神憑き

ろくのじ

第1話

茅葺き屋根が並ぶ集落の西端にある石橋を渡った先には木苺畑が広がっていた。橋の両端から引かれた水路は、野に伝って土地を潤している。空には光輪が広がり、太陽が豊かな大地を照らしている。

少女は首に巻いた布で額の汗を拭いながら、手を精一杯伸ばして赤くった実を1つ摘んだ。足元のカゴの中には少女が落とした木の実が掌が埋まるくらいに集まっていたが、収穫は畑の半分も終わっていない。ふぅ、と息をついて少女は頭上を見上げた。

目元までかぶった鍔付き帽、口を覆うように巻かれた首元の手ぬぐい、ダボついた上着の袖からはボロ布を縫い合わせただけの手袋がのぞいている。この土地は猛暑日となることは殆どないが、これほど着込めば汗ばむほどには温暖な気候だ。

少女は我慢できず帽子を外そうとしたが躊躇って、代わりに手拭いをバタバタと煽り首元から風を送り込んだ。空気が通って微かに涼しさを感じたが、それでも汗は額から滴って顎へと流れていく。


「あついよぅ。おとうちゃぁん」


ぐずった声が畑に響くと、2列向こうの木の裏から鍔広の帽子が飛び出してきた。


「おぅい。布取ったらあかんぞ」

「取ってない!」


少女はムスっと頬を膨らませ、また木苺に手を伸ばし始めた。今摘んでいる木は粗方取り終わったので、カゴを引きずって隣の木に移動する。

終わったらこれでジャムを作ってもらい、硬いパンに塗るとオヤツになる。それだけが少女をやる気にさせていた。

えいっと高く伸びた枝を掴んで撓った先の木の実を摘もうとした。

その時、視界に小さな塊が映った。どこからともなく現れたそれは、三角の耳を生やし、ふさふさの尻尾で器用にバランスを取って木の枝を伝っていた。手の届きそうな位置に現れた小動物に、少女は驚いて固まった。


「リス」


リスはチラリと少女を見た。初め、リスの姿が黒いのは木の影になっているからだと思った。ただ日の当たるところに出てきても、変わらずリスの姿は真っ黒だ。

リスが少女の方を向いた。

リスの頭からは三角の耳が


「あ」


何度も繰り返された教えが脳裏を過る。初めて見るそれが、夢物語のような話に登場する怪奇と一致する。


手を退けて、肌を隠さないと。

お父ちゃんを呼ぶ?逃げる?

声を出して、伝えないと。

が出たって伝えないとーー


少女が思考で固まっているのを見て、リスは舌舐めずりをした。悪寒が走るのと影が飛び上がるのは同時だった。


「っーーーー、っーーーー、ぁーーー、ぎゃぁぁっ!!!」


何度も声を上げようとして失敗し、ようやく声が出たのはリスが幼い首元に飛びかかり牙で噛みついた後だった。


「なんだぁ!?どうしたぁ!!!」


足元のカゴを蹴飛ばし、枝が顔や腕に傷をつけるのも顧みず男は木の群れに飛び込んだ。葉をかき分けてたどり着くと少女が仰向けに倒れ、「げぶ、げ、」と声にならない音を発してビクビクと体を痙攣させていた。その首元には、毛並みのある尻尾の付け根から蜥蜴のような尾を生やした化け物が縋り付いている。男は「ぎゃぁ」と悲鳴をあげたが、直ぐ奮い立ち、近くに転がった枝を拾って飛びかかった。


「こいつ!!!こいつ!!!この!!!こらぁ!!!」


枝が頭上を掠めると、異形はすぐさま飛び退いて木々の足元を駆け抜けていった。

後に残されたのは倒れて動かなくなった少女と、呆然とそれを見送る男1人だった。

男は肩で息をして放心したように化物の去った先を見ていたが、ハッとして横たわった娘の傍に力無く膝をついた。


「そんな………リコ………リコ………嘘だ、リコ、なぁ」


娘の首元は血が僅かに流れていたが、それは然程重傷には見えなかった。しかし傷口から肌は黒く染まり、目は虚に開いたまま微動だにしない。

男は手袋に包まれた小さな手を取って、撫で摩りながら娘の名前を呼んだ。いくら呼んでも彼女はもう反応することはなかった。

男の皺の刻まれた目元から涙が滲んで溢れ出した。


「マナ様………どうして………どうして………」


暖かな太陽の光に照らされて、木苺畑は燦々と輝いていた。

眩しく長閑な集落の影で、黒い点が蠢いている。それは紙にインクが滲むようにじわじわと集落を囲んでいき、地面に黒い円環が広がっていった。





********





暗闇の中に一本の短剣がある。


――手を伸ばした


両手で柄を握りしめ、先端を前方に向ける。

目の前で黒い影がぐちゃぐちゃと、懸命に何かを貪っていた。


――ハァ、ハァ、ハァ


荒い息が聞こえる。影の息遣いかと思ったがそうではない。バクバクと心臓が鳴っている。

何かがこちらを見た。すると影も起き上がって、濁った目がこちらを捉えた。影は意味のない唸り声を発した。


――■■


心臓が早鐘を打つ。聞こえたのは自分の名前だった。


影が少しずつ近づいてくる。だが体は動かない。


もう手が届く距離に影が来た。視界がまた暗闇で覆われる。

体は動かないのに、短剣が生き物に刺さる感触だけが何度か繰り返された。


――違う。あの時俺は剣を振った。


意識が戻ってくる。

目を開けると、今度は床に寝転んでいた。眼前の石造りの床の隙間を伝うように赤い液体が流れてくる。とうとうと流れ出すその先には見知った顔が横たわっていた。


現実なのか?

悲鳴をあげても何も聞こえない。視界がグラグラと揺れて暗転する。


遠くから誰かが呼んでいる。

何度も、何度も、ずっと呼んでいる。





********





「で、それが死刑囚なんだが。頼めるか?」


午後の日差しが柔らかく差し込む執務室の中、その光を熊のような重厚な背で遮りながら、軽い買い物を頼むトーンで男は尋ねた。

壁には天井に届くほどの白いキャビネットが並び一般成人男性の腹まで届く高さのデスクが置かれた部屋を、小さな子供部屋に錯覚させるほどの巨躯は、窮屈そうに腕を動かしてカリカリとペン先を帳面に滑らていた。問いかけた相手に視線をやることすらしない。

その矢面に立たされているのは草臥れたインバネス型の隊服を着た男だった。顎を捉えた左手とその肘を支える右手には外界と触れることを嫌うようにコートの奥まで入り込んだ革手袋を嵌めている。青みがかった黒髪にところどころ白髪の混じるその容貌は、青年とも言える彼の実年齢より数歳上に見えた。青年はゆっくり一回瞬きをして考える。それは頭を悩ませた時にそうする彼の癖だった。

巨躯の横に控えるスレンダーな深いヴァイオレットのスーツを着こなした女が、その仕草に苛立たしそうな視線を送っていたが、意に介す様子はない。


「その役目が俺に務まるとは思えません」


長考の末、不躾な態度も鋭い視線も無かったようなサラリとした返答に部屋は静まった。しばしの間をおいてふぅ、と巨体から溜息が聞こえた。


「これは驚いた」


部屋に呼び立てた青年の到着を確認して以来、部屋の主はようやく顔を上げた。


「アシヤくんにはこれまで幾度も無理難題を振ってきたが断られた事は無かった。当然今回もそうなると予想していたが、どういう風の吹きまわしだ?」


それは「どうして蟻が象の足を動かそうと考えるのか?」という疑問と同じだった。

部屋どころではなく、彼こそはこの建造物が中央に座す都「神と共に栄える国ウッドユール」の支配者であり、青年は男にとってまさしく蟻に等しい存在だったからだ。

一方で、アシヤと呼ばれた青年は眼前に迫る象の足に慌てる様子もなく、また思案する仕草を見せた。



「それは、人間相手では俺の力量など下の下だからです。死刑囚の移送なんて失敗するのは目に見えています。如何に管理官の指令と言えど、それが明白なのに受けられないでしょう。それとも、その失敗まで踏まえた指令ですか?」


彼の平時の仕事はこの国を文字通り汚染している獣たちの駆除だった。異なる地域に派遣されることはあったが、それ以外の役割を任されるのは初めてだった。


「ふむ。当然囚人が普通の人間だったら君には頼まない」

「……ん。まさか、死刑囚っていうのは汚染されているんですか?」


アシヤは「そんな筈はないだろう」という返答を予想していた。

しかしその単語を耳にすると管理官の横で睨むような目つきを保っていた女は、反射的に視線を逸らし息を呑む仕草を見せた。

男は青年の問いかけを否定せず、沈黙で答えた。

それがイエスだと察した青年はこれまでの泰然とした様子と打って変わって動揺した。


「その人、汚染されたから死刑囚にして処分しようってことですか?」


青年の恐れと嫌悪の混じる表情に女だけが戸惑いを見せた。管理官は従容しょうようとして冷たさすら感じさせた。


「はぁ、あのだね。そんな事があればもっと大騒ぎになっている。罪状は要人を殺しかけたことだ。そして囚人が汚染されたのは首都内部ではなく、捕縛も郊外でされた」

「…………」


あっけらかんと明かされた事実に青年の緊張した体は脱力する。


「しかし、なんのために移送するんですか?」

「私たちの大義を果たすためだ」

「大義って、都の防衛ですか?」


管理官は立ち上がった。


「大義とは、都の防衛であり、世界の救済だ」


生まれつきの白い体毛を携えた巨躯が、デスクの向こうからこちらを真っ直ぐ捉えていた。眉の角度が上がり、炯々とした眼光は眼前の青年を射抜いている。


「ちなみに人間ですよね?」

「都で人以外が囚人になったことは未だに無いな」

「………道中で殺されて失敗しても良いなら謹んで引き受けますが」


迂遠な言い方に苛々とした女の視線が飛んでくる。だが意外なことに管理官は組んだ指の向こうで薄ら笑いを浮かべていた。


「その心配は無い。彼は君を攻撃することは断じて無いだろう」


青年はその言葉に眉を顰める。

管理官は視線を下ろし着席し、「詳細は追ってサルビアくんから聞きたまえ」と言うとまたペンを動かす作業に戻った。サルビア女史は青年に向かって目配せし、出て行けと言わんばかりに重く閉ざした扉を見遣った。ため息と共に青年は踵を返した。

扉の前で礼をしてその場を後にする。



管理官はペン先をインク瓶に浸し、数枚に渡る書類の最後の一文を書き上ると、右下にシビ・アールバーグとサインを書いた。紙を揃え、掌の中で机上に落として整えるとサルビア女子に手渡す。

木製の椅子をひき、背後の大きな窓から外の風景を見る。その先には

聳え立つ白い巨木が燦燦と光を浴びて、壁で囲われた箱庭を照らす太陽のようだった。

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