木下次長と朝日課長

@entaronon

第1歩 白田さんの仕事始め

木下次長はできる男だ。

何ができるのかと問われれば、次長なのだから仕事と相場が決まっているだろうが実はそれよりも彼にふさわしい答えがある。

彼は気遣いができる。

木下次長は極力定時近くに出社する。

部下にも定時出社をさせるためだ。

木下次長はいつも微笑んでいる。おじさんは黙っていると不機嫌に見えると知っているからだ。


朝日課長はしない男だ。

何をしないのかと問われれば、彼は周りが緊張しない男なのだ。

朝日課長に緊張感がないというよりかは、朝日課長の周りの空間にはもはや緊張感が入り込む隙がないと言ってもいい。


今日は仕事始め。

二人が揃って駅から会社へ向かって歩いている。

私は後ろからこっそり二人についていく。

会話を盗み聞きしたいから。

「あー、新年早々しごとかー」と、朝日課長はふらふら頭を揺らしている。

「シャキッとしろ。職場の近くにきたら、仕事モード!」と、小声で木下次長。鞄から社員証を取り出して首から下げる。「あ、忘れてた。」と朝日課長が鞄を探っている。

我が社は先月からセキュリティ対策として社員証での出退勤記録や入室記録が導入されたばかり。まだなじまないうちに長期の休みにはいったため朝日課長はすっかり忘れていたようだ。

私も慌てて鞄に手を伸ばした。

気付けば周りには何人か職場の仲間がいて、皆一斉に鞄やポケットを探っている。

しばらくして朝日課長が立ち止まる。

「…どうしよう」「どうした?」「忘れてきた」しばらく朝日課長を見つめる木下次長。「あー、確かに。忘れてたな」少し変な言い回しだ。

「叱られるかなー」と子供のような事を心配する朝日課長。木下次長はまた朝日課長を見つめている。「ちゃう、忘れとる、思い出せ」

泣きそうな顔の朝日課長をチラチラと見ながら彼の部下たちが追い抜かせずにいると、

「年末、ぜーーったい新年早々わすれるから、預かってくれと頼まれたけど…」と、木下次長が青いストラップのついた社員証をひらひらさせている。

何たることか、そんなことセキュリティ対策として間違っている。

でもきっと誰もとがめないだろう。この朝日課長のまん丸な目から出る木下次長への視線!親犬を見つめる子犬のようだ!

などと思いながら私は逡巡した。

この気持ちは何だろう。この二人は特に見た目もよくないし、素敵でもないのになぜかこっそり見ていたくなる。

「推し」ではないし、「ファン」でもない。公園でハトを眺める気持ちに近い感覚…。

会社の入り口が近付いて、私はまたこの一年、木下次長と朝日課長の会話を盗み聞きすることを一年の抱負と決めた。







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