほど久しぶりだった。マチに入ってから終始クールな様子だったニシナも、これには流石にたまらず満面の笑みがこぼれている。
二人ともまるで何かに取り憑かれたように無我夢中で食べ進め、米粒一つ残さずあっという間に完食してしまった。いかに栄養やカロリー的には十分なものが取れていたとしても、やはりまともな食事を取っていないことで、ずっと心は満たされていなかった。そしてその長い間で溜まり続けたフラストレーションが、ここに来てようやく解放されたのだった。
「ずいぶんといい食いっぷりだな。作り手としては見てて気持ちがよかったよ」
パンパンに膨れた腹を抱えている僕たちに向かって、店主は半ば呆れ気味に言う。
「本当に美味かった。これが食えただけでも、ここに来た意味があったよ」
「そうか、そりゃよかった」
机の上に積み上がった皿を片付け終えると、店主はミツネたちの前に飲み物を出してくれた。そして、自分の分も椅子を持ってくると、少し足を庇いながらそれに腰かける。食べ物を運んでいるときは目立たなかったが、どうやら彼は左足を怪我しているようだった。
「外の世界はそんなにひどいのか?」
店主は声のトーンを落として、ミツネたちに尋ねる。
「ええ、まあ……。少なくとも、こんなに美味しいものを食べられるところはないですね」
ミツネたちは店主の質問に答えながら、簡単に外の状況を説明した。それはおおむね店主も知識として知っている内容ではあったが、実体験に基づく話を聞くことで何か思うところがあったようだった。腕を組んで深く頷いて話を聞き終えると、唸るような声を上げながら天井を仰ぐ。
「このマチの話はどのくらい聞いた?」
「ところどころ案内してもらいながらマチの中を回って、その仕組みと成り立ちなんかを軽く聞いたくらいです」
「まるで物件を勧めてくるみたいだったな」
「なるほどな。旅人に対するテンプレな対応って感じか」
快活な雰囲気の店主が、ニシナの余計な茶々にも反応せずに真剣な表情で話を続ける。
「じゃあこのマチが〝ヤバイ〟って話は聞いてないだろ」
ミツネは店主の質問に疑問符を浮かべる。笹川から聞いた話を思い出しても、そんなことは語っていなかった。
「実はこのマチはエネルギー問題に直面してるんだ。端的に言うと、エネルギーが枯渇してきて、完璧だったはずの永久機関が止まりそうになってる」
「そんな……!」
あまりに重大な告白に、ミツネは思わず大声を上げてしまう。こんな幸せな楽園に見える場所に終わりが近づいているということが信じられなかった。
「別にこれ自体はみんな知ってることさ。そもそもこの場所が今もこうして生きてること自体、奇跡みたいなもんだからな。何もできない俺たちみたいな一般市民は、ただその時まで楽しく生きようと諦めるしかない」
マチに終わりが近づいていることが公に発表されたのが十年前。当時は住人たちで大論争が巻き起こり、様々な対策が検討・実施されたが、結局どれも上手くはいかなった。
一時はマチを離れる決断をする者もいたが、最終的にほとんどの者がここに残ってマチとともに死んでいくことを選んだ。このマチで生まれ育った人たちにとって、外の世界で生きるということは想像さえできないものだった。
「でもいくら何でも急すぎないか? あと十年だなんて、もう少し早くわかっただろ」
「そう。そこが重要なところだ。実はこのエネルギー問題には、そもそもの原因があるんだ」
店主はようやくここからだ本題だというように、深く息を吸ってから少し前かがみになる。ミツネはその顔を見て、先ほどの言葉とは裏腹に、彼が決してまだ生きることを諦めていないことを悟った。
「当然ながらこんなどでかい施設を動かして、これだけの人間が中で暮らすとなれば、膨大なエネルギーが必要になる。ましてや、内部だけで完全自給自足の生活を送れるようにするんだからなおさらだ。だから発案当初、この『ハコニワ計画』は夢物語だと馬鹿にされていた。ところがある日、そんなエネルギー問題を解決するにおあつらえ向きのものが天から降ってきた」
「……『イブ鉱石』」
ニシナが発したその単語は、ミツネも聞いたことがあった。およそ七十年前、パンデミックの中でさらに日本を混乱に陥れたあの隕石。それはヒトデナシという怪物を産み落とすとともに、その特殊な鉱石を人々にもたらした。
発見者である天才科学者・伊部道隆の名前を冠したその鉱石は、エネルギー生成において非常に重要な役割を果たした。それによって、これまでとは概念から異なる新たな動力源が開発され、それによりハコニワ計画も現実のものとなったのだった。
「もちろんこのマチもそのイブ鉱石のおかげで成り立っていた。だがな、十年前、その石に突然ヒビが入った」
「なるほど、だからエネルギーが……」
「最初は目に見えないほど小さい傷だったのが、段々と大きく広がっていったらしい。そしてそのヒビが全体にわたって粉々に砕け散るまでが、大体あと十年。それがこのマチの寿命ってわけだ」
店主は一通り話を終えると、背もたれに倒れ込むように身体を預けて深い溜め息を吐いた。飄々として真意が読みづらくはあったが、彼の言葉の裏には、明確に現状を打破しようという強い想いが感じられた。その語り口は少なくともすべてを諦めた人間のものには聞こえなかった。
「それで俺たちにその話をしてどうしろと? まさか同情誘って悲しみを分かち合おうってわけでもないだろ?」
あえてそこから話を続けようとしない彼に対し、ニシナはその誘いに乗るつもりでそう尋ねる。
「ああ。もしかしたら、お前たちならこのマチを救えるんじゃないかと思ってな……」
先ほどまでの快活な雰囲気から、急に自信なさげな声に変わったかと思うと、店主はミツネたちの方をじっくりと交互に見つめた。
「要はイブ鉱石があればいいって話なんだ。都合よく同じ隕石がもう一度落ちてきてくれりゃいいが、もちろんそうはいかない。となると、一番手っ取り早いのは……」
「他のマチから持ってくる、ってことか」
途中まで言いかけたところで、店主の意図を察したニシナが付け加えるように言う。
「それって他のマチから奪うってじゃ……」
「いや、そうじゃない。思い出せよ。他のマチがどういう状況だったか」
「そうか。打ち捨てられたマチから取る分には、誰も困らない」
そこでミツネもようやく二人の言っていることを理解する。
「近くにあるのか?」
「ちょうど『ツクバ第一街区』がここから直線距離で三十キロくらい離れたところにある。そこは何かの理由で入口が壊されていて、マチとしての機能は消失。中は廃墟になっていて、人は誰も住んでいない」
それはこれ以上ないほどの好条件だった。イブ鉱石自体は非常に小さなもので、扱いもそこまで慎重になる必要はないため、数日かかる道のりだとしても持ち運ぶのは十分可能。場所もわかっているとなればあとは実際に向かうだけで、ミツネはどうして住民たちがすべてを諦め悲観的になっているのかがわからなかった。
「それならすぐに取りに行けばいいじゃないですか」
「もちろんそうしたさ。でも俺たちはほとんどの人間が外に出たことがない。それは出る必要がなかったんじゃなく、出ようとしても出られなかったからだ」
鱗粉病とヒトデナシ。人々をマチの中に閉じ込めたその二つは、未だに彼らが外へ出ることを許さなかった。マチの設備をもってしても、不治の病への対処法はない。また、単なる居住区であるマチには武器の類がほとんどなく、ヒトデナシへの対抗手段も持っていなかった。
「実際にこれまで何度も調査隊が探索に向かった。第一街区の情報もそいつらが持ってきてくれたものさ。だが、マチの外に出れば、生きて帰ってくるかどうかは五分五分。当然まだイブ鉱石を持ち帰ってきた奴はいない」
ミツネはここへ来る途中に見た鱗粉病罹患者の死体を思い出す。あれもおそらくこのマチから調査に出かけた者の一人だった。
「あそこには確かに人は住んでない。〝人〟は、な」
運の悪いことに、第一街区の中はヒトデナシの巣窟と化していた。マチの中央にあるハコニワまで辿り着くことはほぼ不可能。さらに、それを無事にこの第三街区まで生きて運んでくるなどというのは、あまりに無謀な夢物語だった。
「悪い。話が回りくどくなりすぎたな。つまり俺たちにとってあんたらは、窮地に現れた救世主に見えたってわけだ」
店主はミツネが腰に差していた刀を見つめて言う。外の世界で生き延びる手段を心得て、ヒトデナシに対する対抗手段も持っていそう二人は、彼らが生き残るための最後の希望になり得るということだった。
「俺はこんなしがない店をやってるが、爺さんがこのマチの首長だったんだ。小さい頃は、このマチがいかにすごいかってのを散々聞かされてさ。めんどくせえなって思ってたけど、気付いたらこのマチが大好きになってた。俺たちにとってこのマチは唯一の故郷で、唯一生きられる場所なんだ」
そう語る彼の後ろ側の壁には、その祖父と彼の家族が一緒に写っている古い写真が飾られていた。幸せそうに笑うその家族を、ミツネは遠い昔の自分たちと少しだけ重ねてしまっていた。
「頼む。イブ鉱石を取りに行ってくれないか。俺にできることなら、いや、このマチにできることなら何でもする。どうか俺たちを救ってくれ」
彼は大きな体躯を縮こめて、深々と頭を下げる。
「もちろん……」
「わかった。ただし一つだけ条件がある」
ミツネが有無言わず引き受けようとするより先に、ニシナが口を開いた。
「外を調査する人間がいるってことは、このマチには〝地図〟があるだろ? それをくれるなら協力する」
あくまでニシナは施しではなく、依頼としてこの話を受けようとしていた。それは一見すると心ないようにも感じてしまうが、生きることさえ困難なこの世界において、心優しいばかりではいられない。ミツネもそのことを理解していたので、余計な口を挟むことはしなかった。
「わかった。調査隊には少し顔が利くから、そこは俺が何とかする」
「よし、交渉成立だ」
三人は立ち上がって固く握手を交わす。感謝を口にする店主の目には、少しだけ涙が滲んでいるように見えた。
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