第22歩 恋の木下次長
木下次長は普通の中年男性だ。
普通、というのが何かという厳密さを求められれば困ってしまうが、少しもっさりとした彼を人混みの中に放り込んだら最後、もう2度と見つけられなくなる、と彼の愛妻さえ思っている。
その見た目を普通の中年たらしめているのは、ややたっぷりとしたお腹、あまり豊かではない髪、平均身長の割に平均に届かない長さの足、丸く柔和でハンサムとは言い難い顔などだ。
しかしなぜか彼は、おばあさんにモテる。
本人によると子供の頃から、おばあさんにはやたらとモテる。
木下次長の同期には、今やお局様として恐れらている大岩さんという女性がいるのだが、彼女の祖母はたまたま見た孫の写真に写り込んだ当時青年の木下次長にぞっこんになった。
「この人、あんたのええ人か?」
と聞かれた大岩さんが首を横にブンブン振って「やめて、それはただの木下くん!」と否定したものの、納得してもらえず、「こんな男前、ほっとくなんてもったいない」「うちに連れてきて」「わたしデートしたいわ」などと言われる始末。もっと見たいと写真をねだり、プリクラを裁縫箱に貼るうちに10歳は若返っていたという。
ただの木下くん、なんて否定の仕方をされる割に木下次長には学生の頃から絶えず恋人がいた。
高校生まではスポーツマンや顔のいい男が人気者で木下少年は蚊帳の外だった。(とは言え木下次長も野球少年ではあったがモテはしなかった)
が、女子も大学生になる頃にはある程度打算というものを覚え、賢く優秀な木下青年は、にわかに熱い視線を受けるようになる。
高校生の頃に出会っても友達止まりだったであろう美人や人気者が自分に熱を上げ、食事や映画にさりげなく誘ってくれ(「ラーメン食べたいけど一人じゃ恥ずかしい」という聞くのも恥ずかしい戦略ではあるが、若き木下青年には響いた。)それは一人や二人ではなかった。人生の春と言える四年間、木下次長の内面のハンサムさはこのころに形成されている。
社会人になると、その優秀さはますます顕著になり彼を取り巻く熱は冷めなかったが、恋の鞘当てに疲れた木下次長が結婚を前提に出会いを求め始めて3人目、ようやく巡り合えたのが今の妻だった。
そして家庭人になると、ピタリとモテなくなった。
なんか普通、平凡、おじさん。
本来の木下次長の魅力が結婚指輪とともに輝き始めると、その真面目な家庭人を奪おうという不届者も現れなかった。
ただ一人、大岩さんの祖母を除いては。
大岩さんの祖母はこの20余年ですっかり物事を覚えていられなくなった。
素直で、感情豊かな乙女に戻った。
彼女は若かりし頃、外国映画のハンサムが好きだったが、気持ちは若返った今、それでも木下次長なのである。
木下次長は漢である。
認知症の祖母の恋心を伝えた大岩さんに、「わかった。」とだけいい、そこから月に一度、家から、やがて施設から連れ出しては逢引をするようになったのだ。
「木下さん、わたしお寿司食べに行きたいわぁ」なんて言いながらも、意中の男性の前では食事ができない乙女に、次長は折詰を持たせる。
「桜そろそろ、咲く頃やろか」と言われれば、膝掛けと車椅子を手配して現れる。
木下次長は彼女が亡くなる3ヶ月前まで、ずっと王子様でいてくれた。
そう、流石の恋心も認知症には勝てなかった。
あれは最後のデートの日、迎えに行った木下次長と大岩さんを見ても無反応、申し訳なさそうに、おさまりが悪そうにして隣に座った木下次長に愛想笑いをし、そのまま自室へ逃げてしまい、その後はもう見知らぬ異性が近くにいることに不快感を示すだけだった。
謝りながら泣いている大岩さんを責めるはずもなく、木下次長はその日予定していたデートコースを大岩さんと巡った。
祖母の葬儀の後、大岩さんは木下次長にこれまでの謝礼として50万円を渡したが、次長は1円も受け取らなかった。
あれは援助交際じゃなく、恋愛だったのだと少しキザに言う木下次長に大岩さんは数日ぶりに明るい口調で言う。
「おばあちゃん、亡くなる前日に木下くんの写真見て、それから、まあ、ウチのおじいちゃんのほうが男前やなって言ってた。フラれたな。」
見ればまた泣き顔で、みっともないことに両方から鼻水を垂らす大岩さんにハンカチを貸そうとし、今日に限って忘れたことに気づく。
思い切って外したネクタイを手渡すと、「まあ、それでもオレが最後の恋人なことに変わりはないし」と言うと後ろを向く。
木下次長は大岩さんに見せるわけにはいかなかったのだ、両鼻からも大量の鼻水が垂れていて、眼鏡も曇ってしまったその顔を。
そのまま逃げるように歩き出す。
と、そのとき正面から親友でもある同僚の朝日課長がやってきた。
木下次長の顔をまじまじと観る。
「え?激辛ラーメンでも食べた?」
その一言に吹き出して、涙と鼻水が朝日課長に飛ぶが、彼は気にせずハンカチを差し出す。
「ありがとう」と、言いたかったのに木下次長は耐えきれなくなり、そのまま嗚咽とともに崩れ落ちた。
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