リライティング・ピルグリム(Rewriting Pilgrim)
霊岩
1-1「講義の後」
リライティング・ピルグリム(Rewriting Pilgrim)
例えば、ピーターパンと共に、子どもたちがベッドルームの大空に舞い上がる姿を見た時、幸福の涙ではなく失ってしまったものへの涙が溢れ出てきたとしたら、例えば電話のベルに心ときめく時代があったことを忘れたとしたら、『オアシス』への道は開かれる。
―――第三舞台『ピルグリム』
大理石の壁に響く声を聞きながら、要人席に座った青年は壇上に立つ学生達を退屈そうに眺めていた。
その日、テセウス学会魔法研究科棟の大講義室では研究発表会がなされていた。幾人もの学生が舞台に立っては、専門家であれば誰でも知っているような技術をあたかも新事実のように言葉にしていく。それを見ている他の学生も講師も白々しく頷いて、発表の後には形式的な拍手を送る。空間エーテルの質量変換や、魔法石を用いた動力回路の話……いつまでも終わらないかのように感じられる酷く冗長な時間。生憎、彼は出来合いの品物を温かい目で見られるほど人情に溢れる人柄では無かった。腰掛けた椅子が自分の体温で温かくなっていくのが嫌に気になって何度か腰を浮かす。手の甲がただれている訳でもないのにむずむずする。必要のない神経が刺激されるような、そんな退屈さだった。
ようやく全ての発表が終わる頃には、運動をしたわけでもないのに身体はへとへとになっていて、青年はできるだけ早く帰ろうとさっと椅子を引いて立ち上がった。
要人席と研究室にいる学会の人々に軽く挨拶をして直帰をしよう、そう考えながら歩み始めた時、後ろから呼び止める声がした。
「リブラさん。」
そこには一人の少年が立っていて、小脇に資料やノートが入っている鞄を下げていた。リブラは振り返った姿勢のまま、呼びかけに返事をすることもなく彼を見つめる。目線は彼の顔にあったが、白昼の夢想をするときのように感覚は覚束ない。まるで話を聞く気すらないみたいに。
「……すみません、お帰りになるところでしたか?」
静寂に耐えきれなくなったのか、少年はそっと謝罪を口にした。それを受けてようやく話を聞くつもりになったのだろう、リブラは体を向き直す。
「いや、問題ない。何か要件かな。」
「はい、お時間があれば……なんですけど…っ…」
彼は話しながら鞄に手を入れてごそごそとまさぐっている。やがてひょいっとメモ帳と鉛筆を取り出して、真剣な顔でリブラに本題を切り出した。
「さっきの発表について、何かアドバイスなどがあったらご教授いただきたいなと思いましてっ!」
「……発表。」
彼は顎に手をおいて、目を瞑って、何かを考え始めた。少年はドキドキとした様子で彼を見つめているが、一向に口は開かれない。少しして目を開くと、吐き出すように、あー、と口にした。眉間にシワが寄るほどぐぐっと顔をしかませながら、ぽつりと呟く。
「申し訳ないんだけど、私は君が誰なのかを覚えていないんだ。」
「えっ…そう、でしたか。」
「あぁ、気を悪くしないでくれ。人を覚えるのは苦手な方でね。……どんな発表をしていたか聞けば思い出すかもしれないが。」
しょんぼりした様子の少年を前に、流石に罪悪感があったのか彼も何とか思い出そうとした。思い出してほしいなら手がかりくらいつけて欲しいものだ、などと内心思いながら腕をくみ、指は二の腕をつつくようにとんとんと動かしている。少年は言われたとおりに自分の研究内容を説明する。
「えっと、霊体についての研究発表です。頑張ったんですけど、自分では未完成状態の発表になってしまって…まだ発展していない研究分野だから、というのは言い訳かもしれませんけど、もしかしたら"融合"の研究をしているリブラさんなら、そういう未開拓分野の研究について知識を持っているんじゃないかと思って……」
「あぁ、思い出したよ。」
まだ彼が話を終えないうちに言葉を遮った。その声には何かが気に食わないという感情が滲んでいた。
自分の発言が彼の気に触れたことを察した少年はどきっとして、少しどもついた。冷たい汗を額に流して、上目遣いにリブラを見る。しかし彼の表情は、先よりずっと穏やかなもので、口にはほほえみを浮かべてさえいる。それでも、研究発表が終わった会議室の中でそれは不自然に幾分ざらついた感覚を残した。
「……君は、よく出来た学生だ。とても模範的だったと思うよ。」
「本当、ですか…?えっと……」
「アドバイスをする事なんてない、それで……」
嫌に優しい口調で嫌味っぽく呟きながら、彼はちらりと目線を横目にやった。向こうから白衣とコートを一緒にしたような上着を身に着けた男が歩いてきているのが見える。記憶が正しければ、彼は学会の重役の一人だ。
「……おや、ミスター、どうも。」
リブラは少年との話を中断して、男に声をかけた。学生らの研究発表には向けられなかった愛想笑いを惜しげもなく口元に湛えて。それも、気に入られる為ではなく、早くこの場からおさらばするためだった。
話しかけられた男はそれにも気づかず、いかにも嬉しそうにリブラに返事をした。
「リブラ・ブラキウムさんだね。デルピニオスからよくおいでになりました。自然科学者の知見から、どうでしたか、今日の会合は。」
男はご機嫌で、よく出来た学生たちでしょう、と言いたげなのは、誰にもはっきりと分かった。実際「模範生」という意味ならば彼らが優秀なのは間違いのないことだ。先に少年にもそう言ったように。
「…ははっ、本当によく出来た子達ですね。真面目な様子は私の研究所の職員にも見習わせたいほどです。…今は彼と話していたんですよ。この子の発表も、とても良かった。」
少年の肩にぽんと手を置く。緊張の糸を引き千切られたようにビクッとして、リブラと学会の男を交互に見ている。男はその様子に気づいたのか、少年の方をそっと向き直った。
「君は学会の優等生だから心配するまでも無いだろうが、先生に失礼は無いようにな。」
「…はい。」
「いえいえ、まさか。彼はとても礼儀正しい男ですよ。」
男の顔色を伺いながら適当に話をつけ、傍らで置いてけぼりにされている少年を一瞥する。
頃合いを見計らって、リブラは少年の手首を掴んで男の前に出した。
「…ああ、ちょうど良かった。どうか対面で話してやってくれませんか?発表についてのアドバイスが欲しいらしくて。将来有望な若者ですから。」
「えっ…ああ、わかりました。」
よかった、と作りたての笑顔を向けて、厄介払いをするように少年を差し出した。彼はそくさと部屋を後に学会の研究室に向かう。
突然逃げるように突き放された少年がまだ幼さを残したその目に寂しさを浮かべていることなど、彼は気にもとめなかった。
予定通り、挨拶回りだけして帰ろう。
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