第39歩 彼女のやり方
経理の御局様だった大岩さんが営業に配属されていたのは1月の半ばのことだった。
もともと営業に所属していた大岩さんが経理に身を置いて10年、その間にすべての伝票も請求書も電子化され、期限を守らない経理処理は禁じられ、徹底的な合理化が図られた。
今やお局様と言うより守護神となっていた大岩さんだったので、経理の面々はこの人事に猛反発した。
しかし、今回大岩さんが異動になった理由は彼女自身にあった。
実は前回の経理への異動は、彼女が営業課長への昇進を拒んだことにあった。
出世したらそのままその仕事しかできない、いっそ畑違いの部署で修行させてほしいと申し出た結果、営業から経理に移ったのである。
そして今回、またも大岩さんは出世を拒んだ。
彼女は新事業のクリーンサービス部門で現場へでてみたいと言ったが、流石にそんなわがままは通らず、係長待遇での異動に落ち着いたのだった。
「大岩さんが営業なら、私も内勤やめます!営業に連れてってください!」
盛大に開かれた壮行会で、大岩さんの後輩歴6年の田村が酒の勢いでそんな事を言った。
社内では御局だの怖いだのと言われる大岩さんだが、嘘はつかない、言い訳はしない、目の前の相手の眼をしっかり見る、などのポリシーによって、同僚たちには中々に懐かれている。
竹を割ったような性格が災いしてトラブルも多いが、真面目な仕事ぶりと大胆な行動力で一目置かれているのは間違いない。
「田村ちゃん、営業なんてへいこらしてばっかりで楽しくない!大丈夫、経理が一番!」
そういいながらも大岩さんはスーツを3着も新調したし、久々に髪を短くした。
「楽しみなのがあふれてるんですけど」
ふてくされた田村はビールを飲み干して泣きはじめ、会はひっちゃかめっちゃかになった。最後に大岩さんの電卓を譲り受けて大団円を迎えた頃には皆ぐでんぐでんに酔っていた。
「今日から営業4係の係長として配属されました、大岩です。慣れないことばかりでご迷惑をおかけするかもしれませんが、よろしくお願いします。」
そんな挨拶から始まった大岩さんの営業生活だったが、彼女は経理と並行して営業の業務もこなしていた実績があり、既に固定客もいる。
初日だと言うのに電話をかけながら予定表に外出予定を書き込んで、部下たちに「ついてくる?」とだけ聞いてさっさと出かける。
慌てて3名の部下たちが後ろを追いかけていく光景を見ていた朝日課長は、「ひよこだね」と表現した。
颯爽と歩く大岩さんは大股で、立ち止まらない。
移動しながらも街を観察していて、しきりにメモを取る。
ひよこたちはタクシーにも電車にも乗らずにぐんぐん進む大岩さんに追いつくのがやっとだ。
目的地に着くと、コートを脱ぎ、髪をさっと撫でて、胸ポケットの名刺入れを確認し、部下たちに声を掛ける。
「電話、音消して、今日は挨拶だけ、仕事は二の次、とにかく、挨拶」
ひよこのうちの一人が慌ててスマホを取り出した。
着信音をミュートにする。
「あの、大岩さん、こんな小さい会社、仕事なんてあるんですか?」
そう聞かれた大岩さんは、意外なほど嬉しそうな顔をした。
「ない!それをあるようにするのが私の仕事、私たちの仕事。」
一人ひとりの顔を見ながらゆっくりと言う。
噂通りの圧に及び腰のひよこたち、ノーは許されそうにない。
この日、定時までに彼らは6社を回ってとにかく挨拶一辺倒で一日が終わることになるのだが、この時点でそれを知るのは大岩さんだけなのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます