1-2:煙に巻かれて
始まりは牢屋からだった。
夢の中で感じていた熱が弁当箱ほどのサイズの小窓から差す西日のせいだということにグレッグは気がついた。あまりの暑さに身体を起こすと床に軽い汗だまりが出来ていた。渇いた喉に痰が絡んで思わず咳ばらいをする。
そして、数日前から鉄格子越しに見張っている巨漢の看守を探す。
しかしながら、この牢屋を我が物顔でとり仕切るでっぷりとした禿上がりは、今日に限ってどこにも見当たらなかった。
彼は西日で火照った頭を壁に押し付けながら、肺の酸素を全て入れ替えるように大きく息を吐いて吸った。
この牢屋へとぶち込まれる数日前の記憶を徐々に手繰り寄せる。大体その場合、最初に見つかったのは他愛もない記憶なのである。
数日前の朝方、彼は自宅で新聞記事を惰性で読み漁るという日課をこなしていた。
その日の一面にはハイリンクの建国二十周年パレードのレポが掲載されていた。
いつもは軍部の汚職やゴシップネタで読者の好奇心を煽っているような新聞ではあったが、今回のレポに関しては例外であった。
パレードの様子がいかに熱気に満ちたものであったかを記し、そこに姿を現した聡明な王の姿とその妻である麗らかな王女の姿について克明に記していた。
そうしたレポをザっと眺めてから紙面をめくると、今度は王室直属の精鋭部隊である憲兵団「フィスク11」の団長へのインタビュー記事を見つけた。
ここでも王室の話が出てきており、遠方の小国であるアルウィグとの和平交渉へと赴く王とその一人息子である王子の護衛任務が彼らに課されている旨が記されていた。インタビュー記事には来たる出発日に向けて士気を高めている等々の話が長々と語られており、今回の交渉が成立することの意義やその尊さについて熱く語っている様子が伺えた。
俺が去ってからずいぶんと立派な組織になったもんだ。
静まり返った室内に彼が呟いた言葉が小さく響く。
グレッグはその記事を一瞥して他の記事を適当に眺めていると不快な騒音によって妨害された。
まどろんでいた自分の意識が一気に覚醒してくる。
首都から遠く離れた片田舎に住む彼にとっては、遠方の地でのパレードや憲兵団の格式ばった決意表明などよりも、隣家から日中聞こえてくる騒音の方が重要だった。
新たに増築をしているのか、破損部分を改修しているのかは皆目見当もつかないが、数日前から木材を切断する音や釘をひたすらに打ち込む工具の音は彼の生活を妨害するに十分だった。
日課の新聞購読に集中することはもってのほかくつろぐことなどは不可能であり、自宅裏の畑の畑いじりにも集中できなかった。
夜には作業が中断されるからよいものの、グレッグがベッドから這い出すころには工事を始めているため、騒音で目覚める朝は非常に居心地が悪かった。
そもそもこの工事の件について、隣家の住民から何の事前申し入れもなかったことが、より一層グレッグを逆なでしていた。
あまりの騒音に対し苦情を入れようと思ったこともあったが、できるだけ揉め事を増やしたくない彼は数日ほどで済むだろうと高を括り、隣家に対し何の行動も起こさずに過ごしていた。
しかしこの日中の作業はここ1週間ずっと続いており、さすがにグレッグ自身も看過することなど出来ず、ついに昨日苦情を入れることにした。
だが当の本人は不在中であり、不愛想で薄気味悪い作業員達にその所在を尋ねてみても「作業日当日からずっと留守にしている」という何とも奇妙な回答しか得られなかった。
依頼を受けた作業員達に対し苦情を言うわけにもいかなかったため、結局のところ彼は自宅にとんぼ返りし、この作業が終わる日を一刻も早く祈ることにしたのであった。
ため息を漏らしてソファーでうなだれたグレッグは、ふとあの作業員達の姿を今一度思い返した。彼らのガラの悪い目つき、不健康そうな体格は多くの作業員にありがちなものだった。しかしその雰囲気に殺気めいた何かを感じ取っていたことに今さら彼は気づいた。
この時点における彼の致命的なミスを語るならば、その殺気にもう少し早く気付くべきだったことだろう。
そして更に致命的なミスを語るならば、長期にわたる騒音により注意散漫となった意識のせいで、窓から投げ込まれた物体を認識するのに非常に遅れをとったことだろう。
足元の発煙弾に気が付いた刹那、彼は身体を丸め部屋の角の方へ勢いをつけて飛んだ。
思わず床にぶつけた右肩の痛みにうめき声を発する。自分がとうに人生の下り坂を滑走する年齢であることは常々自覚していたが、こうして肉体の痛みを通して実感することはそう多くなかったのである。
部屋中に破裂音が響き渡る。発煙弾の破片がいくつか彼の膝に当たった。
自分の聴覚がほとんど機能しなくなったことに気づきつつも煙を吸い込まないように口を袖で覆いながら、部屋の奥に鎮座している古ぼけた棚へと這う。
部屋に充満する煙の異様なスピードに動揺しつつ、彼は棚裏にしまっていた道具箱を勢いよく引っ張り出し、近くに転がっていたウィスキー瓶の淵を使って古びた南京錠を叩き割った。
箱から取り出したリボルバーは、長年の月日を経ているにも関わらず、白煙に満ちた部屋の中で一際の輝きを放っていることに彼は少しの興奮とノスタルジーを覚えた。
しかしそれもつかの間、白煙に紛れた襲撃者は彼の位置を瞬時に認識するとその方向へ飛びこんできたのだ。
グレッグがその影に狙いを定めるよりも早く、硬いブーツの感触が顔面に飛び込んできた。瞬時に構え直そうと身を捩るが、更に二発ほど入れられた蹴りは彼の意識を途絶えさせるのに十分であった。
最後に彼が覚えているのは、襲撃者の年季の入った茶色いブーツとそれを鮮明に彩るかのような自分の血痕だった。
それから数日、彼はこの謎の牢屋に監禁されていた。鉄格子と鍵の仕様、そして看守の配置から考えるに、ここが単なる軽犯罪者用の牢屋ではないことは想像に難くなかった。しかしながら彼にとっては意外と居心地の悪いものではなかった。
数平方メートルしかない薄汚れた牢屋ではあるが、あの隣家の騒音に耐える日々に比べればずいぶんとマシな状況ではあった。
もちろん、ここにぶち込んできた奴には相応の対価を支払ってもらうが
噂をすればということだろうか。
ふと鉄格子の方に目を移すと、黒い軍服に身を包み煙草を咥えた男の姿があった。
服装自体はくすんではいるものの首元の襟はしっかりと立ち、品の良さが伺えた。若いころは勇敢に前線で活躍をし、兵役後はいくつかの名誉賞を受賞したに違いない。
だが、この男が既に前線を退いていることはだれの目から見ても明白だった。
彼の右肩から下の部位は完全に失われていたのである。
「最近の軍部は妙に手の込んだマネをするんだな」
男はグレッグの言葉がまるで聞こえていないかのように煙草の煙をゆっくりと吐いた。司令部いるようなこの手の軍人は大抵の場合ロクな仕事をした覚えがないが、この男が漂わせている雰囲気はそのようなものとはどこか異質であった。
「俺は牢屋にぶち込まれることをした覚えはないぞ」
その言葉に呼応して男が口を開く。
「簡潔に言おう。お前に容疑がかかっている。公人への危害及び誘拐、そして国家に対する破壊行為」
罪名を飲み込むのにグレッグは時間を要した。勿論、老いのせいもあるだろうが。明らかに彼にとっては身に覚えなどない話だった。
「……何を言ってるんだ? まあ待てアンタ、ハイリンク軍部の少佐あたりだろ。フィスク11の奴らと話させてくれ、知り合いがいる」
男はグレッグの言葉を遮り、まだ半分ほど残っている煙草をくすんだブーツですり潰した。
「フィスク11はもう存在しない」
その言葉は目の前のグレッグに向けられている様子はなく、むしろすり潰したその煙草に向けられている様子だった。
「死んだんだ。お前の弟子達、全員な」
その言葉が耳に届いた時にふとグレッグは自宅の農園内に季節外れの実をつけている作物があったことを思い出した。
そして、それらが力なく土の上へ落ちる様子も想像に難くなかった。
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