オレンジの時間

辻田煙

オレンジの時間

 ぬくい。炬燵と言うのはどうしてこうも人をダメにするのか。常備されているみかんが、より私の心を怠惰へと加速させていた。口いっぱいに広がる甘酸っぱい味。


 みかんは大丈夫なのよねー。


 炬燵に入ったままほっぺたを天板に張り付かせる。ひんやりして気持ちいい。頭に浮かんだ言葉が砂のようにどこかに消えていく。


「あー……」


 意味もなく出て行った言葉は、すぐ側で遊んでいた親戚の子供たちに聞こえたようだった。携帯ゲーム機で遊んでいた三人――母が「今年で小学生四年生くらいじゃないかしら。大きくなったわねー」と言っていた――が私を囲むように座る。中でも一番体格のいい男の子が口を開いた。


「大学生って暇なの?」


「んー……、今はそうかも」


 体を起こし、新しいみかんの皮を剥く。開け放たれた障子の向こう――廊下にある窓ガラスをちらっと見ると、綿毛のような雪がしんしんと降っている。日中にも関わらず、どんよりとした曇り空。外全体が薄暗く、陰鬱さが窓の隙間から部屋に侵入し、何もしたくなくなる――怠惰にさせるなにかを私にもたらしている……、気がする。


 大学二年生の冬休み、か。早い奴は就活の準備でもしているのかもしれないが――私は正月にまでそんなことは考えたくない。大体、人間関係でやや疲弊している今の私には休養が必要なのだ、うん。


「お姉さん、彼氏いるー?」


 向かいに座っている女の子が実に無邪気に訊いてくる。目を期待に輝かせて、悪気などなさそう。おませさんだな。それとも最近の子はみなそういうものなのか。……あー、ダメ。こういう考え方は自分が年を食った気がしてくる。私はにっこりと笑顔を作り、答えた。


「お姉さんはねー、そういうの作らない主義なの」


「……できないの間違いじゃないのー?」


 ぐっ、痛い所を……。今はちょーど男には言い寄られないだけで……、あい、いや、一人例外がいたか。数には含めたくないけども。あれ以外にはー、あー、女友達に少々迫られているくらいか。だが、私がいいと言っている人間が少なくとも二人はいるのだから、恋人自体は今すぐにでも作れる。相手の選別はともかくとしてだが。


 まあ、小学生の子供相手にそう力説しても無駄なのは分かっているけど、頭の中でぐるぐると言葉が回る。


「あっ、いたいた。麗羽れいは、ちょっと手伝ってくれる?」


 どこまで言ったものか、と女の子を見ていると、廊下から母が呼び掛ける。「今いないだけだからね?」と女の子に言い含めつつ、私は気怠気な身体を動かし、母とともに台所へ向かった。



 時々、こいつらは何の為に集まっているんだろう、と思う。親戚とはいえ、正月にわざわざ他人の家に来て、飯を食い、酒を飲む。子供たちは付き合わされて、わざわざ都会や地方から、ここ東雲しののめ家に拘束される。私にしてみれば、彼らの交流は無駄なことこの上ない。日頃の鬱憤を晴らすにしても、もう少しやり方があるだろ。今時、本家に気を遣うみたいな風習があるとも思えないのに、毎年の決まり事だと言って彼らはやって来る。両親も当然の様に受け入れる。まあ、風習だなんだは正直自分が巻き込まれなければどうでもいいが――つまりは正月に実家に帰ってきて、他人の飯を用意しなければならないこの状況が私は嫌なだけだった。


 畳敷きの部屋にある長テーブルに母と協力して料理を並べ終わり、親戚とその子供たちが食事を摂っていくのに合わせて、ようやく一心地つくことが出来た。私の隣には先ほど「麗羽お姉ちゃんは彼氏を作れない」発言をした女の子が座って、なぜか、こちらをじーっと見ている。


 かなり食べづらい。


「ど、どうしたのかなー?」


 私が戸惑っているのをよそに、女の子が膝の上に乗っかってくる。されるがままに私は彼女を受け入れた。


「え、と?」


「一緒に食べてあげる」


 女の子は勝手にそう宣言して、ごはんを食べようと、自分のお椀を取り寄せた。まさか、慰められてるのだろうか。子供は嫌いじゃないけど反応に困る。というか、こんな小さい子にまで憐れまれるほど、淋しそうに見えたのだろうか。


「ちょっと、未結っ。なにやってるの。ごめんなさいね、麗羽ちゃん」


「あっ、いえ」


「私、ここで食べる」


「未結、お姉ちゃんの邪魔でしょ」


 母親に言われても、女の子は私の膝から降りようとしない。ただ、無言で不満気な雰囲気を醸し出している。


「あー、いいですよ。このままで。気にしないので」


「あら、そう? ごめんなさいね?」


 私が女の子――未結ちゃんの頭を撫でると、ぺいっと彼女に手を叩かれた。うーん、……可愛げがないなあ。


「ふふっ、昔の麗羽にそっくりね。あなたもそんな感じだったわよ。人にくっつくわりに、相手から構われると嫌がるの」


 隣に座った母が笑うが、納得がいかない。ここまで愛想が無かったとは思えない。もうちょっと笑って……、いや、少なくとも好意的な仕草くらいはしていたはず。


「私、ここまで愛想なくはなかったよ」


「そんなことないよー。ねえ、大介さん」


「ん? おお、小さい頃の麗羽ちゃんはおじさんを見るとすぐに隠れちまってたからなー」


「あら、私にはよく懐いてくれた気がするけどねぇ」


「そら、大介の顔が怖すぎたんだろう?」


 母親の言葉をきっかけに、親戚達の話題が「昔の麗羽」にシフトし、完全に花が咲いてしまった。酒のいいつまみにされている気がしてならない。本人を差し置いて盛り上がり始める。同時に酒の匂いが漂い始めるのを感じ、内心で辟易とする。どうせ話題などなんでもいいのだろうが、自分が肴にされるのは、あまりいい気分ではない。


「お姉ちゃん」


「ん?」


 苦笑いで彼らの話を流していると、未結ちゃんが私の腕を引っ張った。不思議そうな表情がすぐ目の前にある。


「食べないの?」


「んーん、食べるよ。お腹ペコペコだからねー」


 私は箸を手に取り、料理に手を伸ばす。


 未結ちゃんがいて正解だったかもしれない。下手に彼らの話に参加してしまうと、恋人はどうだ、とかの話になりかねない。恋人がいてもいなくてもあれこれ聞かれるのは、いい気分がしない。不快指数がさらに上がってしまう。


 未結ちゃんのお世話をしていますよー、という風を醸し出しつつ、私はテーブルに並んでいる料理をつまんでいく。


 ぱくぱくと口にしながらも、並んでいる料理の食材はしっかりと確認をしなければならない。注意深く観察し、″やつ〟が紛れ込んでいないかを見る。やつはフルーツではあるから、普通は食事時に料理として混じることはほぼ無いけど――油断するのが一番危険だ。やつを使ったデザートではない料理も存在するのだから。


「おねーちゃん、なに見てるの?」


「んー? お姉ちゃんはねー、オレンジが入ってないか確認してるの」


「ふーん、変なのー」


 ぐっ、子供に言われなくてもそんなことは分かっている。だけど、別に私だって好き好んで避けているわけじゃない。避けなければならないものだから避けているだけ。


 私はまた料理を一通り見て確信する。


 ……うん、大丈夫そう。


 私はやっと心から安堵してごはんをありついた。未結ちゃんのお世話をしながら、もくもくと大皿に載っている野菜炒めやら、刺身、煮物などを食す。東京の一人暮らしでは不足しがちななにかが充填されていく気がする。そういえば誰かの手料理食べたのっていつだっけ?


 自炊もやっとの思いでしている私では、到底こんな料理を用意できない。単に面倒くさいだけでもあるけど。


 ぱくぱく、とご飯片手に料理を私は料理を頬張る。


 ふと、一つの料理が目に付く。


 これ、大学芋かな? 久し振りに見た。私は大学芋らしきサツマイモを箸で取り、ぱくっと口に運んだ。んー、美味しー……、でも大学芋ってこんな味だっけ? なんか微妙に違う気が――


 あっ、やばい。


 ごくん、と飲み込んで気付く。景色が回る。まるで眩暈を起こしたかのような身に覚えがありすぎる感覚。


 まずい、まずい。


 嘘でしょ。これ大学芋じゃないの。


 ぐるぐる、ぐるぐる。


 料理が周り、親戚たちや未結ちゃんがぐにゃりと曲がり円を描く。彼らの声が何重にも重なり、ぼわんぼわんとガラス越しに聞こえるようにどんどん遠ざかる。決して油断はしていなかった。なのに、またやってしまうなんて。なんて面倒な。


 息が苦しい。喘ぐように喉に手を持っていこうとして、パッとテレビのチャンネルが切り替わるように、目の前の景色が一瞬で変わる。


 寒い。


 ぶるっと身体が震え、それに気付く。ああ、またか。


 


 また、オレンジを食べてしまった。未来へ跳んでしまった。


 


 ここはいつ、どこだ。


 私は状況を確認するため、あたりを見回す。自分の部屋だ。ベッドの上。部屋全体の明かりが点いている。夜、なの? いや、それよりもスマホだ。スマホさえあれば、日時は分かる。


 ベッド脇の収納棚。間接照明の脇に、いつも通りスマホが充電されたまま置いていた。


「あった。時間は……」


 まったく、罠じゃない、あんなの。完全に大学芋だと思っていた。一体、どこにオレンジが入っていたんだろう? 結構好きな味だったのに、もう食べられない。


 ぐちぐちと大学芋に似たあの料理に、今更どうしようもない文句を内心で言いつつ、スマホを見る。時間は――一月三日、午前二時と少し。


 私はほっと一つ息を吐いた。良かった。そんなに先に跳んでいない。一口しか食べていないから、そこまで跳んでいないだろうとは思っていたけど、思ったよりも近い。私がいた一月一日からほぼ二日後。これなら、なにかあってもそんなに困らない。大学も冬休み中で、まだ実家にいる予定だった時間。実際、今の私は実家の自室にいる。


「はあ、さっさと戻ろ……」


 未来にいる時間を長くしても碌なことがない。早くオレンジを摂取して、元の時間に戻らないと。オレンジ。どこにあるかな……。ううん、私を罠に嵌めたのは憎いけど、冷蔵庫にあの大学芋似の何かが、まだあるかな?


 私はオレンジを探し求めて、とっくに昔の部屋になっている自室の扉開けた。



 オレンジを食べると、未来に跳ぶ。


 そのことを明確に意識したのがいつだったのかは覚えていない。生まれた時からそうだったのか、それとも気付かぬ内に跳べるようになっていたのか。ともかく、小学校時代は面白がって跳び過ぎたせいで大分苦労した。オレンジを食べて、ぐるぐるすると、未来にいる――子供ながらに変にきちんと認識してしまっていたのが良くなかった。


 厄介なのは未来から戻ったあとだった。一度未来に跳んで過ごした時間そのものは、過去に戻ると、その時間帯をもう一度過ごすことが出来ない。一時間、未来で過ごした時間があるとすると、その一時間は一秒たりとも二度目を過ごすことができずに、パッとスキップされる。なんの脈絡もなく、次の瞬間には一時間後の世界にいることになっているのだ。しかも、自分が過ごしたはずの未来の時間の結果と変わっていることもあった。変わっていることもないことも沢山あったが、どうも未来から戻ったあとの言動が影響されているらしく、そのことが分かるのにも大分時間がかかった。


 そのせいで、私の小学校時代はかなりぐちゃぐちゃだ。未来に跳び、過ごし、過去に戻り、未来のことを吹聴することもあったが……、経験した通りにいくこともあれば、話したことで結果が変わったのか、まったく違うことになることもあった。しかも、肝心の過程がスキップされてしまうため、私自身が自身の体験をもってどうやって変わったのかを知ることが出来ない。ただただ、変化があった結果だけが、突然提示される。


 麗羽ちゃんって、嘘ばっかりついていない?


 分かるー。なんか男の子とばっかり遊んでるし。


 ひそひそと交わされる会話。女の子というのは、どうしてああも内緒話が好きなのだろうか。ほとんどの場合において本人にバレているというのに。


 学年が上がるにつれて、嘘つき呼ばわりされはじめ、私は未来を吹聴するのをやめた。その甲斐あって、小学校では浮き気味だった私は、中学、高校、大学とそこそこ友人が出来たし、彼氏だって、……まあ別れちゃったけど、とにかく人間関係に支障をきたすことはなくなった。


 こうなってくると、未来に跳ぶことなど百害あって一利なしだ。


 だが、オレンジを食べると未来に跳ぶこの症状はずっと治らなかった。どれだけオレンジが料理に入っていないか確認しても、うっかり口に入れてしまう時はある。二十歳を越えて分かったが、酒を飲んでいる時は結構危険だ。跳んだ先で急に素面に戻るし、過去に戻ったら戻ったで、急に酔っている状態になるので、アホみたいに同じ日に二回、三回、未来に跳んでしまう日もあった。


 いい加減どうにかしたいのだが、一方で、もうどうにもならないのでは? と私は諦め半分だった。


 だから、せっかく実家に帰省したというのに、また未来に跳んでしまったのも――またか、という気持ちだった。



 冷蔵庫かなー? 私はオレンジ――まだ、残っているであろう、あの大学芋に似た料理を探して、階段を降りる。


 冷え切った家の中、寝間着姿では寒くてしょうがない。このもこもこの寝間着でないと眠れないので、家からわざわざ持って来ていたのだが、さすがに寒さには耐え切れないか。


「さむー」


 はあー、と息を吐く度に、身体が冷えていく気がする。手を擦り合わせても、まったく温まる気がしない。さっさと戻りたい。


 ギシ、ギシ、と音を鳴らし、階段を降り切ると、廊下からは窓越しに庭に積もっている雪が見えた。夜闇になれた目では、ちらちらと降っているのも見える。風によってなのか、甲高い音ともに斜めに雪が降っていく。廊下の奥は真っ暗闇で、子供の頃なら見えもしない幽霊に怯えていただろう。どうも実家にいると、昔のことが頭にじわっと広がる。そんなことよりも今現在の自分の状況こそ考えなければならないというのに。


 なんでカーテン閉めてないんだろ。忘れたのかな。内心で首を傾げつつ、私は台所に向けて歩を進めると――


「あれ?」


 普段は閉じられている居間の障子――そこが開け放たれていた。閉じるの忘れちゃったのかな?


 寒さとささいな違和感に嫌なものを感じ、足を急ぐ。なんとなくこの時間からもっと早く居なくなりたくなった。


 廊下から真っ暗な居間の中に入る。台所へはここを通るのが一番早い。畳のひんやりとした柔らかい感触に、どこかほっとする。しかし、縦長に長い居間の向こう――間に開け放たれたふすまを挟んで長テーブルがある場所、暗闇では真っ黒にすら見えるテーブル、そのもやもやとしている暗闇の向こう側に私は息遣いを感じた。この時間帯なら、とうの昔に両親は眠っていて、こんな場所にいるはずがなかった。仮にいたとしても、声くらい掛けるはず。それなのに、その気配はひっそりとそこに佇んでいた。何かいる。でも、見えない。


 一度気付くと、暗闇が無用な想像を生み出してくる。長い髪の女の幽霊、はては最近見たホラー映画の怪物まで。冷蔵庫のある台所は居間を通ればすぐそこだけど――私は明かりのスイッチを求めてじりじりと歩き始めた。


 スイッチは部屋の角にあるはずだった。自分でもこの歳になって何をやっているんだろう、と思う。でも、考えられずにはいられなかった。


 私はなるべく音を立てず、ふすまの仕切りの向こうの暗闇を睨みつけるようにして、スイッチに向かう。わずかな足の擦れることすらも、ぞくっと背中を震わせる。なにもいるはずがない、でも、見られずにはいられない。


 スイッチには思ったよりも長い時間を掛けて辿り着くことが出来た。私のいるこちら側と向こう側。二つのスイッチ。記憶では黒いでっぱりのもの。私はそれを押し、パチッと軽い音とともに、部屋の電気が点いた――


「……なんで?」


 部屋の中に幽霊はいなかった。でも、非常に見覚えがある、というかここにはいないはずの人物がいた。


「やあ、麗羽。ごめんね、こんな夜遅くに」


 当たり前のように、にこやかに彼が挨拶する。


 私は何も答えられなかった。人当たりのよさそうな笑顔、スラッとした体躯、コートを綺麗に着こなしている顔立ちの整った男。大学の同級生で私が頭を悩ませている相手でもあった。有明ありあけしゅう。なぜ、彼がここに。自宅どころか、実家の住所など教えたことなどない。彼が実家にくる連絡を誰からも受けていない。


 いや、それだけじゃない。


「有明くん、その、……それって」


 私が指差したのは有明くんの足元だ。横たわっている二つの身体。折り重なりようにして、私の両親がいた。かなり殴られたようで、ひしゃげた虚ろな顔が私を見ている。よく見れば、畳には赤黒い血液が流れていた。彼の靴下にも染みている。しかし、有明くんは気にした様子はない。私の様子をじっと伺っている。


 両親はどう見ても生きている様には見えなかった。誰が殺したのか? それは明白だった。有明くんが、ぽたぽたと血を流しているナイフを持っていたのだ。彼が殺したとしか思えない。


「麗羽、どうかした?」


 分かっていて訊いてきているのだろう。有明くんは涼しい顔をしていた。ぐるぐると思考が渦巻く。どうすればいいんだろう。そもそも、なんで私の両親を殺したの? 面識なんかなかったはず。


 唇が一人で震える。


「殺した、の?」


「うん? ああ、そうだね、殺した。家に入ったら、わーわー騒ぐからさ、聞こえなかった?」


 この時間にいた私は聞いたのかもしれないけど、タイミングが悪すぎる。この時間に来た直後の私には分からない。


「まあ、それはいいや。ねえ、麗羽、俺と付き合ってよ。いや、付き合え」


「……何、言ってるの?」


「君が悪いんだ。この俺が告白してやってるのに、振りやがって。それにも関わらず、なんだっけ、あの女。芦沢? だったか? 聞けば彼女に言い寄られて満更でもないそうじゃないか」


 有明くんは話しながら、どんどん興奮して早口になっていく。失敗した。藪蛇だったか。


 思い出す。所属しているサークル、飲み会の帰り、ふとした瞬間に二人きりになった。彼に駅まで送ってもらっていた。告白され、私が断った――


「……まさか、由奈も殺してないよね?」


「由奈? ああ、芦沢のことか? いや、殺す価値もないよ、あいつは。どうせ、君は俺のものになる」


 言葉が通じる気がしない。両親を殺している時点で分かっていたことだが、予想以上に彼の中で話が完結してしまっている。私が説得できる余地を感じない。話し合いして、どうにか警察を呼びたいけど、有明くんの目は私をじっと見て掴んで離さない。ささいな動きにさえ、彼の視線がへばりついている気がする。


「有明くん、この家どうやって知ったの?」


 考える、考えろ。どうすればいい。場繋ぎに発した疑問は、ちょうどよかったかもしれない。


「ああ、尾けてきたんだよ。気付かなかったでしょ」


「え、ええ。まったく、気付かなかった」


 一体いつ、どこから。この分だと、東京の私の家まで知られているような気がする。いや、それよりも、考えるべきは今現在、この後のことだ。とにかくオレンジを探さなければ。今のこの状況自体がかなり致命的すぎる。近隣に家はあるとはいえ、深夜。おまけに、この家には両親と私以外に人は居ない。悲鳴を上げたところで誰かが来るとは思えない。スマホを持ってくればよかった。どうせ、すぐにオレンジを食べて過去に戻れるだろう、と油断していた。まさか、知り合い――もといストーカー野郎が私を追って両親を殺しているなんて……。急転直下にも程がある。


 どうする、どうする。やっぱりオレンジか。あれを食べれば過去に戻り、この状況を回避できるかもしれない。となると――私は台所に繋がる入口をちらっと見た。運悪く、有明くんの方が近い上に、私からは遠い。しかし、冷蔵庫にあの大学芋に似たなにかがある可能性は高いのだから、見ておきたい。とっくに食べ終わっていて、無い可能性もあるけど……。その時は、その時だ。他にオレンジが含まれているものがある可能性もある。無ければ外に逃げるしかない。


 出来る出来ないではない。やるしかない。でないと、私の両親は死んだままになり、最悪の場合は私まで殺されかねない。


 ここまで考えて私は、有明くんがじっと私を見て何も話さないでいたことに気付いた。じっとりと見るその視線が、私の背中を泡立たせる。


 何を考えているのか分からない。そもそもここに何しに来たのだろう。


「有明くん」


 自分の声が掠れているのに嫌でも気づく。それが彼に緊張や恐怖していることを伝えているようで、この状況も相まって苛つく。


「何しに、わざわざ私を尾行してここまで来たの?」


 話ながら私は一歩、台所へ進む。彼は目を細め、私の様子を窺っている。端正な顔の不自然に思えるほど美しく、しかし醜くも感じる唇が開く。


「さっき言ったじゃないか。君と付き合うためだって」


「嫌だ、と言ったら?」


「殺す。俺の永遠のものになってもらう。今まで俺が気に入った女性はずうっとそうしてきた。……君もそこに加わるか?」


「そんなの嫌に決まっているでしょう」


 こいつ、頭大丈夫か? 話している内容が本当だとすると、こういうのは初めてじゃないのか。


 私は台所に向かって歩を進める。嫌なことに、進めば進むほど彼の顔や姿がくっきりと周囲から浮かんでくる。彼と私を隔てているのはテーブル一つ――一度意識すると、歩みが止まりそうになる。


「お前もか、東雲麗羽。俺がそんなに気に食わないか?」


 彼は私の足を見ている。どこに向かっているのか推察しようとしているのか。足がじっとりと汗ばむ。やけに畳の感触がくっきりと伝わり、いぐさのざらざらした感触が足裏で滑りそうになる。


「……さっきから、どこに行こうとしてるんだ。俺が話しているんだぞ」


「台所よ。喉が渇いたの」


 私の返答に睨むようにして有明くんが見てくる。端正な顔が怒りに染まっている。まずい。今更のように、彼が本気で人を殺すことに躊躇がない人間であろうことを実感する。


 なぜ襲ってこないのかは分からないが、今の内に早く移動したい。しかし、同時に彼に襲い掛かられそうで早く動くこともできない。


「なによ、お茶を飲むくらいはいいでしょう? それとも最後の晩餐にお茶も許してくれないわけ?」


「麗羽、どうしても俺と付き合わないのか? 恋人になれば、殺されることもないぞ」


「ないわ。ましてや、あなたとなんか死んでも嫌に決まってるでしょ」


「お前っ……」


 有明くんは歯を剥き出しにし、ぎりぎりと歯ぎしりをする。おかしい、大学で見た彼のイメージとかけ離れすぎている。こっちが本性だとしたら、どれだけ厚い皮を被っていたんだろうか。


 彼の身体から何かが飛び出てきそうだった。なにかは分からない。ただただ、足が竦みそうになる。


 だけど、私は足を進める。いくら威嚇してこようが、オレンジを食べられれば私の勝ちだ。そんな私を見て、有明くんは長く獣のように息を吐く。


 私を見る。


「麗羽、いいだろう。最後の晩餐くらいは付き合ってやる」


 自分が息を止めていたことに気付く。彼の射貫くような視線は、私をただただ見ているだけだというのに、いつの間にか今まで動けていた足を止めていた。


「どうした? 台所で飲むんだろ?」


 ナイフを持ったまま彼がテーブルの上に足を乗せる。彼の靴下は赤黒く染まっていて、じわっとテーブルに赤い液体が広がるような錯覚を覚える。


 ナイフが揺れる。私は彼に気圧されるようにして、一歩ずつ後ろへ下がっていく。この部屋から出ればすぐに台所ではあった。冷蔵庫は台所にあるテーブルを挟んで後ろ、シンクの横にある。


 台所に入り、すぐに部屋の照明スイッチに手を伸ばす。テーブルの上をぺちゃぺちゃと不快な音を立てながら、彼が歩を進める。


 お互いに無言だった。彼の顔が次第にニヤニヤとし始めている。何がそんなに楽しいのか。


 パチッと音を立てて、台所の明かりが点いた。私が彼の死角になるような台所の明かりを点けるスイッチに手を伸ばしていたというに、焦りすらしない。怖さもあるが、私はだんだんイライラし始めていた。なんで、こんな理不尽な未来に跳ばさらなければならないのか。そもそもこの有明くんだって、二、三度話しただけで、友人ですら怪しい。知り合いという方がしっくりくる。彼が学内で有名人だからこそ私も知っているが、そうじゃなければ学内に彼がいたことすら知らなかったに違いない。


 そんな薄い関係だというのに、なぜ殺されるほど恨まれなければならないのか。こんなもの、もはや災害だろう。未来跳躍でもしてなければ、すぐに殺されていたに違いない。


「そう警戒するなよ。最後の晩餐にはちゃんと付き合ってやるさ」


 私は何も答えられない。


 彼の中では最後の晩餐であることは確定しているらしい。油断している。


 台所に入り、彼を見ながらゆっくり下がる。台所にあるテーブルに後ろ手で触れる。とてもではないが、有明くんから目を離せない。離した次の瞬間には襲われる気がしてならない。そして、何も持たない私は抵抗する術もなく殺されるのだろう。


 テーブルの端を撫で、形に沿って進む。私が進むほどに有明くんも近付いて来る。ちらっとテーブルを見ると、茶色い半円の籠にはいった蜜柑があった。同じ柑橘系なのに、蜜柑では元の時間に戻れない。小学生の頃に散々に試したから、それはよく分かっていた。見た目はかなり似ているというのに、何が違うのか。今の私は目の前の蜜柑を呪いたい気分だった。これがオレンジなら、がぶりと噛んで終了なのに。


 一瞬離した視線を戻すと、テーブルを挟んで彼がすぐ側まで来ていた。見れば見るほど違和感が増してくる。一見爽やかな風貌をしているくせに、手には血を滴らせる包丁を持っている。おまけに、さっきまで怒っていたのはどこにいったのか、今はにこやかに私を見ていた。気持ち悪いことこの上なかった。


「……冷蔵庫を開けるけど、襲わないでよね」


「そこの蜜柑でもいいんじゃないか、くくっ」


「最後に蜜柑は嫌よ」


「ふん、注文が多いな。ああ、大丈夫、大丈夫。冷蔵庫を開けても殺しやしないよ。『最後の晩餐』が終わったらだ」


 余裕たっぷりに有明くんは言う。私は彼を見て――視線を外した。ここまで来れたのだから、ここに来て急に殺しやしないだろう。そう思って、シンクの横にある冷蔵庫に身体を向ける。


 彼の視線を痛いほどに感じる。背中に槍でも突き刺しているかのうよだった。チクチク、彼は私を見ている。不審な行動を取らないか――私が反抗しないか。


 母のことだからあの手の料理は冷蔵庫に入れているのは間違いなかった。母はある程度の量をつくって作り置きするタイプだった。ましてや、私が大学芋に似たあの料理を食べたのは、親戚たちが大勢やってくると前もって分かっていた日。結構な量を作っているはず。だから、冷蔵庫にあるはず。


 私は祈る思いで冷蔵庫の蓋を開けた。ひんやりとした空気が顔にあたる。寒いどころか痛く感じるが、それどころではなかった。


 ――ない。どこにもない。


 あの大学芋に似たサツマイモの料理。ざっと見た感じではどこにもなかった。なんでなの? もしかして、誰かからのもらい物だったのか? ここに来て初めてその可能性に気付く。親戚たちが来ていた日だ。誰かのお土産というか、差し入れの可能性もある。失念していた。完全に母が作ったものだと思っていた。


 私は後悔を抱えながら、改めて冷蔵庫の中身を確認していった。正月だからか、おせちの残りらしきものは入っている。他にも親戚たちがくるからか、一品一品量が多めの料理が並んでいる。開けた扉のところには、お茶やジュースのペットボトルが入っていた。隅から隅まで見るがどこにもない。


 あの料理を冷蔵するわけがないので、下の方を見ても無意味なのは分かっているが、覗きたくなる。私は後ろで有明くんが見ているのを意識しながら、冷蔵庫の蓋を開けまくり、中身を確認した。


 だが、やはりなかった。どこにもない。


 私を過去に戻してくれるはずの料理はどこにもなかった。


「一体、何を探してる?」


 彼の言葉にぎくっとする。もしかしたら、という一縷の望みを掛けて冷蔵庫内を探したのに、まるで見つからない。このままでは、元の時間に戻れない。彼に殺されてしまう。


 そのことが今更になってずしん、と私の心にのしかかる。と、とにかく時間を稼ごう。本当に食事をするつもりで話さないと。


「いや、ちょっと食べたいものがあって……。ほら、最後の晩餐なんだし、最後くらい好みのもの食べたいでしょ?」


「あー、まあそうだけどな……。変な真似したら、すぐにぶっ殺すぞ」


「わ、分かってるって」


 彼に背中を向けたまま考える。冬場だというのに、身体の芯が熱く感じる。手は食べるものを探している振りをしつつ、背中を見ているであろう有明くんを意識する。


 私は未来で死んだことがない。だから、未来で死んだ場合どうなるのかまったく分からない。過去に戻れて、やり直すことが出来るのか。どうあがいても、死んでしまうことになるのか……。


 どうする、どうする。死ぬのはごめんだ。ましてや、こんな意味不明なやつに刺されて死亡するなんて嫌すぎる。


 とにかくオレンジだ。オレンジ。ここにない以上、家にもない。となると外だけど、コンビニは走って行くには遠い。田舎が憎い。一番近いコンビニでも車で数分はかかる。走ってなど、有明くんに追いつかれてお終いだ。しかも、今度は「最後の晩餐」などと言って、猶予は与えられないだろう。


「おい、まだか?」


「も、もうちょっと待ってよ。探しているのが見つからないの」


 考えてる時間もない。有明くんが苛立ちはじめている。どうする、どうする。


 どう考えてもやはり、外に行くしかない。それもコンビニに車に乗って。じゃないと彼に殺される。後ろの殺人鬼に。車のキーは……、二階だ。私の部屋。どうにかして、二階に逃げないと。窓から一階に降りれるだろうか?


 ……屋根伝いにいけば行けるだろうか? いや、いかなければ。この際、多少骨が折れるのはしょうがない。


 そうなると、二階にどうやって行く。相手は男性でしかもナイフ持ち。あいにくと護身術も知らないし、ナイフを持った相手の対処など知らない。なにか防ぐものが欲しい。防ぐもの、防ぐもの……。


 私は冷蔵庫の中身を見るが、役に立ちそうになるものはない。精々、ペットボトルくらいだろうか。……あっさり突き破られる未来しか見えない。


 後ろから苛立たし気に指をトントンとテーブルを叩く音が聞こえ始めた。これ以上はまずい。私は冷蔵庫から、お茶のペットボトルと、煮物の入った料理皿を取り出す。バタン、と冷蔵庫を閉めた。


「『最後の晩餐』はそれか?」


 有明くんは私が出した煮物とお茶を見て、愉快そうに笑う。自分でも、『最後の晩餐』と言われてこれは出てこないが、あったのがこれくらいなのだから、しょうがない。そういうことにしておく。


「え、ええ、そうよ。悪い? ……レンジ使うわよ」


「ああ、いいぜ。くくっ」


 すっかり口調が変わっている。大学のキャーキャー言っている女の子達に見せてやりたい。むかつく笑い方だ。私の方が殺してやりたい。どうせ殺してもオレンジさえ食べられれば、過去に戻れるのだから。


 テーブルの横にある電子レンジにラップのかかった煮物の入っている料理皿を入れる。ボタンを押すと、中でぐるぐるとオレンジ色の光に照らされ、煮物の入った料理皿が回り始めた。セットした時間は一分三十秒。いつもだったら一分くらいだが、今は考える時間が欲しかった。


 ブーン、と唸るような音が電子レンジから聞こえてくる。中で回っている料理を見ながら考える。どうする? さっきからそればっかりだ。ここは台所、流し台のシンクの下には包丁があるはず。しかし、いざ有明くんと対峙すると、リスクが大きすぎる。下手に歯向かって、自分に包丁が刺さってしまっては元も子もない。なにか、盾のように防げるものはないだろうか。盾、盾、盾……。ここには何がある? 包丁と同じ場所には鍋もある。防御力はありそうだけど、絶対不審がられる。


 テーブルの上、円形のみかん籠にみかんが入っていた。あの籠、使えないだろうか。テーブルの真ん中にあったから、手を伸ばしても不審がられることはない。


 ……これでいけるか? ハッとして電子レンジの秒数を見ると三十秒を切っていた。もう時間がない。他に思いつかない以上、これしかない。


 レンジの時間が二十秒を切る。


 有明くんに、みかんを投げつけ、包丁を籠で防ぐ。あとは二階に行って、ドアを近くの本棚でも倒して、塞ぐ。そして車のキーを持って、外に――


 ピーピーと場違いにも思える明るい音が、私の思考を遮る。時間が来てしまった。有明くんは無言で私を見ているようだった。今にも背後から刺される想像が頭の中をよぎってしょうがない。


 うるさい音をぶちっと遮り、電子レンジの蓋を開ける。中から熱々になった煮物の料理皿を取り出す。あっつ、あっついなっ。その熱さに若干苛立ちながら、素早くテーブルに料理皿を置いた。


「ずいぶん熱くしたんだな?」


「熱々の方が美味しそうでしょ」


「そうか? 俺は冷や飯ばっかりだったからな、そっちの方が美味く感じるんだよな」


 なんの話よ。有明くんは、熱々になっている料理皿を見て、どこか寂しそうだった。なにを考えているのか分からない。いや、殺人鬼のことなんか分かるはずもないか。


 こんな時でも習慣的に電子レンジの扉を閉めている自分に気付き、内心で思わず笑う。完全に無意識だった。これくらい、護身術のようなことも出来ればいいのに。今は心底それが欲しい。


 テーブル中央、私と有明くんを挟んだ真ん中にみかん籠に入ったみかんがある。手を伸ばせばすぐに手に取ることができる。


 二階に行くには来た道を戻るしかない。有明くんの後ろにどうにかして行って、走らなければ。緊張する。警戒されてはならない。かと言って、油断してもならない。言動の一つ一つが見られている今、注意深くしなければ、死んでしまう。


「食わないのか?」


「え、ええ。食べるわよ」


 実際は、考えれば考えるほどに思考が周り、動きが止まる。息が震えそうになる。


 私は席に着くことなく、みかん籠に手を伸ばす。イメージは出来ている。籠を素早く振り、みかんをぶつけ、怯んだところを走り抜ける。怯むといっても一瞬だろう、だから振り上げてくるナイフは籠で防ぐ。刺さってしまったら捨てるしかない。


 籠を両手で掴む。


「なんだ、みかんも食べるのか?」


 自分の絶対的な有利に確信しているのか、有明くんは呑気に訊ねてくる。大丈夫、多少怪我をしても、過去に戻れば何の問題もない。オレンジさえ、手に入れば。


「ええ、そうよ。『最後の晩餐』でもフルーツは必要でしょ?」


「……そうだな――」


 ふっ、と息を吐き、私は覚悟を決めた。


 両手に持ったみかん籠を勢いよく有明くんに向かって振り抜く。


 バラバラに散ったみかんが、彼に向かって飛んでいき、ぶつかる。


 彼は目を見開かせ、飛んでいるみかんを見ている。


 早く、早く。


 急いている気持ちとは裏腹に、足は鈍く、目の間の光景も動きがトロく感じた。テーブルを回り、有明くんの脇まで走る。


 みかんがぼとぼとと床に落ちていっているのが見え、聞こえる。


 私はみかん籠を持ったまま足に力を入れ、進む――


「ふざけんなぁあああっ」


 耳をつんざくような叫び声が聞こえ、私は思わず顔をしかめた。今までゆっくりとしか感じていなかった現実が、急に早回しになる。


 気付けば有明くんはナイフを振り上げ、脇を通り抜けようとした私を切りつけようとしていた。しかし、私がとっさに籠で庇い、ナイフがギリっと籠に刺さった。


「何してんだ――」


 有明くんの憎々し気な声を無視し、私は籠を思い切り台所のシンクの方にぶん投げた。彼が私の力に振り回され、テーブルのほうに身体を傾かせる。その後を見届けず、一気に走り抜けた。


 自分の吐息が耳に籠る。遅いのか早いのか。自分じゃ判断がつかない。ガタガタと背後で大きな物音がし、彼の気配を感じる。両親の死体のある部屋に辿り着き、一瞬だけ、その亡骸が目に入る。


 悲しみよりも苛立ちが先に立つ。なんで有明くんに殺されなければならないのか。面識すらない相手に襲われて死ぬなんて、そんな運命が待っている二人では決してなかった。


 歯を食いしばり、テーブルの上に乗っかり、二階への階段に向けて部屋を抜ける。


「待てや、こらぁっ!」


 今日、何度目か分からないことを思う。本当に、あの有明くんなのか? あの女性に向ける笑顔を胡散臭いとは思っていたけれど、想像を遥かにしのぐ何かが私に悪意を向けている。


 廊下に出て、すぐに二階への階段を上る。喉が鳴り、息が苦しい。足をがむしゃらに動かす。


 一段飛ばしに階段を駆け上り、自室の扉がようやく目に入った。


「待てっ、つってんだろっ」


 背後からひたすらに怒号が飛んでくる。走れ、追いつかれてはならない。引き戸が遠い。追いつかれてしまっては筋力で劣る私が負ける。殺される――


「着いたっ」


 ようやく着いた自室のふすまを勢いよく開け、すぐに閉める。こうしている間にも彼が走ってきている音が聞こえてくる。ここもすぐに追い付かれる。


 私は素早く学習机の上に置いておいた車のキーを手に取り、カーテンを開けて窓に手を掛けた。鍵を外し、ガラッと開ける。


 寒っ。外は極寒だった。甲高い音を鳴らしている風に流されながらも雪が降っている。暗く、ほとんど何も見えない。かろうじて、自室の部屋の明かりで真下に雪が積もっているのだけは分かる。確か、この下は瓦屋根のはずだった。だが、ここで止まっている訳にも行かない。


 有明くんは、もうすぐそこまで来ている。私は屋根に積もっている雪に足を乗せ、身体を沈ませた。すると、ずるずると身体が勝手に下がって行き――声を上げる暇もなく、雪と共に地面に落とされた。


 痛い。全身が悲鳴を上げている。雪で大分緩和されてようだけど、あちこちが痛む。骨が折れている様子はなかった。動ける。


 上からまた有明くんの怒号が聞こえてくる。部屋に入ったのか分からないけど、多分、すぐにここに落ちたことには気付くだろう。うかうかしていられない。


 私と同じように彼が二階から落ちてくる姿を想像し、ゾッとする。


 早く車に行かないと。そう思うが、身体は凍ったように言うことをきかない。動くは出来る。でも、一つ一つの動作がやけに緩慢に感じる。動けっ、動けっ、動けっ。休みを求める身体に火をくべ、エンジンを回す。


 雪から這いずり出て、雪の上を進む。くるぶし程度にしか積もっていないとはいえ、走りにくい。雪に足を取られ、転びそうになる。


 真っ暗闇の中、両親の死体がある部屋の前を通り過ぎる。照明が目を焼くように眩しい。いつの間にか有明くんの怒声は止んでいた。


――だが、ガラッと窓の開く音が背後から聞こえた。


 車は庭を真っ直ぐに行くと、三台は止められるスペースに駐車してあるはずだった。後ろから聞こえてくるがなり声を無視し、一心不乱に前に進む。暗く前が見づらい。


 あともう少し。私は車のキーを前方に向け、ドアの開閉ボタンを押す。すると、雪の降りしきる暗闇の中で、白いテールランプが光った。目に焼き付くようなその光は、私の道標になる。


 後ろからの声は無尽蔵とも思えるほど、私の耳に入ってくる。一体、私がなにをしたというのか。たかが、告白を断ったくらいで、なぜここまで恨まなければならないのだろう。ふつふつと怒りが煮えたぎっていく。


 ようやく車に到着し、私は勢いよくドアを開けるとすぐに乗り込んで、ドアの鍵を掛けた。すぐ側まで彼が来ている。鍵を回し、エンジンをかける。振動と共に車内に明かりが灯った。サイドブレーキを下ろし、シフトノブに手を掛ける――


 ドンっ!


 シフトノブに掛けた手が、ビクッと震える。無視だ、無視。構っていては死んでしまう。


 なにやら喚いている声が窓越しに聞こえてくるが、私は一切無視し、シフトバーをドライブに入れた。


 窓を叩き付ける音が車内に響く。私はハンドルを握って、フットブレーキから足を外し、アクセルを吹かしながら車のライトをつけた。


 急発進した車は私を座席に張り付かせる。あの男を轢こうがどうでもいい。今さえ逃げられればいいんだから。


 車道に出て、私は逸る気持ちを抑えながらコンビニに向かう。降りしきる雪がフロントガラスに当たる。ちらっとバックミラーを見ると、私を追い掛けてくる彼が一瞬いたが、私は気付かない振りをした。どうせ追いつけやしない。


 私は息を震わせ、何度も呼吸する。身体は勝手にコンビニに向かって運転していた。


 やっと、戻れる。安堵感が私の中を満たしていった。


 コンビニへはすぐ着けるはずなのに、やたらと長く感じた。車を駐車場に止め、店内に入る。コンビニの明るさと温かい空気にホッと一息つく。


 だが、すぐに不安を覚える。こんな所まで追ってこないだろうと思いながらも、次の瞬間にはあの憎々し気な表情で視界に入ってくるんじゃないかと、足早になった。


 店員の呑気そうな声を聞きながら、オレンジを探す。といってもコンビニであれば簡単だ。別にオレンジさえ入っていればいいのだから、ジュースでもいい。店舗の奥の方にある飲料コーナーで、目を動かす。


 どこだ、どこどこ。あるはず、ないなんてことはない。


 飲料コーナーの真ん中の方で、果たして私が一番欲しいもの――オレンジジュースを見つけた。飲料コーナーの扉を開け、ジュースを手に取ったところで、はたと思い出す。金がない。財布もスマホも全部家だ。この時間に来た直後は、すぐに戻れるだろうと思って手ぶらで一階に降りたし、家から出る時も必死すぎて、完全に失念していた。


 私は飲料コーナーの扉をパタン、と静かに閉じ、ちらっと後ろを窺う。後方では店員が一人、レジとパネルを使って何やら操作していた。コンビニのバイト経験があるわけでもない私には、何をしているのかなんて分からないけど、こっちを見ていないことは分かる。それに、店内入った時、声がしたのは一人だけだった。飲料コーナーから移動し、店舗のさらに奥の方に行くが、店員も客もいなかった。


 いや、まてよ。そもそもオレンジジュースを飲んだら、すぐに過去に戻れるんだから、気にしたところで関係ないか。あまりこういう状況になったことがないからか、それともさっきまでの緊迫感を引き摺っているのか、変に人の視線が気になってしまう。


 まあ、関係ないとはいえ、見られながら飲むのはなんとくなく嫌だ。私はレジにいる店員の死角になるように商品棚の陰で、オレンジジュースの蓋を開けた。


 微かに香ってくるオレンジの匂い。この時間、どれだけこれを待ち望んだことか。


 やっと戻れる。


 私は一人、コンビニの音楽を聴き流しながら、コクっとオレンジジュースを飲んだ。


 来た。ペットボトルを持ったまま、床に膝をつく。立っていられない程の酩酊感。ジュースが床に零れ、流れていく。


 ぐるぐる。目が回り、世界が回る。意識が飛んでいく――



 ハッと気付くと、目の前にはいつぞや並んでいた料理があった。ごはんや煮物。憎き大学芋に似た何か。あとで母に問い詰めなければ。


 そして、未結ちゃんの重みを膝に感じた。


「おねーちゃん、どーしたの?」


「ううん、なんでもないよ」


 私の言葉に未結ちゃんは首を傾げる。さらさらの髪の毛が揺れ、きょとんと私を見ていた。可愛いなー、今の状況を忘れてずっとこの子と遊んでいたい。とこどころおませさんだけど、それはそれでいい。


「未結ちゃん、もうお腹いっぱい? 私が食べちゃうよ?」


「ダメっ。まだ、食べるもん」


 未結ちゃんがテーブルに向き合って、もくもくとご飯を食べ始める。親戚たちの会話はまだ続いており、私はその呑気さが恨めしかった。数日後にはここに死体が折り重なっているというのに。


 未来を体感して、嫌な気持ちになることは何度もあった。でも、今回みたいなことは初めてだ。自分の命すら関わるようなことは。


 親戚たちの会話を適当に聞き流しながら、私は今後のことを考えた。どうするべきか。ざわざわと騒がしい中、酒臭い匂いと共に料理をつまむ。決して大学芋に似た料理には手を付けず、煮物などを食べて腹を満たしていく。


 日付は、明後日の一月三日。時間は夜。真夜中も真夜中で、外は雪が降っていた。私は二階にいて、父と母と有明くんは一階におり――私の両親を殺害。


 息が震えそうになるのを抑える。今までの経験からして、ここで騒いだところで相手にされないどころか、頭のおかしい子になるだけだ。それは例え父と母であっても同じ。死ぬ直前まで私のことを信じようとはしない可能性が高い。人間、突然降って来る恐ろしいことよりも、今まで通りの希望の日常を信じたがる。小学生の頃に散々痛い目に遭ってきたから分かる。


 しかし、まったく話さないというのもよくない気がする。


 あの未来にしないために一番手っ取り早いのは、父と母をこの家から逃がすことだ。だけど、今は正月の三が日。連日家に親戚がやってくるし、突然旅行に行ってと言っても行ってくれないだろう。結局、正直に言って協力してもらうのが一番可能性が高い。限りなく低い可能性の中での高さではあるが。……無理だろうなー。でも、少しでも可能性があるのならやるしかない。父と母に死んでもらいたがるような育てられ方はしていない。


 だけど、もし、もしだ。説得しても無駄だったら、この家から出てくれないなら――家で立ち向かうしかない。また、彼――有明くんと。



「だから、一月二日の夜から次の日の朝まではこの家にいないで欲しいの」


 私がそう話すと、テーブルを挟んで向かいで寛いでいる両親は、見ていたテレビから目を離してきょとんとした。ついで、私の頭を心配してくる。子供の頃と同じだ。言葉を尽くしても同じ。


「あんた、まだそんなこと言ってるの?」


 批判めいた目。駄目元だったけど、やはり話が通じない。そもそもとして聞く気がないのだろう。私がこの手の話を出した時には。


「本当なんだって。明日この家に侵入してくる奴がいるから、二人に逃げて欲しいの。ホテルなら、私が払うから、ね?」


「はは、そんな奴が来たら俺がぶん殴ってやるって」


 テレビに目を戻した父が呑気そうに笑う。そんなあなたは刺し殺されるんだけどね、と突っ込んでやりたいが流石にそこまでは言えない。本格的に頭がおかしい扱いをされるだろう。今はまだ半信半疑だが。


「お父さん、縁起でもないこと言わないでくださいよ」


 父は母の言葉にも笑って、テレビを見ている。


「もう、お父さんったら。……麗羽、もう大人なんだから、そう言うこと言うのはやめなさいね」


 母は呆れた口調でそう言って、台所へ向かってしまった。これから夕食の準備をするのだろう。


 長々と十分は説得したが、やはりだめだった。分かっていても、辛いものがある。長い溜息を吐き、私は二階へ上がった。階段を上る途中で両親の話す声が微かに聞こえてくる。私を心配するような声。はいはい、大学ではうまく行っているので、心配しなくても大丈夫ですよー。内心で返事しつつ、また溜息をつく。


「上手く行かないなー」


 二階に上がり自室に入る。ベッドに転がしているスマホを見ると、一月一日の午後十時を表示していた。ベッドに寝転び、私はまた長く溜息をついた。瞼を閉じると、外の寒そうな音が屋内であっても私の身を凍えさせる。


 ……溜息ばっかりついちゃってるな。切替、切替。どうにもならないことを気にしてもしょうがない。次のことを考えなければ。


 父と母が動かせないのなら、対策をするしかない。どのみち、この家で迎え撃つつもりではあった。有明くんの様子を見た感じ、明日一月二日の深夜をやり過ごしても、また別の場所で襲われる可能性が高い。私に恨みが満載といった様子だったのだから。私としては殺されるほど酷いことをしたつもりはないんだろうけど、彼にとっては違うのだろう。


 はは、大学生活は順調ではなかったか。男にも女にも、恋愛トラブルを抱えてしまっているのだから。なんでこうなってしまったんだか。


 有明くんの告白を受け入れればよかったのか? 好きでもないのに? 考えてみるが、何回シミレーションしても結果は同じだった。


「ありえない」


 どこかの時点でやっぱり振ることになるだろう。そして今回と同じ結果になるだけ。むしろ、未来をたまたま知れている今回の方がいいかもしれない。なにしろ事前に準備ができる。


 その内の一つ、父と母を逃がすというのは出来なかったが、他の事なら出来る。用意するものは決まっている。


 有明くんは包丁一本でこの家に来たようだった。他に何か持っているようには見えなかった。あれは彼が用意したものじゃない可能性もあるけど、見分けはつかなかった。


 どちらにせよ、包丁を持つ可能性が高いと考えれば、彼を遠ざけたり刃から身を護るものが必要だろう。それに、いつでも未来に行ったり戻ったり出来るようにオレンジも必要だ。あとは明かり。懐中電灯でもあればいいだろうか。スマホでもいいのだが、念の為欲しい。


 他は……、思いつかない。警察を呼んでおくと言う方法もあるが、こんな話信じない。それに、だまして呼んでおいたとしても、彼に気付かれ、侵入が実行されなくなってしまう可能性がある。


 私の勘からいって、一度中断したところで有明くんは再度別の機会に襲ってくるだろう。ならば、今回の内にどうにかしておきたい。今回、彼をどうにもしないでやり過ごし、次に未来に跳んだとして、彼が襲ってくる同じ未来に行けるか分からない。


 頭の中に準備物と有明くんの凶行に対する対応を考えながら、眠りに入っていった。



 一月二日。未来で今日の夜中――正確には一月三日の午前過ぎ、真夜中に私の両親が刺殺される日。そうでなくなるには、これからの私の言動に掛かっている……、かもしれない。


 実際のところ、今日私が出来るのは準備をすることだけ。過去の私が未来に跳んだ日付以降から戻れた時間の間、今の私が関わることはできない。その時間は、また過去から跳んだ私が対処することになる。ただし、今の私が準備したものを持って。


 サツマイモのオレンジ煮などという大学芋に似たものを食べなければ分からなかった未来。母に聞いてそんな料理があることを初めて知ったが、まさかこれほど未来に行ったことを感謝する時がくるなんて、跳んだ時は思わなかった。


 時間が刻々と迫る中、父や母に見られないように私は準備した。スーパーに行ってオレンジを買い、青いペンギンがマスコットキャラクターのなんでも売っている店で防刃チョッキとさすまた、懐中電灯を買った。両親が親戚たちに対応している日中の内に、部屋に運び込む。


 通りがかった親戚からは、なぜかさすまたを持った私を見て曖昧な顔をされたが気にしてもしょうがない。親戚も一々さすまたを運んでいる娘のことなど、両親に報告しないだろう。


 二階の自室で準備したものを並べ、表面通りは父と母に言ったことなど忘れたように過ごす。父と母は特に何も言ってこなかった。きっと、諦めたと思っているのだろう。それか、また悪い癖だったのだ、と一人で勝手に納得していたのかもしれない。


 夜中。夕食を食べ、お風呂を済ませた私は、二階の自室でベッドの上に座っていた。床には準備したものが並んでいる。さすまたに、懐中電灯。防刃チョッキはすでに身に付けていた。準備万端と言いたいところだが、まだやることが残っている。


「うーん、なんて書けばいいかな」


 未来への手紙、いや、この場合は過去の自分への手紙か。手紙じゃなくてスマホのメモだけど。なにから書こう。まず、有明くんが襲ってくること、両親が殺されている可能性があること、相手は包丁を持っていること。色々とあるが、一番大事なのは自分の命を大事にしてもらうことかもしれない。なにしろ、これから過去の自分が来て、戻ったら、今度は私が対応する羽目になる。死ぬ間際になっていたら、ここまで対策した意味がない。


 諸々スマホに入力し、この時間に来た私がすぐに見られるようにしておく。さすがにベッドの上で、目の前に置いておけば気付くだろう。


 正直、両親を助けられるか分からない。前回は家の鍵が閉まっていなかったから簡単に入って来てしまったんだろうけど……、今回はしっかり閉めている。合鍵を持っていたり、ガラスを割りでもしない限り入って来ないはず。……合鍵持ってないよね? 有明くんならどうにかして作っていそうな気がしたが、すぐにそんなわけがないと思い直す。


 どのタイミングで家に侵入したのか分からないけど、私が跳んだ時点死んでいたとすればそろそろだが、戸締りをしていれば多少は遅れているはず。今頃、外で彼が物色しているかもしれない。


 スマホの時計を見ると、そろそろ時間だった。まだ有明くんが家に侵入した音はない。戸締りが利いているのだろうか――


 ぐらっと、目の前の景色が揺れた。時間だ。ぐるぐると視界が揺れ出す。もうすぐ未来に跳び、過去の私がこの時間にやってくる。


 吐き気を催しそうな気分の中、跳んだ先で死なないように心の準備をする。


 ――ガラスの音だった。警備会社に登録しているわけでもないこの家では警報音も鳴らない。階下から慌しい声が聞こえてくる。


 ぐわんぐわんと音さえも歪んでいく中で、私はただ未来へ跳ぶのを待つ。


 もし、この部屋に有明くんが入ってきたら。そこで未来に跳んでしまったら。嫌な想像ばかりが浮かんでくる。だが、可能性としては捨てきれない。 いつもは、こっちの感情などお構いなしに、いつの間にか未来に跳んでいるというのに、やけに長く感じる。


 早く、早く。気ばかり急いてもこの現象は私の味方をしてくれるわけではない。


 激しい音がしているのは分かる。でも、それだけ。


 私は激しい不安に苛まれながら――未来に跳んだ。



 ハッと気付くと私は車の中にいた。


 車はコンビニの前に止まっているようだった。目の前に、コンビニの雑誌コーナーがあるであろう棚が見える。眩しく感じ、すぐに目を背ける。ぶるっと寒さを覚え、エンジンを掛けて、車内エアコンをかけ、電灯を点ける。


 ふう、と一つ息が漏れる。


 上手くいった、のかな?


 え、と。何から考えればいいんだろう。思考が鈍く感じる。車のエンジンは切られている。運転席に座り――手元にはオレンジジュース。キャップは閉まっている。


 こっちではちゃんと買えたんだ。


 オレンジジュースにはコンビニのマークが入ったテープがしっかり貼られていた。


 どういう状況なんだろう。身体に異常はない。痛みも怪我もなし。防刃は着たままで、服に血がついているわけでもない。外では以前と変わらず雪が降っている。


 車内を見回すと、スマホが助手席に置いてあった。私はすぐに手に取り、電源を点ける。


 スマホを持って来れたから買うことが出来たんだ。そう一人で納得する。スマホのデジタル時計は一月三日の午前三時すぎを示してた。


 あとは――そうだ、誰かに連絡とかしているだろうか。もしくはメモを残していないか。


 メモ帳アプリを開くも、新しいことは書いてなかった。残っているのはこの時間に跳ぶ前に書いたことだけ。他にも電話やメッセージアプリ、SNSを開くが特になにかをした痕跡はなかった。


 逃げるので精一杯だったか。鍵を閉めてれば諦める可能性もあるかと思ったけど、跳ぶ直前に入ってきているみたいだったし。


 ……父と母は大丈夫だろうか。落ち着いてくると、ようやくそのことに思い当たり、自分の薄情さに呆れる。そこで、ふと思う。でも、私、警察に電話してないんだよね。


 スマホを見た限り、警察に通報した履歴はなかった。これはどういうことなのだろうか。警察に通報するほどの騒ぎにはならなかったのか、それとも――通報するどころではなかったのか。どちらかで状況が大きく変わる。そもそも、私が今の未来に来る直前に、騒ぎは起こっているようだった。あれで、通報をしないなんてことが有り得るだろうか?


 いや、とにかく父と母、両方に電話すれば分かるか。二人の寝ぼけたような声を想像しつつ、私は母に電話しようとして――


 ガンっ、と車体が大きく揺れた。


 なにっ? 私がスマホから顔を上げると、目の前には血まみれの男がいた。車体に乗り上げ、フロントガラスに手をついている男。


 有明くんだ。


 彼は目を見開き、必死の形相で私を見ている。


「見つけたぞぉっ! 麗羽っ!」


 ガラス越しでも聞こえてくる掠れた声。なんなんだ、この状況は。見つけた? 誰を。私だ。なんで? 殺しにきたんだ。なんで、なんで。私を恨んでいるからだ。


 有明くんは、笑っていた。不快さしか感じない笑い声が耳を突き刺してくる。どうしよう、どうしよう。逃げなきゃ。でも、また追い掛けてくるかもしれない。


 ガンっ、ガンっ。


 そう思っている内に、有明くんがフロントガラスを殴り始めた。割れるわけがない。なのに、ガラスはどんどん罅が入ってくる。嫌だ、嫌だ。


 苦しい。どうすれば、いい。どうすれば。……そうだ。


 私はいまでに持っていたオレンジジュースを見る。


 未来に行こう。まだ、死にたくない。未来に行けば、ゆっくり考えられる。一時とはいえ、この場から逃げられる。


 有明くんの異常としか思えない怒声が車内にまで響く。早く、早く。


 私はオレンジジュースのキャップに手を伸ばし、すっかり震えている手を強引に動かす。動け、動け。上手く開かない。


 キャップが外れると、ころころどこかに行ってしまった。


 逸る気持ちを抑え、私はオレンジジュースに口を付けた。とろみのある、濃いオレンジの味が酸味とともに舌の上を通り、喉を通った。ひんやりとしたものが胃の中に入ったのが分かる。


 ゴクゴクとオレンジジュースを飲み干す。ペットボトルから口を離すと、荒い息をしているのが自分でも分かった。


 そろそろ、ぐるぐると眩暈がするはず。


 だが、待てど暮らせど、私を未来へと跳ばせてくれるはずの予兆はこなかった。


 しんしんと降っている雪、声を荒げる有明くんと、ひび割れが増してくるフロントガラス。真っ赤に飛び散る血がフロントガラスを汚す。


 私はオレンジジュースを飲んでも、未来に跳ぶことが出来なかった――もう、私には未来がなかった。



――――――――――――――――――――


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オレンジの時間 辻田煙 @tuzita_en

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