父と母
その日の帰り、道子は同僚の国語の教師、幸子と学校の近くの例の古いお好み焼き屋に寄っていた。店の中には、その時間、部活帰りの生徒が数人見られるだけだった。
「道子先生、最近おかしいわよ」幸子は少しいぶかし気な表情を見せ、道子に言った。
「何処が?生徒から授業に対する不満でも聞いた?」
幸子が非常に鋭い感を持っている事を、彼女は知っていた。
「好きな人でもできた?」
幸子は、ためらわずに道子を問い詰めた。
「な、なに?私が恋をしちゃいけないの?」
道子は思わず語気を強め、幸子を睨みつけた。
「いや、私が心配してるのはね・・・。まさか、誰か生徒に・・・」
「何言ってるのよ。どうして私があんな子供相手に・・・」
そう言った道子は、きまり悪そうに幸子から目をそらせた。
すると幸子が言った
「あなた岡田先生の気持ち知ってるんでしょ?」
岡田は美男の体育の教師である。
彼は以前から道子に思いを寄せていた。
「このままでいいの?」
道子は幸子が岡田に思いを寄せているのを知っていた。
「あの先生・・・・・・」
「やめて!」道子が叫んだ。
「そう・・・、ならいいけど」二人は、それ以上何も言わずに伝票を持って立ち上がった。
そんな幸子の後姿を見つめ、彼女に気付かれているなら、琢磨本人も気付いているのではないだろうか。そう思った彼女の胸中に、恐怖というか喜びというか、強い衝撃が走ったのだった。
しかし当の琢磨はそんな事には、全く気付いてはいなかった。
彼はまだ17、今年の9月に18になるのだった。
一方、道子は5月にはもう26になるのだった。
そんな道子は、自分の中の女心に醜さ程覚える彼女だった。
そして、いつもの電車に乗って10分程度の帰り道だった。
彼女はこの電車の中の10分がなぜだか好きだった。
地下鉄で帰れば5分とかからない家路だったが、なぜか電車の10分を選んでしまう。
家に着くと、彼女は母に言った。
「帰りに、お好み焼きを食べてきたから晩御飯は、いらないわ」
「あらそう」言わなくてもこの時間に帰ってくる時、道子は、だいたい晩御飯を済ませていることを、母は分かっていた。すると道子は二階の自分の部屋に上がり、着替えを済ませ、再び母のいる居間へ降り、そしてテレビのスイッチをつけた。
「お父さんは今度いつ帰ってくるの?」道子はテレビを見ながら何気なく母に聞いた。大手商社に勤めている父は、道子が高校に入った時から、函館に単身赴任に出ていた。
「知らないわ」母は少し怒ったように言った。道子には、その時の母の心の内が見えていた。父は函館に女を作って、何時の頃からか、札幌には滅多に帰ってこなくなったのだった。しかし、母にはそんな父を非難することはできなかった。
何故なら、もともと父が単身赴任することになった理由は、母の浮気にあったのだった。
十年前、父が「函館に転勤になったから、みんなで引っ越そう」そう言った時、母は嫌だといったのだった。道子は函館の街に魅力を感じていたし、どうせ大学は札幌の大学を受験するつもりでいたので、反対はしなかった。しかし、母は絶対に嫌だといったのだった。その理由を父も道子も知っていた。その頃、母は週に二回体操に通っていた。その体操の講師と彼女は浮気をしていたのだった。
その講師とはもう別れたらしいが、そんな母が父の今の浮気を非難できるはずがなかった。母は、今の父の浮気を、あの頃の自分に対する復讐とさえ、とらえているらしい。それでも、道子は母の命を受けて、時々父の様子を探りに、函館に出かける事もあったのだった。彼女にしてみればいい観光旅行だった。経費はすべて母から出るのだ。
「函館に様子を見に行ってくる?」道子がその夜、母に、かまをかけてみた。
「べつに、そんなことしなくても、いずれ帰ってくるわ、そんなことよりあなた自身の事考えなさい。何時、結婚するの?好きな人はいるの?」
母が投げつけるように、道子に言った。
「いるわけないでしょ」道子が言う。
二人の寝る前のいつものやり取りだった。そうして道子は、自身の寝室へ入っていくのだった。
本当は、道子は家に帰っても琢磨が忘れられなかった。あの眼差しが、瞳が、彼女にはまるで紫の夜空に輝く美しい、二つの星の様に、静かに輝いて見えるのだった。道子はその美しく輝く二つの星に、恋してしまっていたのだった。
その琢磨の眼差しが、彼女は恋しくてしかたなかった。彼がいない、今の生活が寂しくてしかたなかった。
寝るときも、自分の寝室に入って、しばらく琢磨の、あの星のように輝く瞳を思うのだった。そして、「大丈夫明日会える。そして明日も特別授業があるわ・・・」
道子は思った。
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